第13話 月下の誓い

 父と邂逅したその日、サラは真夜中に目を覚ました。


 倒れ込んだまま気を失っていたらしく、冷えた体はあちこち固まって痛みを訴えている。

 柱時計は3時前を示している。


 サラはゆっくりと体を起こした。


 頭がむくんだように重く、耳鳴りと吐き気もする。


 サラは慎重にベッドから降りると、テーブルに置かれた水差しからカップに水を注ぎ、少し口に含んだ。


 突然、ぐらっと体が傾いた。


 カップが床に落ち、深夜の伯爵家に砕ける音が響く。

 サラは膝から崩れ落ち、両手を床に突いた。


「痛っ」


 カップの破片が手のひらに刺さった痛みに、サラは顔をしかめた。


「失礼します。大丈夫ですか? サラお嬢様」


 派手に音が響いたせいだろうか。若い侍女がランタンとタオルを持って部屋に入ってきた。


(確か、シズさんだったっけ? 日本人みたいな名前……)


 ぼんやりとする頭で、サラは艶のある黒髪をきっちりと後ろでポニーテールにした侍女を見上げた。

 サラはほとんど屋敷にいない上、使用人達は「サラとは口を利かないように」と、この屋敷の女主人から命じられていたため、シズとは事務的な話しかしたことがなかった。


「ごめんなさい。起こしちゃった?」

「何をおっしゃいます! ……手を怪我していらっしゃいますね? お召し物も濡れてしまわれています。まず、手当てをしますので、その後お着替えください」


 シズはテキパキと慣れた様子で手当てをすると、サラの服をあっさり剥ぎ取り、クローゼットからネグリジェを取り出してサラに着せた。


「ありがとう、もう、大丈夫よ? あまりここに居ると、お母様に叱られるわ」

「お黙りください。ひどいお顔ですよ?」


 さらりと酷いことを言いながら、眩暈のせいで動きがおぼつかないサラをベッドに座らせると、シズは櫛を取り出し、薄桃色の柔らかい髪を優しく梳き始めた。


 人に髪を梳いてもらうなど何年振りだろう、とサラは思った。


 不意に、くらり、と眩暈がして、サラは横に傾いた。

 ぱふん、とシズの胸がこめかみに当たった。柔らかくて、温かい胸だった。


「お疲れになったのですね。僭越ながら、サラ様は働き過ぎでございます」


 シズは櫛を置いて、頭を撫でながら指で髪を梳いてくれた。


 サラの体調不良は働き過ぎによるものではなく、父との邂逅が原因ではあったが、あえて侍女に言うことではないと、サラは訂正しなかった。


「……働きすぎちゃダメなの……?」

「駄目ですよ。いくら『記憶持ち』でも、サラ様はまだ子供です。子供は、こうして大人に甘えればいいんです。働くのは、大人の仕事なんです」

「でも、お仕事楽しいの」


 サラは目を閉じて、小さく呟く。


「皆、優しくしてくれるの。私が頑張ると、皆、喜んでくれるの」

「皆さんが喜ぶのは、サラ様が楽しそうだからです。今のサラ様を見て、喜ぶ大人はいませんよ。……サラ様は誰のために頑張っているのですか?」

「……え……?」


 シズはただ、「ご自愛なさいませ」という意味で言ったにすぎない。


 しかし、シズの言葉にサラは大きな衝撃を受けていた。否、衝撃を受けたのはマシロの方だ。


 マシロは記憶を取り戻して以降、誰も不幸にならないルートを目指して頑張ってきたつもりだった。


 だが、それはサラの望んだ人生だっただろうか。


 サーッと血の気が引く。


 記憶が戻った時、幼いサラの意識は故郷から連れ去られたショックで小さくなっていた。


 それを補うようにマシロの意識がサラの肉体を支配したことは当然の流れであったが、今でも意識の片隅で膝を抱えるサラに、マシロは手を伸ばしたことがあっただろうか。


 一度でも、サラの声に耳を傾けたことがあっただろうか。


 マシロはサラの体をぎゅっと抱きしめた。


(ごめんね、サラ。一番あなたのことを守らないといけない大人は、私だったのに)


 サラの体が自分が思っていたよりも小さく、疲れ切っていることに、マシロはやっと気が付いた。


(サラ、あなたはどうしたい?)


 思わず、嗚咽が漏れる。


 シズは、自分に身を委ねてくる小さな主をそっと抱きしめた。


「今日は、お仕事はお休みにしましょう。体調管理も、上に立つ者の立派な務めですよ?」


 シズの胸が温かい。とくん、とくん、と聞こえる鼓動が優しくサラとマシロを包み込む。


「うん。今日は、休みたい」


 サラの言葉に、シズは一瞬目を見開いたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。


「はい。後は私にお任せくださいませ。お仕事先の皆様にはお伝えしておきますので」

「うん。ありがとう……シズさん」




 しばらくして、穏やかな寝息を立て始めた主をベッドに寝かせたシズは、先ほどの夢のような一時を反芻した。

 気合で抑え込んでいた鼓動が、今は痛いほどにシズの豊かな胸を打っている。

 歯痒い思いをしていたはずの主との距離が、一気に縮まってしまった。

 窓から零れる月の光を浴び、小さく震えながら涙を流すサラの姿は、シズの母性本能をMAXまで引き上げていた。


(ゴルド様の意向だとか、テス様の指示だとか、奥様のくだらない命令だとか、もう、どうでもいい……!)


 安心しきった顔ですやすやと眠る少女を「守れるのは自分しかいない」とシズは思った。元々シズは思い込みが激しく、一途な性分だ。その心に、火が着いた。


(私は、サラ様の盾になります……!)


 以後、シズは堂々とサラと接することとなる。


 上司命令を無視する形ではあったが、お咎めは無かったという。

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