第39話 私の願いは

「願い事……? 3つ?」

「はい。私に出来ることなら、何でも」


 青い妖精が、甘く微笑む。


(き、来ましたわーーーっ!! 妖精が願いを叶えてくれる、物語の定番来ましたわーーー!)


 心の中でガッツポーズをしながら、カーミラの頭の中は軽くパニックになっていた。

 昔から、物語のヒロインになることが夢だったカーミラにとって、今の状況はまさしく願った通りのものだった。興奮しない訳がない。


(どうしましょう! こういう時は欲をかいたらいけないのですわ。不用意なことも言ってはいけないのですわ。「ちょっとお待ちください」「その願い、聞き届けよう」みたいなことになったら大損ですわ!)


 リーンは微笑みながら、カーミラの言葉を待っている。


 このままずっと胸に抱かれていたいが、本当にこのままの体勢で固まってしまったらホラーだ。「ずっと抱きしめて」という願いは却下だ。


(私の願い……。私のやりたいこと。欲しいもの。見たいもの……)


「あっ! そうですわ。1つ目の願いくらい、深く考えずにいきましょう! あと2つあるのですもの」

「何になさいますか?」

「海、ですわ! 私、海を見たことがありませんの。貴方と二人だけで海を見てみたいですわ」

「喜んで。……ミラ」


 一瞬強くカーミラの体を抱きしめると、次の瞬間、リーンは体を離した。カーミラが寂しそうに眉を八の字にすると、リーンは笑いながらカーミラの髪を梳いた。


「見て」

「え? 何ですの!?」


 リーンに促されて振り返り、カーミラは可憐な瞳を目いっぱい見開いた。


「まあ! すごいですわ!」


 目の前に、水の大地が広がっている。


 憧れの転移魔法で移動したのだと分かり、カーミラのテンションが上がる。足元が砂の大地だと分かり、それにも興奮する。


「まあ! 走りにくいですわ!」

「ミラ。乗って」

「え? ええええええ! 恥ずかしいですわ!」

「大丈夫。ここにいるのは、私とミラだけだ」


 海へ駆け出そうとして砂に囚われたカーミラを、リーンがおぶって走り出した。 


(2つ目のお願いを言ってないのに、役得ですわ! あったかくて広くて、ああ、髪がものすごくいい匂いですわ。うなじが色っぽいですわ。食べてしまいたい……!)


「ふふっ! ミラ、くすぐったい」

「まあ! ごめんなさい! 嫌だわ、私ったら。はしたない」


 気が付いたら、本当にパクリとやってしまっていた。

 口紅がしっかりとリーンの首筋についてしまっている。


「ミラ」


 突然、リーンはカーミラを背中から降ろすと、振り向きざまにカーミラを抱きしめ、柔らかく窪んだ鎖骨の上あたりにかぶりつくようにキスをした。


「きゃっ!」

「お仕置きです」


 いたずらをした子供の様に、リーンが笑う。カーミラの胸が、ズキューンと撃ち抜かれた。


(…………ヤバいですわっ! そんなとこ、ずるいですわっ! 腰が抜けてしまいましたわ! お仕置き、ヤバいですわ! もっとして欲しいですわ!)


「ふふ。さあ、見て、ミラ。これが海です。綺麗でしょう?」

「きれいですわぁぁ」


 正直、それどころではない。


 カーミラはもう、リーンしか目に入らなくなっていた。リーンの笑顔は柔らかくて、優しくて、眩しい。


 なぜか、涙が溢れてきた。


「私……。貴方と二人で、ここで暮らしたいですわ」


 2つ目の願い。


 地位もお金も家名も名誉も家族も、全て捨てて。ただのミラとして、ただのリーンと暮らしてみたい。


 こんな気持ちは初めてだった。胸が、苦しくて堪らない。


「いいですよ。それが、貴女の願いなら。…………泣かないで。ミラ」

「貴方が……! 貴方がいけないのですわ……!」

「ん……。私が悪かった、ミラ。貴女のことがもっと知りたい。聞かせて、ミラのこと」


 リーンの唇が、優しくカーミラの涙を拭っていく。


 リーンの腕の中で、カーミラは、ぽつり、ぽつりと、途中からは堰を切った様に自分の過去を話した。良いことも悪いことも、全部聞いてほしかった。


 独白の間、リーンは黙って聞いてくれた。


 話し終えたころには、空には月が浮かんでおり、黒い海に光の道を作っていた。

 風は少し冷たいけれど、リーンの胸はとても暖かい。

 波の音と、リーンの心音だけが聞こえる世界。


 それは、子守唄の様で。

 それは、物語の1ページの様で。


 カーミラはそのまま眠った。


―――それから、あっという間に2日が過ぎた。


 リーンは時々いなくなった。


 そのたびにカーミラは不安で泣きそうになったが、腕いっぱいに食べ物や飲み物、毛布や着替えを抱える姿を見たら、怒りより先に安心感で胸が満たされた。


 そして夜はリーンの腕の中で眠る。


 何もしなくても、ただ、リーンの温もりがあるだけで、カーミラは簡単に眠ってしまう。


 まるで、母親に甘える子供の様に。


「ティアナ……」


 ふと、娘の名前が浮かんだ。


 もう何年もほとんど顔を合わせることなかった娘。顔も思い出せないほど、ほったらかしにしていた娘。


(難産でしたわ)


 死にそうな思いをして産んでクタクタだったのに、しわくちゃの顔がお猿さんみたいで、笑ってしまった。

 夫に、私にそっくりだと言われ、「私、お猿さんじゃありませんわよ?」と返した記憶がある。


 人の苦労も知らないで、泣くだけ泣いて、お乳を吸って、寝て。しわくちゃの顔が、だんだん丸くなって、ラピスラズリの瞳が私を見つめて、笑って。


(……ああ、可愛かったですわ……!)


