あなたの名前は
老医者の淹れてくれたお茶は香り高く、それを嗅ぐだけで気持ちが落ち着くようだった。火傷しそうなほど熱いが、それが喉を通り胃の腑に落ちる感覚が心地よい。
「美味しい。さすが先生、お茶にだけは拘るね」
「だけとはなんじゃ、だけとは。……まぁ、コイツはお前さんに頼んで手に入れてもらった茶葉で淹れたやつじゃが、ワシも気に入っとるよ」
「それはよかった。そう言ってもらえると苦労して手に入れてきた甲斐があるよ」
三人で卓を囲み、エリチェーンと老医者が会話を交わす姿を眺める。
あんなことをしてしまった直後だ、まだ自分から会話に入り込もうとは思えなかった。
「……ねぇ。何か甘いものでもどう?」
「えっ。……そんにゃ、別に……」
話を振られても、上手く返事ができない。けれどエリチェーンも老医者も微笑んでくれた。
“その戸惑いは決して悪いものではない”と諭されているようで、罪悪感が少しだけ薄れた。
「美味しいお菓子を持ってるんだ。ちょっと待っててね」
エリチェーンが一旦席を立って自分の鞄から取り出してきたのは、油紙に包んで保存された薄い焼き菓子だった。
「さ、どうぞ」
「……あり、がとう……」
差し出された焼き菓子をおずおずと一枚手にとってみる。
一口かじってみて、その甘さに躰が震えた。焼き菓子そのものの甘さは大したことはなかったが、甘味を口にしたのは久方ぶりだったのだ。
「……!」
「いい味だろう? 日持ちするし、行商に出るときには必ず持っていくんだ。私のお気に入りさ」
あっという間に一枚食べてしまい、そうなるともう一枚食べたくなってくる。それがなんとなく卑しい感じがして伺うようにエリチェーンを見ると、彼女はこちらの心中を見透かしたように頷いて更に勧めてくれた。
「ふふ。遠慮しないでいいよ。全部あげる」
「う、うん……!」
「しかし、お前さんには感心したぞ。商人として信用できるとは思っとったが」
焼き菓子に夢中になっていると老医者がエリチェーンをそう言って褒め始めた。
「あんな姿は初めて見たわい。無愛想な人間だと思っとったからの」
「私だって人並みに誰かを想うことはあるさ。……普段無愛想なのは否定しないけど」
「なかなかできる事ではないぞ。……一応聞いておくが、その子を養うのは問題ないんじゃな?」
その言葉にドキリとして、エリチェーンの横顔をじっと見つめる。
それに気づいたのか、彼女はこちらを見遣って軽くウィンクしてみせた。
「もちろん。この子一人養うぐらいの貯蓄はあるよ。……なくても同じ決断をしたかも」
「おいおい。……ま、お前さんがそう言うなら実際問題は無いんじゃろうな。よかったのぉ、お嬢ちゃん」
老医者はこちらを見て、破顔した。初めて彼の満面の笑みを見た。
「……となると、後は名前じゃの」
「……そうだね」
「にゃまえ……?」
「うん。貴女がしきたりを大事にしてるのは解ってる。だけど、このまま名前もなしというのも……。だから、その」
困ったように視線を右下に落とし、しばらくの間苦慮する様子を見せたエリチェーンが、意を決したように視線をこちらにまっすぐと向けて口を開く。
「私で良ければ、貴女に名前をつけてあげたい。……どう、だろうか」
里の儀式以外で、同族でもなんでもない相手から名付けてもらうなど普通なら"ありえない"と一蹴するものだ。
だが、最早自分の里はなく、儀式はなく、名付けてくれる同族もいない。そしてエリチェーンは、彼女は自分の家族になると決意した人物だ。
「……嫌じゃ、にゃいよ。付けてほしい……」
この人に名付けてもらうのが、間違いのない決断だと思った。
提案を受け入れる意思を示したことで、エリチェーンの表情はどこかホッとしたように和らいだのがよく解った。
「……ありがとう。素敵な名前を考えるよ。なるべく早くにね」
「ふむ。ではお前さんのセンスを見せてもらおうか。……もういい時間じゃのぉ。ほれ、月があそこに」
老医者が指差した先は天井で、そこには天窓があった。満月が静かに輝いているのがよく見える。
初めてそこで、室内が随分と明るい理由に気づいた。
「いいなぁ、天窓。羨ましいよ」
「はっは。大工に無茶言って作ってもらったからの。自慢の家じゃよ」
「家を持つなら絶対天窓つけるんだ」
「持つ予定があるのか?」
「まだ無いなぁ。黄金の子鹿亭の居心地がよすぎて……」
傍らの二人の会話も聞き流してしまうほど、魅入られる。
追いかけられている最中は恐ろしく見えて仕方なかったものだが、こうしてお茶とお菓子を楽しみながら望むその姿は、美しくて心が落ち着いた。
「……きれい」
「うん。今日は満月だね。雲もどこかへ流れてしまったみたいだ」
「アタシ……月は、好き。よく、にゃがめてた」
