女神の訓練

「はぁ……はぁ……ぐぁぁぁぁぁ!はぁ……」




 アリシアはトレーニングルームで呻き声をあげていた。

 トレーニング用の黒いダイレクトスーツに身を包み、ベンチプレスで500kg近いバーベルを上げていた。

 時間が加速されたこの空間では外の時間と内部の時間で時間差が発生している。

 アリシアは既に訓練を始めてから30日くらい過ごしていた。

 実際は秒針が1秒進んでいるかいないかくらいの時間しか経っていない。


 アリシアは黒いダイレクトスーツと"神呪詛術"の“制約”を自らに課す事で体に負荷をかけ、力を抑制した。

 黒いスーツによりアリシアの超人的な身体能力はトレーニング開始時点で常人並みに落とされ、“制約”で更に上乗りされている。

 “制約”の能力により“制約”が解けると自分の能力値が大幅に向上する。

 その時に大幅な負荷をかければ、更に向上するのでアリシアは前世でもこのようなトレーニングを毎日のように続けていた。


 アリシアはこの30日で常人以下の身体能力から超人を優に超える身体能力を得るまでに徹底的に自分を鍛えた。

 30日から殆ど休む事無く体を酷使し体と精神を極限状態に陥らせ、力の向上を促す。

 並の人間ならあまりに辛さに裸足で逃げたくなるだろう。

 並でなくても訓練されたネイビーシールズの隊員であっても逃げるだろう。

 それほど苛烈だった。

 だが、アリシアはこう言った訓練に生き甲斐を感じていた。

 常に己と戦い、極限の中で懸命に生きる事に黙々と集中できるこの環境がアリシアにとっては辛くても好ましかった。

 それと言うのもアリシアは人間嫌いであり人間とは極力関わりたくないと考え、人間の醜悪なところを見ていると強いストレスを感じてしまう。

 だから、そのような世俗的な嫌な事から忘れたいと言うある種の悲痛的な懇願からこうして黙々と過酷な訓練に打ち込む事が前世の時代からあった。




「はぁ……ぐぁぁぁぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁ!」




 最早、悲鳴とも言える呻き声が誰もいないトレーニングルームに響く。

 体の筋肉が悲鳴を挙げている。

 もう既にとっくの前に限界は超えているのだが、気合と根性でねじ伏せてしまうのがアリシア・アイと言う女神だった。

 彼女はそれだけ自我と精神力が桁外れに高いのだ。

 神を基準にしても高すぎる故にアリシアは神の世界の超人と言う意味で“超神”等と呼ばれた程だ。


 肉体が追い込まれる程にアリシアの意識を研ぎ澄まされ、その超神性は更に超神性を増す。

 額から汗が滲み出て、そこから滴る汗がベンチプレスの周りを濡らし、池を作っていた。

 アリシアが激しく呼吸する度に隆起した腕に躍動、シックスパックに割れた腹筋が呼吸に合わせて露骨に胎動する。




「あぁぁぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁぁ!あぁぁぁぁ!」




 最早、阿鼻叫喚のような悲鳴を奏でながらアリシアはそれでもバーベルを上げる。

 既に200万回は上げているにも関わらずそれでもバーベルを放そうとせず……寧ろ、更に力を籠める。

 アリシアがこれほど打ち込むのはやはり、最近の出来事に起因する。

 元々、アリシアはストレスに強くない。

 だと言うのに周りの人間からは謂れのない悪口を言われ、ガルスなどからは事ある毎に難癖を付けられ、何か物を買えば、露骨な嫌がらせとして通常の代金の2倍額を請求され、何か販売すれば、逆に適正額よりも低く買われ、剰え、この前は教会の騎士が敵意を向け、悪人のように罵られ、桔梗は罪に溺れる事に堕落する醜悪な姿を見せる有様だ。


