第33話 我慢の訳
「ロイとは、誰だ? あんたは、誰だ?」
驚きに目を見開くエドワードに向かって、ロイは畳みかけるように問いかけた。長い間まともな会話をしていないせいで、言葉は少したどたどしい。
「ロイ、私は……」
お前の父だ、と言おうとして、エドワードは言葉を失った。
一瞬、助けに来るのが遅くなったことを恨み、わざと他人のふりをしている可能性を考えた。しかし、記憶よりもずいぶんと低くなった声の少年は、瞬きもせず、闇色のビロードのような瞳で真っ直ぐに自分を見つめている。
(本当に分からないのだ)
どれほどの事が、この子の身に起こったのだろう。
(私のことはともかく、自分のことを忘れるなんて……!)
エドワードはゆっくりと、左手を格子窓から抜いた。
腹の底から、先ほどの震えとは違う震えが湧き上がってくる。
「……ロイは、お前の名前だよ」
大声で叫びたい気持ちをぐっと堪えて、エドワードは努めて優しい口調で語りかけた。
「名前……? 俺は、『化け物』だ」
ぐうっ、とうめきそうになり、エドワードは格子を握る手に力を込めた。
「そんなのは、名前じゃない! お前はロイだ。フロイアと私の息子だ……!」
「ロイ……フロイア? 息子?」
訳が分からない、と言いたげにロイが眉を寄せている。
「ここにいてはいけない。逃げるんだ、ロイ。父と、逃げよう。また、父と暮らそう……!」
格子を握る手に爪が食い込んで血が出ている。
ロイには、何故この男がこれほど必死なのか理解できなかった。
「逃げる、とは、見つかったら殺される、という意味だろう?」
「!?」
かつて、奴隷仲間の兄妹が逃げ出し、連れ戻され、惨い最期を迎えたことをロイは思い出していた。
「あれは、嫌だ。あんな死に方は、嫌だ。我慢さえすれば、夜が来て、傷は癒える。余計なことは、するな」
「……ロイ!」
「しっ……! 誰か、来る。どっか、行け」
それだけ言うと、ロイは足早にベッドへと戻った。
「ロイ。また来る。何度でも、来るから!」
悔しそうに言い残して、エドワードもその場を離れた。今、見つかるわけにはいかなかった。
冷たくなったベッドの中で、ロイは先ほどの男のことを思い出していた。
見張りの者が部屋を覗いたが、何事もなく立ち去ったので男のことは気付いていないようだ。
何故か、ほっとした。
(訳が、分からない)
ロイは目を閉じた。胸の奥がトクトクと脈を打っている。耳の奥に「ロイ」と呼ぶ声が残っている。
(ちち、とは何だ?)
考えることを止めていたはずの頭が、急に働きだした。頭が痛い。爆発しそうだ。
頭を抱え、身を丸くするロイを闇が包み込む。
闇は、温かい。
あの差し伸べられていた手も、温かいのだろうか。
(また来ると言っていた)
毎日、朝が来るのが恐かった。
でも、今日は。
ほんの少しだけ、明日が待ち遠しいとロイは思った。
父は諦めなかった。
昼間は森の中に身をひそめながら脱出の手段を考え、夜になるとロイの元へ通った。
ロイは相変わらずそっけなかったが、何日も、何日も、フロイアや幼い頃のロイの話を聞かせ続けた。
ロイは少しずつ、表情を見せるようになった。
ロイが戸惑いながら小さく笑った時、エドワードの涙腺は崩壊した。その様子に驚いたロイに「大丈夫か?」と聞かれ、声をあげて泣いた。慌てて口を押えて森に逃げ込まなければならず、翌日ロイに冷たい目を向けられても、エドワードの心は満たされていた。
「部屋の鍵は、どうやら執事が持っているらしい」
ある日、エドワードはロイにそう告げた。
食糧調達のために変装して訪れた近くの町で、たまたま屋敷を見張っている兵の妻と女友達との話を聞いたのだ。「うちの夫はあの屋敷で飼っている魔物を見張っている」と自慢げに話す女に「それは危険お仕事ですね。旦那様は勇敢だ。それを支える奥様も素晴らしい」と話に割って入り、「でも魔物が出てきたらどうするのですか?」と尋ねた。気を良くした女は「執事が鍵を持っていて、食事もドアの隙間から投げ込むだけだから大丈夫」と教えてくれた。「いざとなったら、うちの夫が倒すから心配ないわ。うちの旦那は元冒険者で……」と自慢話が始まったので「そうですか。それは頼もしい!」と適当におだてて立ち去った。
ロイの囚われている屋敷は小さく、森の中に隠されるように建っており、塀のようなものも無かった。屋敷には執事が一人とメイドが一人、見張りの兵も二人しかいない。
部屋の鍵さえ手に入れば、闇に隠れることのできるロイならば簡単に脱出できそうだ、と嬉しそうに話すエドワードに、ロイは平静を装って、ただ「ふーん」とだけ答えた。
その日は、怖くて眠れなかった。
エドワードが、直ぐにでも実行に移すのではないかと不安だったからだ。
(余計なことはしないで欲しい)
ロイは心からそう願う。
惨たらしく殺された兄妹の姿が、頭から離れない。思い出しただけで吐き気が襲う。
あんな死に方は嫌だ。あんな殺され方は嫌だ。
(あんな風に、あの人が死ぬのは嫌だ……!)
ガタガタと体が震える。
闇がいつもの様に包んでくれるが、全く震えが止まらない。
ロイは薄い布団にくるまり、ぎゅっと目をつぶって歯を食いしばった。
(我慢だ。大丈夫。我慢してればきっと……)
はっ、と、ロイは目を見開いた。
「我慢……?」
初めてこの屋敷で目覚めたあの日、何故か「我慢する」という言葉は知っていた。
それは記憶を失う前の自分が、ずっと何かを我慢していたからではないか?
あの人は言っていた。
生まれてからずっと、自分は教会の地下で育ったと。夜にしか来てやれなくて、すまなかったと。
(今と、同じだ)
だとしたら。
ピタリ、と震えが止まった。
「俺はあの人に会えないことを『我慢』していたのではないか……?」
声に出した瞬間、ぶわっと何かが頭の中で弾けた。殻が弾けて、中から紙吹雪が溢れる様な感覚だった。
(ああ……!)
涙が堰を切ったように溢れてくる。
「父上……!」
ロイは思い出した。
自分の奥深くに眠っていた、温かな記憶と感情を!
何故忘れていたのかと、自分を叱りつけたい気持ちでいっぱいだった。
「父上、父上、父上……!」
何度も、何度も言葉にする。
言葉にすればするほど、父への感謝の念で胸が熱くなった。
半魔の自分を、育ててくれた。
半魔の自分を、愛してくれた。
半魔の自分を、見付けてくれた。
そしてまた、危険を承知で共に逃げようとしてくれている。
「父上」
ロイは立ち上がった。
全てを諦め、夜が明けないことを祈っていた昨日までとは違う。
「俺は、あなたと共に生きる……!」
ロイの闇色の瞳に、光が宿った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます