第34話 笑顔の連鎖
ロイは目を閉じ、深く息を吐いた。
闇が息に混ざり、遠くに散っていく。
闇は、ロイの味方だ。
小さな闇の粒が確かな質量を持って、ロイを守り、癒す。
幼い頃、父を待つ間ずっと本を読んで過ごした。ご飯やお風呂の世話をしてくれるお婆さんがいたけれど、その人は何も話さなかったし、話しかけても無視をされた。彼女が耳が聞こえず、口もきけないのだと知ったのはいつ頃だったろうか。
お婆さんは腰が悪く、ずっとトントンと叩いたり擦ったりしていた。
ロイが擦ってあげると、お婆さんはびっくりした顔をした後、ロイを抱きしめて頭を撫でてくれた。「僕は頭いたくないよー。いたいのはお婆ちゃんの腰だよー」と言っても、聞こえていないので止めてくれなかった。仕方がないので柔らかい胸に埋もれたまま、手を伸ばしてお婆ちゃんの腰を擦った。お婆ちゃんはよく分からないことを言っていたが、今思うと「ありがとう」と言っていたのだろう。
あの頃の闇は、ロイだけではなく、他の人の痛みも治してくれていた。
ロイが念じれば、闇は一本の手の様に伸びてゆき、遠くの物を触ったり、父がまだ教会に辿り着く前から足音を運んでくれたりした。
あの頃、ロイは闇を自在に使えていたのだ。
ロイは目を閉じたまま、ゆっくりと息を吸う。
闇の粒子が体内を巡っていく。
長らく忘れていた感覚だった。
闇は願って応えてもらうものではなかった。闇は、自らの意思で操るものだったのだ。
(もうすぐ、夜が明ける)
あまり時間はない。
ロイは覚悟を決めると、自室のドアを激しく叩いた。
「誰か! 誰か来て! 痛い、痛いいっ! 助けて!」
ロイはありったけの大声で叫んだ。自分でも、こんな声が出せたのかと驚いている。
しばらく叫んだりドアを叩き続けていると、兵士の一人と執事の男が慌てた様子でやってきた。「どうした」と尋ねる執事に、「腹が痛い。腸が捻じれて死にそうだ」と訴えた。
ガチャガチャと、鍵を開ける音がする。ロイは床に倒れ、体をビクビクと痙攣させた。
「おい、しっかりしろ! お前に死なれたら旦那様から殺される……!」
恐怖に怯えた顔で、男達が入ってくる。
ドアが、閉まった。
「ありがとう」
床に倒れたまま、汗に濡れた髪を頬に貼り付かせながら、ロイは妖艶な笑みを浮かべた。
思わず呆けた二人の男を一瞬にして闇のベールが包んだ。闇はそのまま二人の意識を刈り取った。
「ありがとう。これは、貰っていく」
執事の服から鍵の束を取り出すと、ロイは自分の足枷を外し兵士の足に嵌めた。
執事の服を剥ぎ取り身に着けると、部屋を出て鍵をかけた。
地上へ向かう途中、奴隷たちがいる牢へ寄った。
「逃げるか?」
と、問うたロイに、奴隷達は首を横に振った。奴隷契約の魔法がある限り、彼らは逃げきることが出来ない。「分かった」とだけ言い残し、ロイは闇を纏って外へ出た。鍵束は、牢へ投げ入れてきた。彼らの気が、変わるかもしれなかったから。
「ロイ!?」
少し走ると、父の姿が見えた。父は薄い防具を身に着け、剣を握っていた。
本当に、今夜実行に移る気だったのだろう。
(間に合ってよかった!)
ロイは駆ける足を速めた。
父は、突然現れた息子に驚いたのか、目を丸くして口をぽかんと開いていた。
ロイはそれがたまらなく可笑しくて、愛しくて、勢いのまま父に抱きついた。
「父上……!」
久しぶりに抱きついた父の胸は、記憶よりもずっとずっと小さかった。
「父上……! ごめんなさい! 忘れてて、ごめんなさい!」
ロイはギュッと、父を抱きしめた。父の匂いは、あの頃のままだった。
「……う……」
頭の上で父の呻き声が聞こえて、ロイはパッと手を離した。
「ごめんなさい、苦しかっ……」
「ヴォイ!」
今度は父が覆いかぶさってきた。チラリと見えた顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、ひどい有様だった。きっと、自分も同じ顔をしている。
「ロイ、ロイ、ロイ……!」
何度も、何度も、父は息子の名を呼んだ。
何度も、何度も、息子も父を呼んだ。
ばらばらだった二人の時計の針が、ようやく再び同じ時を刻み始めた。
ロイと父は手を取り合い、暗闇を駆け、国境近くまで逃げた。
人里離れた山奥で、二人は静かに暮らした。
父は、ロイに狩りや剣の使い方を教えてくれた。時には歌やダンスを教えてくれた。
父は、明け方になると震えだすロイを抱きしめてくれた。いつの間にか自分よりも背が伸びた息子の頭を、優しく、ゴツゴツとしたささくれた手で胸に抱き寄せ「父が守る」と囁いてくれた。
離れていた時間を埋めるように、父は息子に愛情を注いだ。
山奥での生活は、貴族のエドワードには辛いものであったろうが、ロイの前では文句の一つも言わず、いつも笑顔だった。
ロイは父の笑顔が嬉しくて、いつも笑っていた。
ロイが笑うと、父も笑う。父が笑うと、ロイも笑う。
決して楽ではなかったが、笑顔の連鎖が止まらない温かな暮らしだった。
ロイは願った。
ずっと、こんな幸せな日々が続けばいいと。
青天の霹靂
その日は、突然やってきた。
奴隷商人がエドワードの前に現れ、強引にロイの奴隷契約をはく奪すると、エドワードを連れ去ったのだ。
森で食糧調達に出かけていたロイは、置手紙で父が攫われたことを知った。
ロイは父を救うため、貴族の元へ走った。
そこで見たのは、廃人同然になった父だった。
強引な契約解除と封魔の術に、魔力の無い父は耐えられなかったのだ。
サルナーンは、孫が6つになり、子爵家の次男と婚約したため強行手段にでたのだった。
父を殺すと脅され、正式にロイはサルナーンの奴隷となった。
サルナーンの趣味よりはいささか見た目が大人ではあったが、ロイの妖しい美しさと、半魔をいたぶっているという優越感は十分に彼を満足させた。
再び屈辱の日々が続いたが、ロイは耐えた。闇魔法も使わなかった。
全て、父を守るために。
そんなある日、父はとっくに死んだ、と他の奴隷に聞かされた。
うわ言のように誰かの名前を呼び続けていたと、その奴隷は言った。
ロイの中で、何かが音を立てて壊れた。
ロイはサルナーンを殺そうとした。が、奴隷契約のため主人を殺すことが出来なかった。
ロイは捕らえられ、地下室に繋がれた。
ーーーそして1カ月後、王都でサラと出会う。
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