救い
世界が朱く染まる。悲鳴が彼方此方から聞こえる。
木造の家屋からは残らず火炎が噴き出し、追い立てられるようにフェルパーが飛び出した。
瞬時にその躰に矢が突き立てられ、がくりと膝から崩れ落ちていく。
足元には刃によって身を裂かれ、血だまりの中に沈んだうつろな瞳の同族たち。
二つ隣の家の、遊ぶ約束をした子。覆いかぶさるようにして死んでいるのはその母親。家屋に縫い付けられるようにして立ったまま死んでいるのは、確かまだ5歳になったばかりの子だったはずだ。
そこにも。ここにも。それが誰であったか全てが鮮明に思い出せる。自分の暮らす里、自分の世界の全てが、皆死んでいた。
そして自分の足元に仰向けになって転がっているのは、自分の。
「おかあ、さ」
いつしか悲鳴は止んでいた。
周りに、屈強な男たちが集っている。下卑た笑みを浮かべて、自分を見下ろしている。
そんな男たちよりひと際強大で大きな剣を背負った男が、躯を何の感慨もなく踏みつぶしながら近づいてくる。
泥にまみれたブーツの底が母親の顔に叩きつけられる光景に、怒りを向けたくても恐ろしくてできなかった。
人間のものだとは思えない凶暴な輝きを宿した瞳が歪み、節くれだった無骨な大きな手を伸ばしてくる。
「いや……」
手が、迫る。
「やだ……やだ」
視界が、覆われ――。
「わぁぁぁっ!!」
あらん限りの叫び声をあげて身を起こして飛び出そうとしたが、誰かに押さえつけられた。
「大丈夫! 大丈夫だから! 落ち着いて!」
「あぁーっ!! わぁぁぁっ!! わぁぁぁっ!!」
何が起きて、ここがどこで、必死に抱きしめて押さえつける者が誰か、まるで解らなくてその誰かの背中を掻きむしった。
「大丈夫だ、大丈夫だよ。ここは安全だからね……」
絶えず頭と背中を撫でてくれる温かい手。ゆっくりと染み渡るような優しい声。
「あ……」
「もう、怯えなくていいんだよ。貴女を傷つける人は、ここには居ないからね」
「っ……! うぁぁぁっ……!!」
目の前にいてこうして抱きしめてくれているのは、自分の命の恩人だと気づいて暴れることをやめても、彼女はひたすら撫で続けて、声をかけ続けてくれた。
けれどそれが母親の手によるものだったらどんなにいいかと考えて、無性に悲しくて、力いっぱい抱擁を返して再び泣きじゃくった。
安堵したことで初めてはっきりと認識してしまった、生まれ故郷も家族も知人も全て失ったのだという重すぎる事実に、泣き叫ぶ以外に耐える術を知らなかったからだった。
「あ……。アタシ……」
多少の落ち着きを取り戻したのは、たっぷりと涙を流し、そしてふと目にした自分の手が真新しい血に赤く染まっていることに気づいた時だった。
その血が誰のものであるか、それに気づいた瞬間否応なしに頭の芯が凍えついたのだ。
「ごめんにゃ……さ……」
「ん? あぁ……。平気だよ。大した怪我じゃないさ」
事も無げに涼しげな顔で応じるエリチェーンに、そんな筈はないと思った。自らの手、フェルパーの爪の強靭さ、その危険性は自分自身が一番わかっている。
「だって……!」
「傷つけたくてやったわけじゃない。そうだろう? 気に病むことはなにもない。幸い、ここには医者がいるからね。ふふ……」
エリチェーンの肩越しに見れば、そこにはもう医療品を手にした老医者が呆れたような顔をして立っていた。
「ほれ、さっさと上を脱いで背中を出せ」
「うん。お願いね、先生」
抱擁を解いて、エリチェーンが治療される様を見つめる。傷口を洗い流すための水が老医者の手によって掛けられると、彼女は眉をしかめた。
「いっ……つつ」
「なぁにが『大した怪我じゃない』じゃ。カッコつけおって。……ま、痕が残るほどではないな」
続いて老医者は軟膏をたっぷりと手にとって、傷一つ一つに丁寧に塗り込んでいるようだった。一通りそれが終われば清潔なガーゼにこれまたたっぷりと軟膏を塗って傷の上に貼り、最後に包帯をきつく巻き上げてみせた。
