第十二話 住所の距離


 土曜日の朝。

 由美子はアパート「ツバメハイツ」の二階の自室、二〇三号室で、目覚めを迎えた。

「ふわわ…よく寝た~…」

 と思って時計を見たら、まだ朝の六時。

「うわ早い…もう少し寝ようか?」

 と布団の中で丸くなるものの、なんだか頭が冴えて、二度寝の雰囲気ではない。

「…しかたない、起きようかな」

 昨夜は女性教師だけで女子会を行って、けっこう飲んで帰ってきた。

 三四郎のヤキモチという思わぬサプライズのおかげか、お酒がすすんで飲み過ぎた気がしていたけれど。

「なんだかスッキリしているし、お肌の艶もいい感じだわ♪」

 ズバっと起きて、シャワーを浴びて、気持ちも整える。

 身長は平均的な由美子だけど、プロポーションは恵まれていて、巨乳に括れに安産型に引き締まった足首と、女子会でも弄られていた。

「~♪」

 シャワーを済ませて、朝食の準備。

 お米を炊く間にオカズを作っていて、何気なく眺めた窓の外が、よく晴れていて気持ち良い。

「良い天気だなー…」

 由美子が住むアパートは、築五年とまだ新しく、駅まで十分ほどだけど通りには商店街が続いており、駅の向こうには国道が走っていて、生活に便利な場所である。

 駅方面の反対側には、整備された河原が見える。

 アパートから少し歩くと河川敷の土手は自転車コースになっていて、その向こうは川まで、草野球が出来る程の広さがある。

 由美子が引っ越して来て、二ヶ月ほどが過ぎていた。

 そういえば、河原の方って行った事がないわ。

「ご飯が炊けるまで少し時間があるし…ちょっと見てこようかしら」

 朝食の後でも良かったのに、なぜか足が向いていた。

 休日だし、最低限のお化粧に、ラフな上下で外出。

「わぁ~、良い眺めだわ~!」

 休日の土手は、サイクリングを楽しむ若い人たちや、河川敷でボール遊びをする親子連れなど、早い時間から意外とニギヤカだ。

 犬の散歩をするオジサン。

(あはは、犬に引っ張られてるわ)

 サイクリングを楽しむ、若いカップル。

(いいな~、楽しそう)

 ジャージ姿でランニングをしている、眼鏡の男子。

(あら、格好良い男の子–)

「って、葵くんっ!?」

「! 由美子先生…!」

 担任教師の声に気づいて、少年はランニングの足を止める。

 三四郎は、濃紺色のジャージで首にタオルを引っ掻けて、誰が見てもランニングスタイルだった。

「ど、どうしたの、こんな所に!」

「由美子先生こそ、なぜこの河川敷に?」

 休日の朝に、偶然の出会い。

 由美子の心臓がドキんっと高鳴る。

「わ、私は、この近くのアパートだから…」

 と、ついプライベートな話をしてしまう。

「そうだったんですか…。ああ、由美子先生はご存じだと思いますが、僕の実家はここから四駅ほど離れてまして。土曜日はこの河川敷まで、ランニングで往復しております」

「こ、ここまでっ? 走ってっ?」

 自己紹介の際に、体を鍛えるのが好きだと言っていたけれど、まさか四駅往復ランニングとかしているとは。

 そして今朝、朝食を作っている最中なのに、この河川敷へと足が向いた自分。

(ぐ、偶然…よね…)

 なんだか巡りあわせみたいで、ドキドキしてしまう。

「少し休憩しましょう」

 そう言って、少年は足下の斜面草地へと、腰を下ろす。

 由美子もなんとなく、少し距離を開けてだけど、隣へと腰かけていた。

(あ、私…隣に座っちゃってる…)

 今更だけど、意識してしまうと恥ずかしい。

 思わず指で髪を整えたり。

 とにかく、教師らしい質問で間を持たせよう。

「い、いつもこんな距離まで、ランニングしているの?」

 女性教師の気持ちを知る由もなく、三四郎はいつも通り、テキパキと答える。

「土曜日は休日ですし、ここまで走ります。いつもは学校がありますし、近所の公園のコースで周回します。せっかくの土曜日に、昼まで寝ているとか、勿体ない気がしてしまいますので」