 何故、忘れていたのだろう。


 貴族は乳母に育てられるものだと取り上げられて、忘れようと必死で努力した記憶が蘇る。


(ティアナ。あの子には、こんな風に甘える相手がいるのかしら)


「ミラ。泣いているのですか?」

「リーン」


 涙が溢れて止まらない。娘を想うと、胸が苦しい。 


「ティアナはどうしているのかしら」

「……見てみますか?」

「見られるのですか!?」

「魔法で」


 思わず身を起こしたカーミラに合わせ、リーンも身を起こした。


 リーンはそのまま立ち上がると、何か呪文の様なものを呟いた。すると、目の前の暗闇にボワッと明かりがさした。


 目を凝らすと、それは誰かの部屋のようだと分かった。

 可愛らしい家具にお人形。


(これは、ティアナの部屋かしら?)


 カーミラは両手を付いて、覗き込むように光に近づいた。


 ベッドの上に座る小さな人影が見える。ティアナだ。ずいぶん前に会ったきりだが、一目で娘だと分かる。

 ティアナは膝を抱えて泣いていた。その小さな体を抱き寄せる大きな影が見えた。


「トラウス様……?」


 夫も泣いていた。口の動きから「大丈夫だ」と言っているのが分かる。


「これは、一体どうしたのかしら!?」


 カーミラが振り向くと、リーンは何故か、ひどく哀しそうな眼をしてカーミラを見つめていた。


「皆、貴女を探しています」

「……私を!?」


 ハッと、カーミラは我に返った。

 公爵夫人が黙って居なくなり、三日も戻らないのだ。探されるのは当然だった。


「でも、何故泣いていますの……?」


 私は、身勝手で、我が儘で。良い妻でも母でもない。奴隷を買い漁る、はしたなくて強欲で、淫乱な公爵夫人。公爵家の恥さらし。


(私などいない方が、皆幸せなはずですのに……!)


 よく見ると、使用人達も泣いていた。


(何故ですの? 私、優しくしたことなんかありませんわよ?)


 カーミラの混乱をよそに、場面は次々に切り替わっていく。

 カーミラが過去に関わった奴隷達が映っていく。

 泣いている者も、祈っている者も、剣を握って何かに叫んでいる者もいた。


(何故ですの!? 私、貴方達から色々なものを奪いましたわ! 散々弄んで、捨てた私の為に、何故!?)


「街に、ドラゴンが現れました」

「何ですって!?」

「皆、ドラゴンが貴女を攫ったと思っているんですよ」

「そんな馬鹿な!? 私は自分の意志で、消えたのですわ!」


 夫が娘から離れ、剣を手に取るのが見えた。鎧が似合わない不格好な体に、娘が追いすがる。


「まさか、ドラゴンに立ち向かう気なのですの!?」

「その、まさかでしょう」

「止めてくださいませ! 剣なんか、握ったこともないくせに……っ!」


 聞こえないと分かっていても、カーミラは叫ばずにはいられなかった。


「ミラ。貴方は私に、寂しいと言いました。思い描いた人生ではないと」


 リーンが、後ろからカーミラの肩を抱いた。暖かくて、大きくて、力強い、優しい手。


「ですが、貴女はこうして沢山の人に愛されている……!」

「……!」


 カーミラは、この手をずっと前から知っていた。

 沢山の人達が、カーミラに触れた手と同じだった。

 そして、カーミラ自身がかつて、娘に触れていた手だ。


 誰かを愛し、慈しむ手。


「私を、戻してください!」


 3つ目の願い。


 リーンとの暮らしは、とても満ち足りたものではあった。

 だが、カーミラが本当に欲しいものは、ここにはない。


「いいのですね?」

「ええ! 後悔はしませんわ!」


 次の瞬間、カーミラは転移していた。


 可愛らしい家具とお人形。

 泣き腫らした目の使用人達と、剣を持つ夫と、その夫に縋りつく娘。


 その、目の前に……!


「カーミラ!?」

「お母様!?」


 驚きが、カーミラを迎えた。

 カーミラは目を丸くする夫と娘に飛びつき、豊かな胸に抱え込んだ。


「妖精さんが助けて下さいましたの。……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした!」

「カーミラ! 無事で良かった!」

「お母様、お母様!!」

「あなた……ティアナ」


 三人で抱き合って泣いた。


 それは、リーンの腕の中よりも熱くて激しくて、胸がいっぱいになる時間だった。空っぽだった胸が、熱いもので満たされていくのをカーミラは感じていた。


「ティアナ。このハンカチは貴女がくれたのね?」

「……はい! お母様!」


 娘の部屋には山のように刺繍の糸が準備されていた。どれほど練習したのだろう。


(……気付けて、良かった……!)


 自分を抱きしめ返す小さな手が、たまらなく愛おしい。

 ブヨブヨだけど、温かく自分と娘を包み込む大きな手が、泣きたいほど愛おしい。


(ありがとう。妖精さん)


 リーンの姿は、どこにもない。

 カーミラには、リーンとはもう会うことはないと分かっていた。


(だって、私、気付いてしまいましたの)


 娘と夫を抱きしめながら、カーミラはクスッと笑った。


(このハンカチに、蝶が戻っていることに)

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