第38話 花と蝶

「嫌いですわ」


 庭の東屋へ向かう道すがら、カーミラはぼそりと呟いた。


 この季節の空は、青く澄み渡っていてとても眩しい。

 遠くを白くて分厚い雲が、のっそりと泳いでいく。

 気持ちよさそうに、そよ風に揺れる草花も、楽し気に歌う小鳥の声も、うっすらと汗ばむ穏やかな陽気も、全てが気に入らなかった。


(私の気もしらないで、キラキラ輝くなんて、気の利かない季節ですこと)


 カーミラは、屋敷の中庭に作らせた東屋で、一人で過ごすのが密かな楽しみだった。

 私が庭にいる時は誰も近づかないようにと、奴隷や侍女、騎士には命じている。

 たった一人で、大好きな物語を読んで空想に耽る時間はカーミラだけのものだ。 

 誰にも邪魔はされたくない。


「あら?」


 東屋へ辿り着いた時、カーミラは思わず声を上げた。

 東屋のベンチの上に、見慣れないハンカチが置いてあったのだ。

 カーミラだけの空間を汚された気がして、少し気分が悪くなる。


 捨ててしまおう、とハンカチに手を伸ばして、カーミラは「あら?」と再び目を見開いた。

 そのハンカチには手の込んだ美しい刺繍が施されていたのだ。

 真っ白な生地に、色とりどりの薔薇と、それに留まる一匹の青い蝶が見事に表現されている。蝶の羽は様々な色調の青い糸で丁寧に縫い込んであり、これほど見事な刺繍をカーミラは見たことがなかった。


(もしかしてこれは、誰かの置忘れではなくて、私へのプレゼントなのではないかしら)


 トラウス様かしら、と夫の冴えない顔を思い浮かべたその時、突風でハンカチが飛ばされてしまった。


「お待ちくださいませ! 私、走るのは苦手ですのよ!」


 思わず声に出しながら、カーミラはハンカチを追って走った。


「誰ですの!?」


 庭の植木を曲がった先に、見知らぬ男が立っていた。

 後ろを向いていて顔は分からないが、青い髪が美しい長身の男だった。


「ここは私の庭でしてよ!? 勝手に入るなんて、なんて無礼者でしょう! 夫に言って厳罰に……して……さし……あげ……」

「これは貴女のハンカチですか? ……レディ?」


 カ―――ン


 何処からともなく、鐘が鳴った。


(なななんですの!? 今、私の胸で鐘が鳴りましたわっ! 誰ですの!? 誰ですの!? 誰ですの!?)


 ハンカチを片手に振り向いた男は、陶磁器のように白く艶やかな肌と、サファイアの瞳とサラサラと風に舞う長い髪を持った20代後半の……見たこともないほど美しい青年だった。


 細身なのに、ハイネックから除く首筋はすっきりと長く、ノースリーブから覗く肩と腕のラインは筋肉質で、中性的な美貌に、男性の色香を感じさせる。


 カーミラの奴隷にも、これ程の男はいなかったはずだ。


 カーミラがポカンと固まっていると、男は少し困った様に首を傾けながらカーミラに近付いた。


「とても美しい。この刺繍も……貴女も」


(きゃあああああ!)


 一歩ほど前まで近づかれ、カーミラは心の中で悲鳴を上げた。


(悩まし気な長いまつ毛がっ! 愁いを帯びた瞳がっ! ああ、そんな眼で私を見つめないで下さいませ!)


 心臓がバクバクと音を立てている。

 眩暈がして倒れそうだった。


(腕の中に倒れてしまおうかしら。初対面で、はしたないかしら? いいえ、眩暈がするのですもの。倒れるのは不可抗力ですわっ!)


 コンマ5秒で結論を出し、カーミラはふらりとよろめいた。


「あっ……」

「大丈夫ですか?」


(きゃああああああ!)


 カーミラは再び絶叫する。

 耳元で囁く声は、竪琴の音色のように心地好く、甘い。


「良い、匂いがしますね。レディ」


 男に褒めれて、『もう、何ですの!?』と、何故かカーミラは腹が立ってきた。


(良い匂いがするのは貴方ですわよ!? 怒りますわよ!?)