「少なくとも一週間は毎日ワシのところへ来い。傷が化膿せんようにな。それぐらいの余裕はあるじゃろうな?」
「今日行商から帰ってきたばっかりだ。休暇を取ろうと思ってたところだったよ」
「よろしい。……で、そっちのフェルパーのお嬢ちゃんじゃが」
治療が終わり、老医者がこちらを見る。叱責されるのかと思い身を固くしたが、その予想はあっさり外れた。
「手をしっかり洗ってもらうぞ。不衛生じゃからの。こっちに来なさい」
ひとしきり手を洗い終えた頃には、自分が寝かされていたベッドに腰掛け話をするぐらいの落ち着きは取り戻せていた。
向かいのベッドには背中の傷の処置が終わったエリチェーンも腰掛けている。先の出来事で上着はだめになったようで、老医者からローブを1枚借りて身につけていた。
「気分は、どうかな。少し、落ち着いた?」
ゆっくりと静かにこちらのご機嫌を伺うエリチェーンの顔は、少し緊張の色もある。笑顔がぎこちないのだ。
その声色は先程も感じた、染み渡るような美しく優しいもの。彼女が先程の怪我を咎める気は毛頭ないことがこの声色ですぐにわかるものだった。
彼女はあまり笑わない人なのかもしれない。そう結論づけて、答えた。
「……うん。ちょっと、だけ」
「よかった。……命の危機は完全に去ったと見て間違いないだろうね。もう大丈夫だ」
「あにゃたのおかげ……えと、センセーも。……ありがとう」
「これが仕事じゃからの。大事なくて何よりじゃ」
薬品類を整頓して仕舞い終えた老医者は茶を淹れようと湯を沸かしに取り掛かっている。それを見届けながら、エリチェーンが切り出した。
「少し貴女と話をしたい。いいかな?」
「……うん」
「ありがとう。まず、名前を教えてくれるかな? 私はエリチェーンだ。貴女は?」
答えに詰まる。
「……言えない、かい?」
「そ、そんにゃことにゃいっ! ただ、アタシは……」
――まだ、名前がない。
そう告げたことでエリチェーンの顔に驚きの色が浮かんだのがはっきりと分かった。老医者も茶を入れる準備を一時止めてしまったようだ。
「アタシの里は、古いしきたりがあって……。一人前ににゃるまでは、にゃまえがにゃいの。でも、アタシはもうすぐお祭りを迎えて、そこで儀式を受けたら、一人前ににゃって――」
平和だった頃の、誰も彼も生きていて、祭りを楽しみに待つ子どもたち。
"素敵な名前を考えてあるわ"と微笑んでくれた母親沢山のおおごちそう笑い声抜けるような青い空太陽の光手をかざす未来を心待ちにした自分。
「にゃまえ……もら、えっ。そしたら、言えたの、にっ……!」
もう戻れない。
溢れ出た涙を必死に拭った。そうしていると、誰かが優しく抱きしめてくれた。言うまでもなく、エリチェーンだった。
「ごめんなさい。知らないとはいえ、傷つけるような質問をしてしまって。……貴女のことをなんと呼ぶか、これから一緒に考えていこうね」
「……うん……」
「……貴女の故郷はどこにあるか、わかるかい?」
正確な位置を教えるのは難しかった。エリチェーンが持ち出してきてくれた地図を見ても見当がつかなかったのだ。
里の周辺の地形をそらで言えても、それは里という小さな世界にのみ通用する覚え方だった。
しかし全く手がかりがないわけではなかった。
「里によく来てた商人さんのことにゃら、覚えてる。『アルガル』ってところから来てるって言ってた……」
エリチェーンがベッドの上に広げた地図を食い入るように見つめる。
「……ランズベル王国にある都市の一つだ。確か……あった。アルガル。大陸のほとんど北端に位置しているな。貴女の言っていた景色のことも考えると……このあたりかな?」
そうして示された地点は、地図の上ではなにもないことになっている。だがフェルパーの里が地図に書き加えられてないことはそう珍しい話でもないと彼女は言う。
「……たぶん」
地図を初めて見る自分にとっては、筋道立てて説明されても言葉を濁すしかなかった。
「隣国の北方からここまで……。よく、頑張ったね」
