第一話:あなたの名前は
決死の逃亡
やっとの思いで森を抜けだした自分の顔に降り注いだ眩い月光に、金色の目を細める。まあるい満月が静かに夜空を彩って、自分を見下ろしていた。
いつもなら、その青白い輝きを放つ姿に落ち着きを覚えていたに違いない。だが今は、それがひどく恐ろしいものに見えて仕方がなかった。
見惚れも、恐れもする暇はなかった。逃げなくてはならない、もう後戻りはできないんだと自分に言い聞かせて必死に歩く。
生暖かい風が髪を揺らす。満足に洗えもしていないから、きっと銀色も輝きを失っているに違いない。
後ろ手に縛られた両手が恨めしかった。これさえなければ、この猫の足で機敏を以ってとっくに地の果てにだって逃げ出せていただろう。
だが現実にここに居るのは、がむしゃらに指先で縄を弄り、一向に緩む気配のないそれに苛立ちよたよたと歩く、薄汚い服一枚纏った情けない姿のフェルパーだ。
口中の鉄臭い血の味に顔をしかめて道端に唾を吐き捨てた。もうすっかり残っていないと思っていたのだが、想像以上に激しく噛み千切ったらしい。
赤黒い肉のかけらが土の上に転がったのが見えた。従順な振りをしていた女の自分にすっかりと騙されて、監視という役目より男としての本能を優先した悪党の残り香だった。
「いたぞ――!!」
人間よりずっと優れた、頭の上に突き出た猫の耳に背後からのそんな怒鳴り声が届いたのは、自分が噛み千切った男のことを『いい気味だ』と鼻で笑った瞬間で。
振り返れば、二つの人影がまっすぐ自分に向かって距離を詰めてきている。血の気が一気に引き、春の陽気が自分の周囲から消え失せてしまったかのように躰が震えた。
辺りにはもう身を隠す場所も追っ手をごまかす場所もない。遥か前方、森林を突っ切るようにして造られた街道の果てに灯る赤い輝き、それだけが今の自分にとっての最後の救いだった。
あの輝きは即ちヒトの文明がそこにあるという証拠。恐ろしい悪党どもの魔の手から逃れるためにはあれを目指すしかもう選択肢は残されていなかった。
だが、果たしてこの状態で、あの悪党どもに捕まるより先に辿り着くことができるだろうか?
考えを無理やり打ち切り、ただひたすらに目を見開いて前を向き、歯を何とか食いしばり、歩き続ける。そうまでしても遅々として速度は上がらず、輝きはいつまでも遠いままだった。
空腹と恐怖が綯い交ぜになって、涙がとめどなく零れだす。
「――ッ!!」
声が出ない。本当はこの胸の痛みや重たい苦しみを力の限り叫んで吐き出してしまいたかった。
しかしカラカラに乾いてしまった喉は叫ぶだけの力を残しておらず、代わりにガチガチという歯の音だけがいつまでも続いている。
「たす、けて」
「たすけ、て。だれ、か」
「たすけて……!」
掠れた声で何度も何度も、そう口を動かしながら歩き続けた。『あの光のところへ行けば助かる』、ただそれだけを思いながら足を動かし続けた。
あと少し、あと少しと自分に言い聞かせ、ついに森林を貫く街道の入り口に立ったことでその思いは最高潮に達した。
「……あ」
そうして他の一切を思考の外に追いやっていたことが、ただの現実逃避であったと気づけたのは。
自分の躰が強く引っ張られるような抵抗感、次いで訪れた衝撃と痛みのせいだった。
「い、いや……やだっ、やだっ! だれかったすけ――!!」
自分を引き倒した二人の屈強な男は、すぐさま小汚い布で猿轡を噛ませてきた。助けを求めるしゃがれた声はすぐに封じられ、もう叫ぶことはできない。
「ん、ぐぅッ!?」
それでも構わず暴れに暴れ、もがき喚いていた自分の下腹部に強烈な衝撃が走り、すぐさま鈍痛が身体中に広がり始めた。
男たちのごつごつとしたその大きな握りこぶしで腹を思い切り殴りつけられたのだと気づいた頃には、二発目が叩き込まれていた。痛みから逃れようと身悶えしたら、更に殴られた。
たまらず抵抗を弱めると、男たちは待ってましたとばかりに街道の脇、木々が鬱蒼と立ち並ぶ森林へと自分を引きずり込んでいく。
男達の背中や周囲の木々が陰になったことで、彼らの表情を窺い知ることはできない。唯一、命を何とも思っていない冷酷な光を佇ませた目だけが爛々と輝いていて、その恐ろしさに震え上がってしまう。
「可愛い顔してやることエグいなぁ、オチビちゃん。お前が噛み千切ったアイツ、死んじまったんだぜ?」
スキンヘッドの男が言う。もう一人のバンダナを巻いた男が堪え切れなかったように吹き出し、ひとしきり笑って続けた。
「股抑えて蹲ってよぉ、『痛ぇ、痛ぇ~』って涙まで流してな。傑作だったぜ」
