35 蕎麦の匂いを知ってるか?

 その事件は3日目のことだった。

 

 騎士団の砦を過ぎると、そこそこの頻度で集落に行き当たるようになってきた。

 まさにあの砦が「辺境」の象徴なのかもしれない。その内側は辺境じゃないっていうこと。

 

 一日に見る集落がふたつくらいに増えた。なので、その分少し移動スピードは下がった。モンスターを倒すためだ。

 私たちにモンスターが寄ってくるという習性を活かせば、この辺りのモンスターを減らすことができる。私たちの経験値は上がり、住人にとっての脅威は減り、一石二鳥。まあ、経験値という点だけ取るとちょっとしょっぱいから、半分人助けのつもりでやっている。



「なんか、臭いね」


 そんな声が上がったのは誰からだったか。

 確かに臭い。有り体に言うと堆肥の匂い。この辺は酪農が盛んなのかなあ。

 そう思っていたら、だいぶ先に淡く白い絨毯のようなものが見えてきた。

 ピン、と私の中で点と点が線で繋がる。


「蕎麦の花の匂いだ……」


 新白梅小学校の近くにも蕎麦畑がある。だから私は知っていた。

 蕎麦の花は臭いんだよ。意味わからないけど臭いの。はちみつも色が濃くて癖が強い。

 そうかー、あれが風上にあると匂いが漂ってくるんだな、嫌だなあ――なんて思っていたら。


「ッシュン! クシュン」


 子供たちの列の間から、立て続けにくしゃみが聞こえた。


「せんせ、なんか、のど苦しい……ゼーゼーする」


 くしゃみを繰り返しながらそんなことを訴えてきたのは湊斗みなとくんだった。すっと私の頭から血が下がる。

 

 蕎麦アレルギーだ!


「馬に湊斗くんを乗せて下さい! とにかくあの蕎麦畑から離れないと! 誰か、先生と湊斗くんと一緒に来て」

「俺が行くよ!」


 素早く付いてきたのは智輝ともきくんだった。桂太郎くんより早かった。こっちへ、と手を伸ばすハリーさんの馬にふたりを乗せる。智輝くんはくしゃみと咳で震える湊斗くんを庇うように、馬とハリーさんの間で湊斗くんをしっかり抱きしめた。

  

「ミカコさんは私の馬に。レイモンド、後は頼んだ。私たちは蕎麦畑を迂回してから王都への道をそのまま進む」

「了解しました」


 クリスさんに手を伸ばされ、私は彼の馬に同乗した。


 馬は多分全速で走っていた。風がびゅうびゅうと耳の横を過ぎていくから、他の音は聞こえにくい。それでも、湊斗くんの咳き込む苦しそうな音は時折聞こえた。


「おそらく、蕎麦畑に脱穀した後のそば殻とかが捨ててあったのではないかと思います。飛んできた粉を少し吸うだけでも、蕎麦のアレルギーは症状が出るんです」


 私自身は身内も含めて蕎麦アレルギーとは無縁だけど、「蕎麦アレルギーは命に関わる」ということは以前から耳にしていて「大変だなー」と他人事のように思っていた。


 担任することになったクラスの中に湊斗くんという蕎麦アレルギーの子がいると知った時点で、私は初めて蕎麦アレルギーについて勉強し、その恐ろしさに震えた。

 学校でも、アレルゲンが混入する可能性があるものが給食で出るときは、湊斗くんは専用に用意された別メニューを食べる。

 他のクラスには卵アレルギーの子なんかもいて、「同じメニューを食べられないのは可哀想だな」なんて思ったりしたこともあるんだけど。


 とんでもない。命を守ることに比べたら、時々メニューが別になってしまうことくらい!


 蕎麦畑が風下になって、見えないくらい遠くまで離れてから、私は馬を止めてもらった。


「智輝くん、椅子脱衣所出せる?」

「オッケー! 椅子召喚!」


 返事ひとつで智輝くんは椅子脱衣所を出した。洗面台が付いているので、湊斗くんを抱えてそこまで連れて行き、口を濯がせ、鼻も水を吸って出す事を繰り返させた。

 

 途中でそれをハリーさんに替わってもらい、湊斗くんのリュックを少し震える指先で探る。

 ファスナーを開けて着替えを掻き分け、背面側の小さなポケットを探り当てる。そのファスナーを開けて手を突っ込むと、私の求めていたものがそこにあった。


 アレルギーのおくすり、と手書きされた紙が入っている、小さなチャック付きポリ袋。その中には粉薬のパックが入っていた。

 重篤なアレルギーを持つ息子のために、湊斗くんのお母さんがランドセルにも遠足用リュックにも必ず入れている薬。

 3袋入っていたうちのひとつを手にしながら、私は湊斗くんのお母さんを想って涙ぐんだ。


「湊斗くん、お薬だよ。これ飲んで」


 ゼイゼイと苦しそうな息をしながら、湊斗くんは私が破いた紙袋の中の薬を口に入れ、手渡した水筒の水で飲み下す。たくさんお水を飲んでいるのは、きっとお母さんからそうするように言われているんだろう。