 人間を見ているだけで嫌になるのだ。

 正直、言えばかなり悔しい。

 アリシアが何を言っても聴き入れず、不平不満を並べ、伝え方を変えても人間は自分の固執で全てを曲解し勝手に敵意を抱き、何を説明しても分からない、理解できない。

 理解できないから全部、お前が悪いと言っているのだ。


 それが本当に悔しい。

 迫害される理由が全て「お前がアリシア・アイだから悪い」で全て既決しているようだった。

 まるで自分の存在を全て否定されたように本当に悔しく、歯軋りしてしまいそうだった。

 正直、そう言った害気に触れていると気が狂いそうになる。

 だから、正気でいる為にアリシアは自分だけの世界に没入するのだ。




「はぁ……はぁ……はぁ……」




 アリシアは210万回目でようやく、腕を止めた。

 呼吸が荒く、発汗も激しい。

 汗が額から流れており、自分が発した熱でどうにかなりそうなほどだった。

 それでどうにかならないのは訓練の一環としてバーベルを上げながら極限の精神状態で”神術”を常に行使していたからだ。


 常に“生成”と言う神術で体内で水を作り出し、栄養素も生み出し、”神破壊術”“対消滅”で排尿、排糞を対消滅させた側からそのエネルギーを神力に変換、己の神力として取り込み、精神や魂に負荷をかけて神力総量を常に増大させていた。


 アリシアは肉体の鍛錬を永久的に続ける為にそう言った神術で生命維持や生理現象を補う事で圧倒的な身体能力と圧倒的な神力量と制御能力を獲得してきた。

 アリシアは10秒ほど休んだ後に再び、バーベルを取り持ち上げた。




「もう……1セット……」




 つまり、ベンチプレス210万回をもう一度行う。

 アリシアの考えでは訓練とは辛くなってからが訓練なのだ。

 この訓練はまだ、始まったばかりだ。




 ◇◇◇




 全盛期並みの力を取り戻すには、体も心も限界を超えて鍛えないとならない。

 その為に前世でも行った鉄橋フロントブリッジと言うトレーニングを行っていた。



 

「はぁっはぁ……はぁっ……」




 アリシアは訓練用の黒いダイレクトスーツを身に纏い、フロントブリッジの姿勢で体幹トレーニングを行っていた。

 肉体資本のパイロットにとって肉体のバランスを保つ体幹はかなり重要なトレーニングだ。

 だが、その過酷さは人間のそれを逸していた。

 黒いダイレクトスーツにはアリシアに体にかなりの負荷をかけるように設定されている。

 その負荷は通称“鉄橋フロントブリッジ”と称されるレベルのモノでありアリシアの体には鉄橋と同じ荷重がかかっていた。




「はぁっあぁぁっくぁっ……」




 あまりの苦しみに悶えてしまう。

 始めてからかれこれで30時間くらいになっていた。

 「そんなにやるのか!」と誰かは言うかも知れないがまだ、1割すら経過していない。

 この鉄橋の重みをデータ上の鉄橋のデータから算出された鉄橋の耐久年数×3倍の時間を耐えないとならない。

 100年とかでは済まないのだ。




「はぁっあぁっ……はぁ……はぁ……」




 額から汗が滲み出る。

 その汗が顔から滴り落ち、汗の池を造り出し、滴る汗が体を沿って局部の辺りから雫が落ちて行く。

 脚なども震えており、まるで小鹿のようだった。


 こんな負荷を普通の人間が耐えられるはずが本来はないのだ。

 例え、神の精神を心に宿していても肉体を纏っている以上、基本的に人間と遜色はない。

 それでもなお、耐えるとするなら本当に何かを為そうとする強い意志がそれを為しているとしか思えない。




「かぁっあぁぁぁうわぁ……あぁ」




 肉体と精神が悲鳴を挙げる。

 それでも己の意志で肉体と精神を屈服させて闘志を滾らせる。

 脳の電気信号が加速度的に危険信号を警らする。

 筋肉とは脳が「あなたの肉体はこのくらいの筋肉が無いと死にます」と言う信号によって増強される。

 一切、休みなく体を酷使、疲労困憊の中で体を苛め抜く事でアリシアは常に生と死の境を彷徨う程に体を死に追いやっている。

 それにより肉体や人間とは思えない速度で強化されていく。


 