会話は止まり、静寂が包み込む。皆が月に見惚れているのだ。居心地のいい時間だった。
「……ルナ」
「えっ?」
どれぐらいそうしていただろう。唐突に言葉を発したエリチェーンに意識を引き戻されて見てみると、彼女は少し照れくさそうにしていた。
「あの月に住むと伝わる女神様の名前だよ。でも、その……貴女に、付けてあげたいと思って」
「どうして……?」
理由を尋ねると、彼女は視線を忙しなくあちこちに散らした。
「えぇと……月を見上げる姿がすごく素敵だったから。……だめ、かな?」
自分の返事を心待ちにしているようで、動作に落ち着きがない。頬や耳が赤くなっていっているようにも見えた。
「ルニャ……」
自分でその名を呟いてみるが、うまく言えない。
「ルニャじゃなくて……ルナ。ル、ナ」
「る……ル、ニャ」
「……このお嬢ちゃん、『な』が上手く言えんぞ。話してて気づかんかったのか、お前さん」
「そうだった……」
老医者の指摘にエリチェーンは額を手で抑えて俯いている。
「しかもその名付けの理由はなんじゃい。愛の告白かと思うたわ」
「真面目に考えたんだよっ……! ご、ごめんね、違う名前を考えるから!」
「……待って! ルニャがいい!」
「えっ。でも……」
エリチェーンに待ったをかけると、明らかに彼女は驚き戸惑っていた。
「確かにアタシ、いつまで経ってもにゃおらにゃいって笑われることもあったよ……。だけど、ルニャがいい。いつかきっと上手く言えるようににゃるから」
女神と同じ名前を授かることに、自分などが本当に良いのかと畏怖の念を抱かなかったわけではない。
だがそれ以上に、その名を聞いて心を満たしたものがあった。
「だって、すごく嬉しかったから……!!」
喜びだ。きっと別の名前を考えてもらっても、ルナという名前以上の喜びを得ることはないと思った。
「……わかった。そこまで言うなら、決めたよ」
エリチェーンはそう答え、それから目を閉じて深呼吸する。
そうして照れも戸惑いもすっかりと追い出して、誠実を携えた顔をまっすぐと向けてきた。
「ルナ。それが貴女の名前だよ。これから誰かに聞かれたり、自分から紹介する時は、胸を張って口にするんだ」
「うん……!」
「約束するよ。貴女に不自由な思いはさせない。寂しい思いもさせないから」
「うんっ……!!」
「これから、よろしくね。ルナ」
「よろしく、ね……えり、ちぇーん……!!」
感極まってエリチェーンに抱きついた。もう何度目かわからない涙で、彼女のローブの胸元を濡らす。
今日ほど泣いた日は無かったし、これから先も無いだろう。
「名前も決まって一安心じゃな、うむ。よかったのう。……それでだな」
泣き止んだ頃合いを見計らってか、老医者が口を開いた。
「もう夜も遅い。怪我人はそろそろ寝なさい」
「ん……そうだね。色々あって目が冴えていたけど、ようやく眠気を感じ始めたかも」
「エリチェーン。お前さんしばらくうつ伏せで寝るんじゃぞ」
「……はーい。ルナもお休みしよう。疲れが溜まってるはずだからね」
そう言って自分に割り当てられたベッドに潜り込もうとするエリチェーンの服の裾を掴んで引き止めた。
「どうしたの?」
「あの、エリチェーンと一緒に寝たい……。だめ……?」
「私は構わないけれど……先生?」
「まぁよかろう。狭すぎるということもない……が、くれぐれも落ちるんじゃないぞ?」
「うんっ……!」
許しも得て、エリチェーンと一緒のベッドに潜り込んだ。うつ伏せになって寝ている彼女はしばらくの間もぞもぞと動いて丁度いい姿勢を探っていた。
ふと思い立って、自分もうつ伏せになって寝てみる。こうすれば、エリチェーンの手を握れる。彼女もそれを当然のように受け入れてくれた。
「私がそばにいるからね。安心して眠るといいよ」
「……うん」
里を襲われ、囚われの身となってからは満足に眠ることも出来なかった。
誰も自分を助けてくれず、寄り添ってもくれない。悪漢の群れの中で眠りに就くことの恐ろしさときたら、筆舌に尽くしがたい。
それが今ようやく、心の底から安心して眠れる時間がやってきた。
「おやすみ、ルナ」
「おやすみにゃさい、エリチェーン」
握りしめたエリチェーンの手の暖かさを感じながら、薬の力ではない、自分だけの意思で意識を深く沈めていく。
悲しみが癒えるのにはたくさんの時間が必要だ。それほどまでに深い疵を心に負った。
向き合う勇気はまだない。けれど、抱えると決めた。
一人では出来なくとも、そばに寄り添う人と一緒なら乗り越えられると信じることにした。
ルナという名前を持って。
この世界を生きようと、決めた。
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