 首筋にかかる息にゾクゾクと身体が震える。僅かに触れる胸板が、厚くて熱い。肩を掴む手は、大きくて優しい。


 もう、いっそこのまま死んでしまいたい、とカーミラは目を閉じた。


「レディ? 顔が紅いですね。熱があるのでは?」

「だだ大丈夫ですわっ!」


 うっかり目を開けると、至近距離で目が合った。「はあああん!」と腰から力が抜ける。心なしか、いつもよりも花々が多く舞っている気がする。竪琴のメロディまで聞こえてくるようだ。


 こんな感覚は、初めてだった。


 初めての奴隷に感じたトキメキとも違う、夢の中にいるような不思議な感覚だった。


「やはり顔色が悪い」


 男はそう言うと、軽々と、横向きにカーミラを抱き上げた。


「まあ!」と、思わず男の首に手を回してしまったが、これは不可抗力だ。……たぶん。


「どこかに休める場所は?」

「すぐ傍に東屋がありますの」


 男の質問に答えながら、カーミラの心臓は張り裂けそうになっていた。これほど密着していては、胸の鼓動が聞こえてしまっているに違いない。はしたない女だと思われていないだろうか。


「ここですね。……大丈夫ですか? レディ」

「……ええ。ありがとうございます」


 ゆっくりとベンチに降ろされ、カーミラはホッとすると同時に、物足りなさを感じていた。もう少しだけ、ドキドキを味わっていたかった。


「これを。貴女の物ですね?」

「まあ! ありがとうございます……あら?」


 男が差し出したハンカチを見て、カーミラは息を呑んだ。

 信じられないものを見てしまった。いや、見なかった。

 見事な刺繍が施されたハンカチから、蝶だけが跡形もなく消え去っていたのだ。


「蝶がいませんわ! 何処かへ飛んで行ったのかしら」

「面白い事をおっしゃいますね」


 カーミラが慌てると、男は「ふふ」と笑った。かあっと、カーミラの顔が紅潮する。


(笑われてしまいましたわ! 失礼ですわね! 笑うと目じりが下がりますのね! 可愛いですわっ!)


「嘘ではありませんのよ!」

「失礼。疑った訳ではないのです。蝶がいなくて、寂しいですか?」

「ええ。とても見事な蝶でしたのよ? 青い羽がとても……あら! まるで貴方の髪や瞳の様な色でしたわ!」


 そこまで口にして、カーミラはハッとあることに気が付いた。

 ハンカチが飛ばされた先に立っていた、逃げた蝶と同じ色を持つ男。


(まさか、まさか……! この方はあの蝶なのかしら? ひょっとして、おとぎ話に出てくる妖精さんではないかしら!?)


「貴方はもしかして妖精なのではないですか?」

「なぜ、それを?」

「やっぱり!」


 自分の予想が当たっていたことに、カーミラは素直に喜びを露わにした。


「貴方、お名前は?」

「私に名はありません。私は……すみません。言えないのです」

「うふふ。貴方は蝶の妖精さんでしょう? 名前がないなら、私が付けて差し上げますわ!」

「素敵ですね。あなたのような美しい方に名付けてもらえるなら私は幸せ者です」

「うふふ。嬉しい! さあ、何がいいかしら」


 目を輝かせながら、ここぞとばかりにカーミラは男の姿を眺めまわした。


 線の細い優し気な目元。すっと通った鼻梁に薄い唇。美しいのに逞しい……


 ふと、おとぎ話のエルフの姿が思い浮かんだ。


「リーン」

「……え?」

「伝説の救国の魔術師様ですの! とてもお美しい方だったといいますわ!」


 魔術師リーンと王女ルシアの恋物語は、カーミラが一番好きな物語だった。


「……ありがとうございます」


 何故か男が礼を言った。


「いえ、素敵な名前です。でも恐れ多いのでは?」

「そうかしら? 貴方は私が今まで出会ったどんな殿方よりも麗しいですもの。きっとリーン様も怒ったりなさらないわ! それとも、レダス様の方が良かったかしら?」

「……リーンとお呼びください。レディ」

「まあ! 私のことは、ミラとお呼びくださいませ。ね? いいでしょう?」

「ええ。ミラ様」

「ミラよ! 様も付けないで! 私も、リーンと呼びますわ」

「分かりました。……ミラ」

「はうっ!」


 名前を呼ばれただけなのに、リーンのすさまじい破壊力に、危うくカーミラは意識を持っていかれるところだった。この方の笑顔と声は凶器ですわ、と、カーミラは拳を握って何かに堪えた。


「ミラ」

「何ですの?」


 カーミラが上目遣いに見上げると、リーンは微笑みながら小さな手を取って自分の方へと引き寄せた。


「きゃあ!」


 腰に回された逞しい腕に胸がキュンと締め付けられ、カーミラは小さく悲鳴を上げた。


「名前を、ありがとう」

「はうっ!」


 竪琴の声が甘い風となって、カーミラの耳をくすぐる。


 リーンの腕の中にすっぽりと納まったせいで、リーンの鼓動が聞こえてくる。カーミラと違って、リーンの鼓動はゆったりと時を刻んでいた。……少し、寂しい。


「ミラ」

「何ですの?」

「ミラ。名前をくれたお礼に、願い事を3つ叶えて差し上げます……貴女が笑顔になる願いなら」


 そう言って、リーンはニッコリと微笑んだ。

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