「はぁっはぁ!はぁあぁぁ!」




 時間が経てば経つほど痛みが増し悶絶する。

 神の肉体でこれらの事を行いならこんな苦労はしなかっただろう。

 しかし、“苦労”と“忍耐”を伴わない修練は精練された魂を造れず、より大量により高次元に精練された神力を産み出す事もそれに相応しい器を造る事もできない。

 その点で言えば、人間の肉体とは都合がよく、脆い肉体ではあるが、受ける苦難の効率が高いので神力が精練され大きくなり易い。

 

 そんな肉体に人間の限界を超えるような負荷をかければ得られる神力も莫大になるので相対的に器も大きくなるしかないのだ。

 だから、アリシアは必死に耐えるのだ。

 自分が耐える事で誰かを“生かせる”ならと喜んで自らを精練の炉の中に放り込む。

 そう言った頭が壊れていて優しい女なのだ。




「あぁぁぁっ!うはぁぁっはぁ……はぁ……」




 時間はかなり経過し鉄橋は既に耐久年数を超えて自壊した。

 だが、これでもまだ、半分も経っていない。

 アリシアの過酷な修練はまだ、続く。


 肉体は極限まで高ぶり体のストレスも大きくなり副交感神経が優位に働こうと活発に動き、局部からアリシアの意志とは関係なく射精物が放出され、局部に真下にポタポタと滴り落ちる。

 アリシアの肉体と精神は極限まで追い詰められていき、更その超神さは過度になり神経は更に研ぎ澄まされ、感覚がクリアになっていく。


 飽和しても飽き足らないほどの神力が空間に満ち、アリシアは世界の全てを敏感に肌身で感じる。

 海に存在する原子の個数から川の潺の音の波長、この世界の宇宙の鼓動等肉体と精神が追い込まれるほどそれらを深く鋭く感じ取る。

 体は既に傍からみればかなり無惨であり、全身の血管がスーツ越しに隆起、脈打っており、心臓は爆発するのではないかと思えるほど打ち鳴らす。

 体中の筋肉がまるで各部位が心臓の役割でもしているように胎動しアリシアは文字通り全身で命の鼓動を滾らせる。




「あぁぁぁぁぁぁぁぁうっぁぁぁぁぁぁ!」




 最早、悲鳴に近い断末魔を挙げるそれはまるで地獄に池に放り込まれた罪人の阿鼻叫喚のようであった。




 ◇◇◇




 こうして、訓練は無事終了しアリシアは力尽きたようにその場に倒れた。

 肩から息をしており目の焦点などは一切合っていない。

 体全身が震えておりまるで人間ではない別の生物のように見えた。

 だが、この世界、トレーニングプログラムは無慈悲に告げる。


 5分後、もう1セット (残り9999億9999万9999セット)

 

 アリシアは空中に浮かんだそれを見て何を言わず、這い蹲るように体を起こした。

 その目は普段とは違って鋭い眼光で炯々に見つめていた。

 彼女はまだ、戦う気なのだ。

 地獄で情けなく泣いて命乞いをしていた自分はとっくの昔に死んだのだ。

 弱い自分は本物の地獄の中に捨てて来た。

 だから、アリシアのやる事は1つだった。




(どんな地獄だろうと必ず勝って見せる)




 アリシアの闘志は決して尽きない。




 ◇◇◇




 とにかく、生き地獄のような訓練をひたすらに続ける。

 疲労知らずの機械と真剣勝負して勝たないとならないランニングトレーニングだ。

 アリシアはひたすらに走り続けていた。




「はぁ……はぁ……」




 全身を覆う黒いダイレクトスーツに身を包みながら、時速100kmを維持しながら走り続ける。

 このスーツを介して体には9060倍もの負荷が体にかかっている。

 100m進むだけで900km走った相当の負荷だ。

 だが、アリシアは機械的にただ、淡々と黙々と走り続ける。




「はぁ……はぁっ……はぁ……」




 地表の7分の1しかない酸素濃度の中で彼女は死に物狂いで走る。

 意識は薄れ、そうでも鍛え抜いた精神力で自らの体を服従させる。




「はっ……はっ!」




 徐々に過酷になっていく。

 無理もない。

 彼女はこの10時間の間に1000km近く走っている。

 肉体負荷を考えると90万kmを走らされている。

 月と地球を1回半往復する距離だ。

 しかも、少しでも速度を落とすとペナルティとしてやり直しを喰らう。




「はっ!はぁっ!」




 息が荒くなる。

 汗が滝のように溢れ、首筋から全身に滴る。

 このトレーニングを対戦相手である自転車を漕ぐロボットのエネルギー切れまで永遠と続けないとならない。

 そして、ロボットに対して速度負けしてもならない。

 