「アイツ、ちぃっと力が強ぇからってデケぇ面してて気に入らなかったんだよな。いい気味だ」
「『商品』に疵つけた後どう言い訳するつもりだったんだろうなぁ? よしんばコイツが大人しく咥え込んだところでお頭にぶっ殺されるだけだったってのに!」
「まったくな。馬鹿が消えて清々した。そこだけは礼を言っとくぜ、オチビちゃん」
仲間が死んだというのに毛ほども悲しむ素振りのない男達の、下卑た笑い声が降り注ぐ。
「……で、だ。お頭から『抵抗するなら足一本は潰していい』と言われててな?」
ぴたりと笑い声が止んだ瞬間放たれたその言葉に、背筋に冷たいものが走る。
「ウチの何人かがオメーラの足を『お守りだ』っつって持ってるの知ってるだろ? 俺も欲しくなっちまってよぉ。だから……」
「――暴れたってことにしてさ、その足一本貰うわ。おチビちゃん」
「んっ……!? んんうーーーっ!!」
まだこんなに力が残っていたのかと思えるぐらい無我夢中で暴れる。だが大の男二人を相手にはそれもさして意味は持たなかった。
再び下腹部に拳を叩き込まれ、更には節くれ立った歪んだ指で首筋を締め上げられると、もう何もできない。
バンダナの男がすらりと短剣を抜き放つ。血脂に汚れた刀身が月光を受けて鈍く輝く光景が目に映る。
足首を掴まれゆっくりと刀身が迫り、その刃が食い込んだ冷たい痛みを感じたその瞬間、もう終わりだと思った。
――だが。
「しっ。……誰か来やがった」
車輪の音が徐々に近づいてくるのに気づいた。男達も気づいたらしい。刃を進める手を止めた。
素早く武器を鞘に納めた彼らに引きずられ、木陰へと身を隠す。
音は確実に大きくなり、やがて一台の幌馬車が現れ街道を緩やかな速度で走ってくるのが木々の合間から見えた。
男たちが囁く。
「商人だ」
「一人か?」
「みたいだな。しかもありゃあ……女だ、若いな。上玉だ。ついでにやるか?」
「いいな。……見ろ、月が隠れる。一気にやっちまおう」
彼らはヒトではない。飢えた獣だ。悪辣さを考えれば魔物と表現したほうがより近いのかもしれない。
ここで何もしなければ、犠牲者がまた増える。だが、今の自分に何ができるというのだろう?
「(……縄が)」
その疑問は、手首を拘束する縄が緩んでいることに気づいた瞬間に氷解した。
空に視線を向ける。満月が雲に隠れようとしていた。もう猶予はそれほど残っていない。
男たちの意識はもうすぐ目の前を通過する幌馬車に向いているようで、縄を気づかれずに解くにはさほど神経を使うことはなかった。
最早無力ではない。生半可な防具など歯牙にもかけない自らの爪は、男たちに一泡吹かせるに十分な武器だ。
チャンスは一度きり。彼らが商人を襲うタイミングとして定めた、月光が途絶えるその瞬間。
「ぎゃっ!!」
辺りが闇に包まれたと同時に、まずは自分を抑え込んでいたスキンヘッドの男の目前を爪で切り裂いた。
頬に生暖かいものが降り注ぐが、気にせず立ち上がり体勢を整えようとした。
「てめぇっ!!」
だが完全に整え切る前に、バンダナの男の突き出した短剣の切っ先が自分に迫っていた。下腹部を狙われている。回避できない。受ければ、死ぬ。
「ぐぅっ……!!」
咄嗟に体の向きを変え、足を上げ大腿で受けた。凍えるような衝撃が走り呻き声が漏れる。だが恐れることなく、全力でその足に力を込めて筋肉を収縮させた。
「なっ!?」
がっちりと刃を掴んだ肉は引き抜くことを許さず、それはバンダナの男に驚きを与え、隙を生ませた。
その首筋に爪をひっかけ、一気に切り裂く。寸分の狂いなく頸動脈を断ち切った。
「あ、が」
勢いよく噴き出す鮮血を止めようと無駄な足掻きを繰り返す男の動きが徐々に緩慢になっていく。
「いてぇ、いてぇよぉ!! 俺の目がッ……どこだぁ、くそぉっ!! ぶっ殺してやる!!」
目元を抑えよろよろと起き上がったスキンヘッドの男は、血涙を滝のように流しながら怨嗟の声を上げている。しかし今や盲目となった男は何の脅威でもない。
構わず街道へ飛び出そうとしてよろめく。早くも刺された側の足の自由が利かない。
足に生えた短剣を思わず抜きたくなるが、それが命を脅かす行為だと知っている。
木々にしがみつきながら街道に向かい、その道端に倒れた。月が再び顔を出し、辺りを照らし始めた。
ここまでの出来事はごくごく短時間のもので、まだ幌馬車は目と鼻の先にあった。しかし明らかに速度を上げてここから逃げ去ろうとしている。
「たすけてっ……!!」
もう自分の足で街までたどり着くことは絶望的で、あの馬車だけが最後の望みだった。最後の力を振り絞って、大声で助けを求めた。