「う…そ、そうね~。偉いわ~」

 耳が痛い由美子だ。

「由美子先生は、よくこの河川敷に来られるのですか?」

「ま、まぁ…」

 今日初めてなんだけど。

 と言ってしまうと、運命っぽくて恥ずかしいので、誤魔化した。

「そうですか。知っていれば、もっと前から由美子先生とここで、このように週末デートが出来ていたかもしれないのに、惜しかったですね」

「え…え…?」

 週末デートとか、恥ずかしい事を堂々と言ってくる少年は、いつしか隣の間近に寄って、由美子の美顔をジっと見つめていた。

 あいかわらず、強い眼。

 熱と圧を隠さない視線で見つめられると、視線を逸らせなくされてしまう。

 キス。

 そう頭を過ると、子供たちの声でハっと我に返る。

「ま、まぁホラ…今日、会えたワケだし…」

 何を言っているのか、自分でもよく解らない。

(って言うか…っ!)

 先日のヤキモチの時には、後ろめたそうにシュンとしていて可愛かったのに、今朝はもう、いつも通りに自信まんまんっぽい。

 恥ずかしくて視線も美顔も逸らしたい担任教師は、頬の上気を隠すのに必死だ。

 何か話題を。

「あ、葵くんって、本当に、身体を鍛えるのが好きなのね」

「厳密には、好きといいますか…」

「?」

 三四郎は、家庭の事情を話してくれた。

「僕が子供の頃、父の勤めていた会社が倒産しまして、両親は共働きになりました。それなりに困窮していた家庭でしたが、やがて父の起こした新しい事業も軌道に乗って、金銭的な心配は無くなりました。兄たちも大学を出て卒業して、実家を経済的に助けたりして、僕も高校に通う事ができてます。母はまだ趣味としてパートを務めてますが、金銭的に困窮していなくても、過度なぜいたくは控えたいと思っています。僕が両親や兄たちから学んだ事は、人生の荒波を乗り越えるために最も基本的な必要スキルは、学業と体力である。という事実です」

「…それは…そうね…」

 正しい認識だけど、高校生としてはとても凄いと、由美子は思う。

(私なんて…何も考えずに大学を選んじゃってたなぁ…)

 とか、不要な自省を促される担任教師である。

「まあ、そんな事情というだけです…」

 家庭事情や自分の考えを話す事が恥ずかしかったのか、三四郎はソッポを向いてしまっていた。

 可愛い。

 と。庇護欲に似た感情を刺激される、年上の彼女。

「あなたの年齢で そう思えて実行できるのは、凄いし偉いと思うわ。ただ、無理し過ぎないでね」

「はぃ」

 覗き込みながら優しく告げると、少年はまた恥ずかしそうに、小声で応えた。

(あら…)

 いつも堂々としているのに。こちらから歩み寄ると、恥ずかしいらしい。

(意外と 年頃な男の子らしいところもあるのね)

 そんな一面も、知れると嬉しい。

 一方的に攻められる感じが悔しいのか、三四郎は、思い出したように告げてくる。

「そうでした。先日の飴、ご馳走様でした」

「う…っ!」

 キスを回避する為の飴。

 自信たっぷりみたいな顔の少年は、一本取り返して安心しているような感じだ。

 対して由美子は、思わず頬が朱くなる。

(こ、このまま負けてなんて いられない…っ!)

 何と戦っているのかはともかく、一本取り返さなければ。

 そんなタイミングで、少年のお腹がグゥと鳴った。

(! 勝機っ!)

「そ、そうだわっ! 丁度ね、朝ごはん作ってるのよ! 良かったら、食べていかない?」

「えっ!?」

(えっ!?)

 言ってから、気づいた。

(わ、私っ…葵くんを、部屋に誘ってる…っ!?)

「ぇえっと…」

 気づいたときには、撤回できないほど、少年の瞳が予想外のワクワクで輝いていた。


                      ~第十二話 終わり~

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