 この条件はロボットが圧倒的な有利だ。

 ロボットは疲労しないのは勿論だが、自転車と言うのは二足歩行の5分の1の力で前に進む事ができる。

 つまり、アリシアは常にロボットの5倍以上を出し続けないとならない。




「はっ!はっ!はっ!」




 アリシアは更にペースを上げる。

 ロボットのエネルギー切れまで後……7777時間……。




 ◇◇◇




 それが終わっても更に地獄のようなランニングを続ける。

 600kgの重りを背負いながらフルマラソン823本。34556km走っていたのランニング……沖縄~北海道を往復4回半する距離する距離をひたすらに走る。




「はぁ……はぁ……はぁ……」




 ◇◇◇




「はぁ……はぁっ……」




 地獄のような訓練はまだまだ、続く。

 そこには大型の貨物船がゆっくりと航行していた。

 その動力部にアリシアがいた。


 黒いダイレクトスーツを着込んで前のめりになりながら、必死に自転車を漕いでいた。

 自転車を漕ぎ重い歯車を回転させながらスクリューを回し、澱んだ海がスクリューを絡め取り、鈍く回る。

 アリシアが作ったトレーニング器具としての船であり、黒いダイレクトスーツの負荷に加え、船からも膨大な負荷を受けており、ノルマを果たすまで決して逃げられないように自らに更に強い”制約”を施し、肉体を極限まで酷使する為に拷問的な電気刺激装置までも搭載されている。


 かなり重い負荷に設定され、並みの人間がゴミのように殺せてしまうほどの負荷が体にかかる。

 だが、そんな中でも死に狂いで、ペダルを漕いだ。

 自分の限界を超えるほど挑みながら、肉体を虐めに虐めに虐め抜く。

 肉体が限界を超えており、血反吐を吐いていたが、それでも漕ぐのをやめなかった。

 タンカーをモータボートの3倍の速度で航行させ、太平洋の3倍の距離がある海が横断した。


 一切、速度を落とす事すら許さず、一度でも落とせば、全てやり直し自分の体に鞭を打つ。

 全身の血管がダイレクトスーツ越しに浮かび上がり、首筋や顔の血管まで浮き上がる。

 苦悶の表情を浮かべながら泣き叫びながらただひたすらに自分の体を痛めつける。


 だが、どれだけ痛かろうとアリシアはそんな事は関係ないと言わんばかりに汗だくになりながら、自転車を漕ぎ続ける。

 脚は既に膨れ上がり、莫大な負荷に心臓を全力稼働し体からは軽く血管が浮き出ている。

 体を蝕む痛みも尋常ではない。


 弱い自分から解放される為に徹底的に苛め抜く。

 その為に莫大な時間を費やす。

 体も精神も更に逞しさを帯び、肥大化していく。




 ◇◇◇


 


 訓練はそれだけに留まらず、真っ暗な底無しの穴の中に吊るされたロープを足に重厚そうな重りを付けさせ、状態で開脚したまま腕の力だけで何人もの黒いダイレクトスーツを着たアリシアが暗闇の中を這いあがり、遥か彼方にある光を目指して這い上がる。