「……アタシこれから、どうにゃるの?」
「ん、そうだね……。まずは傷をしっかり治して、躰をすっかり清潔にして、食事もしっかりして。……元気になったら貴女の故郷に送り届けて――」
「故郷にゃんてもうにゃい!!」
大声で遮ったことで、エリチェーンの肩がビクリと震えた。
「みんにゃ……アイツらに、みんにゃ……殺されたっ! 誰も、いにゃい! にゃにもにゃい! もうアタシしか残ってにゃいんだよ!!」
また涙がこぼれてくる。怒りと悲しみと不安と、綯い交ぜになった感情が頭の中をぐちゃぐちゃにする。
「……ごめん」
エリチェーンの謝罪も、慰めにはならない。彼女が悪いわけではないと頭では解っていても、そういった理解を示すような余裕はもう残っていなかった。
「どうして、にゃんでアタシ、だけ……。みんにゃに逢いたい……お母さんに逢いたいよぉ……っ!!」
怪我の治療をされたところで、心まで治ったわけではない。この先どうすればいいのか、何のために生きればいいのか、なぜ自分だけがと全てを呪いたくなる。
今すぐにでもこの悲しみから開放されたい、楽になりたい、そう思った瞬間、手は自分の首筋に掛かっていた。
「まっ、待て!」
老医者の慌てたような声にも手は止まらず、力が入る。
「やめるんだ! 早まるんじゃない!」
しかし、爪を立てるより早くエリチェーンに掴まれて引き剥がされていた。
「はにゃして! もうやだ! アタシもあそこでみんにゃとおにゃじように……死んだほうがよかったんだ!!」
「そんなはずがない! 生きようと思ったから貴女はここに居るはずだ! 貴女の家族も、友人も! ……生きてほしいと願ったはずだ!! 貴女を護ろうと戦ったはずだ!! 違うかい!?」
エリチェーンは必死に手を掴んで押さえつけながら、こちらを真っ直ぐ見据えている。
自分のことでもないのに今にも泣き出しそうな顔をして、堪えるように俯いて言う。
「死にたくなるほど苦しくて辛いかもしれない。だけど……それだけは、だめだ……。きっと、悲しみは乗り越えられるから。だから、諦めないで……」
「無理だよっ……! 誰も、いにゃいもん! 一人でそんにゃことできるわけにゃいもん!! お願いだからはにゃして……死にゃせてよぉ……!!」
抵抗を続けるが、エリチェーンは決して力を緩めなかった。
「……私がなる!」
そして突如、彼女は宣言した。
苦悩に満ちた顔が目の前にあった。だがそれが向けられたのは僅かな時間で、彼女は大きく首を振った。
「私が貴女の友人になる! 貴女の、家族になる! それではだめか!?」
迷いを吹っ切り、決意を固めた必死の形相で問いかけるエリチェーンのその言葉に、抵抗も忘れた。
「貴女の成長を褒めよう、間違いがあれば叱ってみせよう! 帰る場所だって、私が作ってみせるから!」
「どうして、そんにゃ……」
「生きてほしいんだ! 貴女に死んでほしくない……それが理由だ! 不足かい!?」
今日出会ったばかりで、幾ばくも経っていない。そんな人間の言葉なんて信用できるはずがない。
その筈だったのに、なぜこんなにも彼女の言葉は心に染み渡るのか。
「にゃんで……にゃんでっ……」
救われたと思った。そう思ってしまったがために、再び自分の首筋に手をやることはもう出来なかった。
力いっぱい掴んでいた手を離したエリチェーンが、もう一度、今度は優しく手を握る。
「……一緒に生きよう。そしたらきっと、貴女の悲しみも一緒に乗り越えられるから」
微笑みを浮かべた彼女の目尻に微かに光るものが見えたのは、きっと気のせいではなかった。
「……肝が冷えたわい」
大きなため息をついたのは老医者だ。なにか薬を手に持っていたようだが、戸棚に仕舞い込んでいる。
「茶を淹れてやるから、二人ともそこの椅子に座って少し待っとれ。もう少しじゃからの」
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