「椅子テントも出したよ」

「智輝くん、ありがとう!」


 念のために湊斗くんと智輝くんを着替えさせ、そば粉が付着しているかもしれない服は椅子脱衣所に置いて、智輝くんの出した椅子テントに湊斗くんを寝かせる。

 ハリーさんとクリスさんにはテントには入らないようにお願いして、脱衣所で念のために私も着替えた。


 脱いだ服をカゴにぽいと入れて棚に戻せば、次に引き出したときには綺麗に洗濯されて畳まれている。このシステム、すっごい助かる。

 私の髪の毛にもそば粉がついてたらどうしようと思ったけど、洗面台でざーっと頭を水洗いして、ドライヤーを掛けて済ませた。後でお風呂も出してもらおう。


 私が脱衣所から出ると、クリスさんとハリーさんがテントの前でおろおろとしていた。


「ミナトは大丈夫でしょうか」


 テントを見遣りながらハリーさんが心配そうにしている。

 騎士団の中でも年若い彼は瀕死のところを桂太郎くんに助けられたこともあって、子供たちにとても親切にしてくれる。聞けば歳の離れた弟がいるらしくて、子供たちにその弟さんを被せて見ているのかもしれない。


「卵を食べると、体が痒くなったりする人とか身近にいませんか?」


 この世界にはまだアレルギーの概念はないだろう。うちの親ですら昔はアレルギーって言葉はほとんど使われなかったって言ってるくらいだ。


「あっ、いますね」

「第1分隊のレオンが確かそうですね」

「それと同じなんです。普通の人にとって何でもないものでも、体の中に入るとその人にとっては悪いことを引き起こす……。そのレオンさんには、無理に卵は食べないように伝えて下さい。あと、黄身よりも白身の方が危ないということも。

 湊斗くんは、蕎麦が体にとって良くなくて。さっきみたいに、食べたわけでもないのに症状が起きたりするのが蕎麦の怖いところなんです。粉が舞ったり、そば殻があったりするだけでも症状が起きる。咳やくしゃみが止まらなくなって、呼吸が苦しくなって」

「それは恐ろしいですね。今は街道沿いに移動していますが、この先は東に寄ると山がちになり、蕎麦を栽培している地域が増えます」

「避けられますか?」

 

 私たちの世界なら、蕎麦畑の近くを通ったからってアレルギーが即起きたりはしない。

 でも、この世界だとどういう風に扱っているかわからないから怖い。

 蕎麦畑があるって事は近くにそれを食べている集落があるって事で、もし蕎麦を製粉しているための水車小屋とかあったら、完全にアウト。絶対細かい粉が飛んでくる。


「避けましょう。街道を行った方が日数は短縮できますが、それよりも命の方が大事です」


 クリスさんは即答してくれた。凄く頼りになる! きっとこういう判断を即座に下せるところが、この人が隊長になっている理由だったりするんだろうな。


「本当だったら、ああいう発作が起きたら、お医者さんに見せた方がいいんですが、無理ですから。お薬は飲んだし、それで落ち着くのを祈るしかないです」


 私たちは無言で、時折咳が聞こえてくるテントを見守るしかなかった。



 しばらくしてから、智輝くんがテントからひょっこりと顔を出した。


「湊斗くん、寝た」

「あああ、良かった」


 私は思わずその場に座り込んでしまった。咳もいつの間にか治まっていて、薬で対処できる範囲だったのを心から感謝した。

 

「念のためにお風呂出して置いてもらえる? そば粉が付いてる人が湊斗くんの近くに行くと危ないんだ」

「うん。椅子召喚」


 私が頼むと、智輝くんは椅子脱衣所の隣に椅子風呂も出してくれた。


「先生が最初に入って」

「そうだね。智輝くん、いろいろありがとうね。すぐ付いてきてくれて、先生本当に助かったよ」

「……俺ね」


 私がお礼を言うと、智輝くんは表情を引き締めた。この子のこんな真面目な顔は、今まで見たことない。


「前に俺が熱を出して、みんなに迷惑掛けたから」

「そんなこと気にしなくていいんだよ! あれは先生が智輝くんの体力をちゃんと考えてなかったのがいけなかったんだから」

「ううん。俺が熱を出して寝込んでる間、みんなが俺のこと心配してくれたからね、誰かに何かあったら、今度は俺が助けるんだって思ったの」

「……そっか」


 子供は子供なりに、起こった事を受け止めながら成長している。

 クラスで一番小さい智輝くんが、今は少し大きく見えた。


「どうしよう、おうちに帰ったら、智輝くんが急に大人っぽくなっててお父さんとお母さんが驚いちゃうね」


 だから、私はそんな事を茶化すようにいいながら、彼の頭を撫でる事しかできなかった。


 

 レイモンドさんが率いる本隊が到着してから全員の入浴と洗髪、それと服の洗濯を徹底したためにその場で待機する時間が大幅に掛かってしまった。

 幸いにも湊斗くんのアレルギーは落ち着いて、私はほっと胸を撫で下ろした。


 王都へは……あと何日かな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る