 耐えられず、下に堕ちて叩きつけられる事もあったが、体を痛めながらもそれでも目から希望や闘志などは消えず、再び這い上がる。


 この訓練は暗闇と言う不安の中でも微かな光を求めて這い上がるメンタルを鍛える事も目的としている。

 神々との戦いでは絶望を味わう事も大きいのでその為の訓練である。

 這い上がるアリシアは息を切らし悲鳴を上げながら這い上がる姿はここに第3者が要れば、見ていて辛かった。




 ◇◇◇




 訓練はそれだけではない。手足を縛られた黒いダイレクトスーツを着たアリシアが雨を降りしきる荒れた海の中を必死に泳いでいた。




「はぁ……はぁ……はぁ……」




 その途端、何かの引きずり込まれるように海底に引っ張り込まれる。

 画面が切り替わり海の中の映像が映るとそこには岩でできたイカのような生物がアリシアの脚に岩を絡めつかせ、アリシアを引き寄せ、大きな口を開ける。


 アリシアは激しくドロフィンキックをして支う力を得て触手と綱引きを繰り返す。

 それから24時間~36時間の間水中で引っ張り合い懸命に息を吸う為に海面に顔を出し空気を吸い込むが、それが僅か10秒にも満たない間だけそれから更に24時間~36時間以上潜り、息を切らせながらイカと死闘を広げる。

 この訓練は水中の中にパニックならないように鍛え、神との激戦の中でも常に冷静な判断力を培えるようにする訓練だ。




 ◇◇◇




 更には複数の狼らしき生き物からうさぎ跳びで逃げ、完全装備の状態で1000km以上を全力で駆け抜ける訓練など色々、やった。

 時にはアリシアは体中に枷をつけて肩から息を切らせて黒いダイレクトスーツを着たまま戦う事もあった。

 その訓練時間は既に2000年を超えており、訓練用の重い大太刀だけで獣を倒していた。




 ◇◇◇




 高速戦闘になると耐G耐性は必須だ。

 特に機動兵器に乗るともなれば、機体の加速度は3億Gに迫る事もある。

 その時のコックピット内のGは100になるように“加速度変換”や“加速度操作”により調整されている。

 ゼロにする事もできるが加速度を感じた方が体感的で官能的に機体の操作ができる為にGはわざと残している。

 それに加え、過度にこれらの能力に依存した場合、敵の術妨害が起きた場合、これら能力が低下し易くなる可能性がある。

 そこで機能を完全に0Gにするのではなく、限定的にGの減少に留め、残りのリソースを対妨害に当てている為、結果的に100Gと言う原則が生まれたとも言える。

 尤もそれでも絶対に100Gを保てるとは限らないので敵に完全に妨害をされた場合でも生身の3億Gに耐える訓練は必須だとアリシアは考えている。

 そして、彼女と言う壊れ気味な女はそれを現実にする為に最も合理的と判断できる手段を何の躊躇いもなく行ってしまう。

 それが通称“太陽深海耐久訓練”と名付けられた狂人の極致みたいな訓練だった。




「……」




 アリシアは黒いダイレクトスーツ姿で深海にいた。

 この深海はただの深海ではなく深さはマリアナ海溝の7倍深く、その海は太陽の7倍の質量がある惑星の上にある為に地球の平均水圧の約770倍の圧力がかかった漆黒の世界であり、あまりの水圧の高さから微生物ですら自らの細胞の自重で圧壊してしまう程の死の世界の権化のような世界にアリシアは1人立っていた。




「……」




 何も言わない。

 言わないように心掛けている。

 体中は全身の至るところをハイヒールで潰されるような痛みがあり、今にも発狂しそうだが、発狂してそれを声に出したなら一瞬で自分が死の世界に呑まれると理解しているので絶対声は出さない。

 今のアリシアは神力による生命維持に一切頼らず、己の鍛え上げた肉体と水圧を跳ね除ける程の空気とその圧力を維持するだけの筋力と横隔膜で耐えている。

 肉体の酸素の消費効率を極限まで上げた状態でこの空間にいるのでこのまま何もしないなら1年くらいは留まる事ができる。


 ここで訓練する事で全身に隈なく押し寄せる水圧の負荷により全身の細胞が強靭になり、内蔵や脳に至る全ての部位を鍛える事ができる。

 脳は脂肪で出来ているが脂肪で構成された神経細胞も多いのでこの方法なら理論的には全身が鍛えられ、結果的に血管や各種臓器の機能の耐久値が上がり耐G耐性が身に付くと言う寸法だ。