――果たして、馬車は止まった。御者台から女が降りてきて駆け寄ってくる。すぐに肩を貸してくれた。
「来なさい、急いで!」
「戻ってこいクソ猫ォ!! あああああっ!! クソッ!! クソォッ!!」
見当違いの場所に短剣を振り回し、怒号を張り上げる男の声を背に、女の肩を借り必死で馬車へと向かう。
荷台の中の質素な敷物の上に転がり込んだときにはもう刺された方の足に激痛が走り、脂汗が噴き出していた。
すぐに馬車が発進し、ガタガタと音を立てた。その振動すら苦痛に感じる。
致命傷かどうか、それを推し量るのは希望が砕かれそうでやめておいた。少しでも気を紛らわせるために、痛みに眉を顰めつつも馬車の中を見回した。
天井の木製の骨格にぴんと張られた幌は色あせているが頑丈そうで、床には小型の樽や素焼きの壺、空っぽの麻袋が奇麗に整頓されて端のほうに置かれていて、そのおかげで自分が転がり込む余裕が十分にあったようだ。備え付けられた小さな棚には日用品が詰まっていた。
小さな部屋のような様相で、掃除もきちんと行き届いている。痛みさえなければきっと快適に感じたに違いなかった。
やがて馬車が一度停止して、話し声が聞こえる。御者台の女が誰かと話しているようだった。それから女は身を乗り出してこちらを覗き込んで言った。
「すぐ医者の所に連れていくからね。もう少しだ!」
その時はっきりと女の容姿を認めた。
ヘアバンドに纏められたくすんだ桃色の長い髪、ひそめた眉に紫色の瞳、口元はきゅっと結ばれていて、整った顔立ちだ。同じ女として見てもこの商人の女は美しく見えた。
こちらを心配して見つめる深刻そうな表情も、どこか惹きつけられるような魅力がある。彼女が命の恩人であることは疑いようもなく、その事実と感情がより女を美しく輝かんばかりにしているのかもしれなかった。
馬車は再び走り出す。馬車の後方から見える、通り過ぎてゆく景色の中に、軽鎧に身を包み槍を持って佇む兵士の姿と、開かれた大きな木製の門が見えた。兵士たちはこちらをじっと見つめていた。
それから程なくして馬車は再び停車して、薬品の臭いが漂う家の中に担ぎ込まれた。
あっという間に清潔な布の敷かれた木の台に寝かされて、心配そうな表情の商人の女と、カンテラを掲げて寝ぼけ眼をしぱしぱとさせた白髪の老医者が自分を覗き込んでいる。
「こりゃあただ事じゃないぞ。何があったんじゃ、エリチェーン」
老医者は傷を一目見るや顔をしかめて、商人の女をエリチェーンと呼んで尋ねている。
彼女はといえば、やはり困惑の色を浮かべて少しの間考えこんでから答えた。
「私にも詳しいことはわからないんだ。東門から伸びる街道があるだろう? あそこで彼女を助けた。大けがをした男も一人いたが……あれはきっと彼女にとって、よくないヤツだったんだろうな。多分、盗賊の類だったんだと思う」
その推察を正しいものだと証明するために、口を開く。
「ア、アタシ……里をアイツらに、襲われて、奴隷にされそうににゃって」
エリチェーンと老医者の表情が凍り付いた。
「逃げて、きたの。隙を見て……でも、追いつかれて、捕まって。……それで、あにゃたも襲おうとしてたから、にゃんとかしにゃきゃって、だから。……もう一回隙を見て、アイツら二人とも……殺そうと」
「……先生! この子、亜人狩りに……!!」
「エリチェーン、すぐに番兵にこのことを伝えてきなさい。ワシはこの子の治療をするでな」
「わかった。行ってくるよ!」
にわかに周囲が慌ただしくなってきた。エリチェーンは外へと出ていき、老医者は薬瓶や、見たこともない銀色の様々な道具を並べたり湯を沸かし始めている。
やがて準備が整ったのか、老医者は落ち着き払った動作で傍らに立った。
「よく刺さったナイフを抜かずにおいた。そうでなければお前さん、危なかったぞ」
「……そう、にゃらったから」
「これを飲みなさい。痛みを忘れることのできる便利な薬じゃ。多少違和感があるかもしれんが、じっとしとるんじゃぞ」
差し出された薬を一息に飲み下した。薬が美味しいはずはないが、それにしてもこの薬は輪をかけて奇妙な味がした。
しばらくすると意識がぼんやりしてくる。微睡のようでもあった。傍らで老医者が何か道具を手にしているが、それを気にしようとは思わない。
瞼が重い。カンテラの明かりがやけに揺らぐ。ふわふわと躰が浮き上がるような感覚がする。それがひどく心地よくて、すっかり身を任せることにしようと決めたときには、もう意識は底へと沈んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます