第30話 とある少年の話②

 少女は白いワンピースにサンダルといった、如何にも夏らしい涼しげな格好をしていた。そんな白色に良く映える黒く絹のような長い髪をなびかせながら、ズカズカと少年に近づいていく。


「君! 名前は?」


 少女はベンチに座る少年に目線を合わせるように屈み込み、じっと目を見つめながら問いかける。


「あっ……い……」


 少年は上手く言葉を発する事が出来なかった。


 それもそのはずだ。少年はここ数年間、まともに喋っていなかった。


 音の出し方を忘れてしまった喉は、声を出そうとすればするほど余計な力が入り、空気が詰まってしまう。


「ちょっと、だんまりじゃ分からないわよ」


 ぐいっと顔を近づけてくる少女に思わず体がのけぞる。


「な、ま、え、は?」


 少女は眉間にしわを寄せながら語気を強める。彼女の圧にすっかり、怖じ気づいてしまった少年の思考は完全に止まっていた。


 そもそも、少年は自分の名前が分からなかった。


 長い間、「おい」とか「それ」でしか呼んで貰えなかった少年はいつしか自分につけられた固有名詞なまえなど存在しないのだと錯覚した。


 在った事自体は覚えている。


 しかし、役割を失ったそれは少年にとってはどうでもいい事だった。


「うーん……言いたくないなら、それでも良いけどさー」


 少女は少年から離れると、体の後ろで手を組み、再び会話を続けた。


「ちなみに、私の名前は笑香えみか! 笑顔が香るって書くんだよ! 良い名前でしょ!」


 そう言って、自分の名前を自慢気に少女——笑香は、その名前に負けないほどの満面の笑みを浮かべる。


 そんな彼女の表情を見て、少年は奇妙な感覚に陥った。


 人生で感じた事のない温もりが、じんわりと胸の中で広がっていく。形容し難いざわつきが体中を駆け巡る。


 少年にとってその出逢いは真っ暗闇の世界に差し込む一筋の光だった。


 笑香は少年の横に座り、彼と一緒に星を見上げる。


「全く、こんな時間に出歩くなんて不良少年だね」

「ち、ちがう……よ……」


 ようやく調子を取り戻してきた声帯が正常に機能し始める。


「冗談だよ。君の事をちゃんと見れば、何か事情があるんだって分かる。ていうか、ようやく喋ってくれたね」

「う、うん……君はどうして——」

「君じゃなくて笑香!」

「ご、ごめん……笑香は何しにここに来たの?」

「星を見に来たの。今日は天気も良かったから、よく見えると思ってさ。この公園は結構お気に入りなんだよね」

「そうなんだ……」


 少年は不思議に思った。


 何故、この人は僕に話しかけてきたのだろう。


 自分が周りの人間とは違う異端である自覚が少年にはあった。それは、数年前まで通っていた学校で痛いほど思い知らされてきた。


 気味悪がる者、好奇の目を向ける者、罵倒する者。彼に示す反応は様々だったが、誰も彼に近寄ろうとはしなかった。


 しかし、笑香はまるで少年と初めから知り合いだったかのように話しかけてくる。


 少年はそれが不思議でならなかった。


 そして、それを心地良いと感じていた。


「君もここに良く来るの?」

「ううん……今日が初めて」

「そうかい、そうかい。悲しい事や嫌な事があったら、またここに来るといいよ。もし会えたら一緒に星を見よう。それじゃ、またね。早く家に帰るんだよ」


 笑香はそう言うとその場を去って行った。


 少年は暫く、その場から動く事ができなかった。頭の中が混乱し、状況を整理するのに手一杯だったからだ。


 数十分ほど、その場で今起きた出来事を考えたが、納得のいく答えが出なかった少年は、どうせもう会うことはないのだから考える必要はないと結論づけ、家に帰る事にした。


 家に帰ると母親は既に就寝していて、男の姿も見当たらなかった。


 取りあえず、自分の居場所がまだそこにあると安心した少年はいつもの部屋に戻り、ボロボロの薄いタオルケットに包まる。


 久しぶりに外の世界に触れ、疲れを感じていた少年は眠気はあるものの、夜空の星の美しさと、その美しさにも引けを取らないほど印象的だった笑香の満面の笑みが脳裏にちらついて、何度も目を開けてしまう。


 少年の心には色が戻り始めていた。


 


 

 

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