 だが、ただ、立っているだけでは訓練にならない。




「……っ!」




 アリシアは苦悶の表情を浮かべながら海底に造られた鉄棒にぶら下がり、両足には子供の頭くらいの太さがある引張コイルバネをゆっくりと引き上げる。

 ダイレクトスーツ越しにアリシアの背筋が隆起するように躍動する。

 バネから伝わる力みをゆっくりと感じながらゆっくりと体を引き上げ下ろす。

 これをバネが断絶するまで永遠と繰り返す。

 タイムリミットとしてはアリシアの活動限界までなので1年以内には折らないとならない。




「……っ!」




 力みと全身の激痛がとにかく痛い。

 それでも水の中で恐怖に呑まれ、冷静さを少しでも欠けば一気に死に繋がる。

 極限まで意識を集中させ、体に最大限の負荷をかけ、バネに負荷をかけていく。

 暗闇の中で恐怖に呑まれないように耐えるのも忍耐と言う修行の内だ。

 それを妥協しないようにアリシアは使えるWNの量も制限している。

 この暗闇の恐怖と肉体にかかる負荷に耐える事で発生するWNを使って水と栄養素を補給、排泄まで行っているのだ。

 故に生命維持に直結する作業の為に妥協できない。

 更に常に体を動かさないと体温が下がってしまうので凍死する。

 故に生き残るには常に動き続けないとならない極限状態だった。




「……っ……っ!」




 何度も苦悶の表情を浮かべる。

 この痛みで頭がどうにかなってしまいそうな程に……恐らく、この苦労が分からない人間がいるなら「自分も同じ環境を与えられればできる」とでも言うだろうがそこまで甘い話ではない。


 そのような浮付いた考えを持つ軟弱、漸弱、惰弱な考えを持った人間がここに至るまでの過程で死ぬだろう。

 精神が発狂し命乞いをする程に……寧ろ、生きている事を後悔するような苦痛を味わい、死を乞うだろう。

 人間のような環境に左右されて意見や主張を変えるようなか弱い生き物が生きられるほどこの環境を決して甘くはない。

 本当に人を“生かす”事に全てを捧げ日々命がけの戦いに身を投じられる者だけができる狂気の所業なのだ。

 阿修羅すら超越せねば土台無理だ。

 そんな屈強で精強な鋼の精神を以てアリシアはバネを断絶させ、破壊した。


 ここまでに約1年かけたが体は満身創痍だ。

 全身の血管が浮き出て心臓の辺りが顕著に脈打っているのが、非常に生々しくどこか凄惨さすら感じさせるほどだった。

 だと言うのにアリシアは平静を装い痛がる素振りすら見せない。

 アリシアは自分の事を可哀そうだとかこれが誰かを生かす上での犠牲とかそう言う風には考えていないただただ、当たり前の事であり、当然の事のように受け入れているのでこの痛みがただの苦痛ではなく誰かを生かす痛みだと考え、寧ろ歓喜すらしていた。


 アリシアは海上から伸びるロープに捕まり両足に使った鉄棒とバネを括りつけて開脚し腕の力だけでよじ登っていく。

 77000m以上の距離を腕だけでそれも770倍の水圧がかかる中のよじ登るのは最早、尋常ではなくそれを平然とやってのけるアリシアは同僚や仲間内から見ても化け物の部類の人間になっており、日が経つ毎にその差がどんどん如実になっていた。

 海面に上がったアリシアは海上基地のような施設に向かって足を振り上げその反動で使って海面から上がり使った器具と共に基地の上に上がった。




「はぁ……はぁ……」




 肩から息が上がり、体が火照る。

 だが、アリシアに休み暇などない。

 体に鞭を打つように這い上がると脚についた荷物を外してそのまま基地内のシュミレータールームに向かう。

 本当に耐Gが強化されたか確認する為だ。


 結果……


 10%向上したが規定値には達していないと言う結果が出た。



 アリシアは躊躇わず、海に飛び込んだ。

 戦女神の肉体と魂は日々の血の滲むような努力によって培われている。

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