第十話 少年の不機嫌


 屋上から小走りで教員用の女子トイレへと駆け込んだ由美子は、鏡を見ながら猛省していた。

「目が真っ赤だわ…」

 哀しみのどん底→歓喜の頂点と、まだ朝なのに最底辺から上昇しきった複雑な涙で、目もその周りも、腫れ上がっていた。

 こんな有様では、職員室にも行けない。

「それに、私…」

 なんとだらしなくニヤニヤしてしまっている事か。

 三四郎が女子からのラブレターを断った事や、まるで宣誓のようにキスをされた事。

 嬉しく幸せでたまらないのが、丸出しである。

「こ、こんな事じゃっ、教師失格よ…っ!」

 と自分に渇を入れるものの、貰った言葉とキスを思い出すと、美顔もニヤニヤしてしまう。

「ふにゃあ~…ってダメ! 今は忘れてっ!」

 とにかく冷やしたり化粧を直したりで体裁を整えると、気持ちを切り替えて、職員室へと向かった。

「お早うございます」

「おや松坂先生、何か良い事でもありましたか?」

 隣の席の男性教師が、由美子のニヤニヤ美顔に気づいた様子。

「えっ、ぃいぇあのっ–せ生徒たちから挨拶されるのって、なんかとても、嬉しいなあって…」

「あはは、解りますよ。僕も新任の頃、学生たちの挨拶に なんかとても感動を覚えたものですよ」

「で、ですか~おほほ…」

 何とか誤魔化せたようだ。


「起立、礼」

「「「お早うございます」」」

「はい、お早うございます」

 朝のHRでも、三四郎の視線は熱と圧を隠さない。

(こ、この視線…)

 ホワイトボードに書き込む際の背中でさえ、少年の視線が強く感じられる。

 後頭部や背中、腕や指先やお尻まで、正面だろうが横向きだろうが、全身をくまなくチェックされている感覚。

 これが、他の男子生徒や電車内での見知らぬ男性だったら、不快に感じてしまうだろう。

 だけど三四郎だと。

 くすぐったい。

 恥ずかしい。

 ドキドキする。

 もっと見て欲しい。

 身体が熱くなり、生徒たちに伝えるべきスケジュールですら、忘れてしまいそうだった。

「え~、学校側から伝える事は 以上です」

 HRが終わり、由美子が退室しようとしたら、数人の女子が話しかけてきた。

「先生~」

「はい」

 キリっとした美顔で応えると。

「由美子先生、すごく嬉しそう。何か素敵な事とか、あったんですか?」

 ギク。

 女子たちはみな、目が華やいでいる。

 由美子の無自覚で溢れる笑顔に、恋愛的な何かを感じ取っているらしい。

「だ、だって…みんなが元気に登校してくれる事が、こんなに嬉しいって、初めて知ったから」

「「「えへへ~♪」」」

 教師として模範解答のように答えて、職員室へと帰った。


 少年からの熱視線は留まることを知らないものの、特に大きな問題もなく、日常が過ぎてゆく。

 由美子の授業の進め方にも、ようやく慣れが見え始めて、一時限での説明も過不足が無くなっていった。

 まあそれも。

「先生、今日の授業の説明ですが、少々 詰め込み過ぎのようです。特に成績上位者のクラスメイトたちは、理解するのに少し時間が掛かった。と、話題になりました」

「ご、ごめなんさぃ…」

 教師の授業の進行具合を採点して報告をしてくれる三四郎にからかわれたくなくて、頑張ってペースをつかんだ事も、大きな要因である。

 授業に慣れてくると、それ以外でも少し変化が訪れた。

 朝の投稿風景で、男子生徒たちが挨拶をくれる。

「おはよ、由美ちゃん先生」

「センセーおはよー」

「はい お早う」

 こんなフレンドリーな感じも、心地よい。

 特に三年生の男子の中には。

「お早よー、由美子先生、愛してるぜ」

 と、大声で挨拶をくれる男子もいる。

 最初は驚いたけれど、今は。

「ありがとう。受験が終わったら、素敵な彼女 探してね」

 と、余裕の笑顔で返せるようになっていた。

(そうね、これが教師なのよね!)

 大人の対応も出来る私エライ。

 鼻歌交じりで登校する由美子の隣を、三四郎が通り過ぎる。

「お早うございます」

「お早う、葵くん」

 ドキっとしながらも、つとめて平静に挨拶を返すと、なんだかいつもと違う。と直感できた。

(? なんだろう…なにか、不機嫌…?)

 少年の友達は、いつも通りに挨拶を交わしているから、気づいているのは自分だけなのだろう。

(–って私、それでいいのっ!?)

 生徒の変調に鋭く気づくのなら、教師としては誇らしい。

 しかし由美子が気づいたのは、あくまで三四郎だから、という気がする。

(と、とにかく…なにか、不機嫌よね…)

 深刻な感じはしないけれど、どうしても気になる由美子である。

「あ、あの…」

 思い切って訊いてみようと声を掛けるものの、同時に、何か周囲の生徒たちに感づかれてしまうのではないか。とも思い、声かけを止めた。


 朝のHRでも、少年の熱と圧の視線に変化はないものの、それは視線が合っていない時だけで、目が合うと、気まずそうに視線を逸らす。

(? どうしたのかしら…?)

 何か怒っているという感じはするけれど、こちらに対して引け目があるような反応にも見える。

 何か、言いづらい事でも出来たのだろうか。

 と考えて。

(! まさか、今度こそラブレター貰ってっ–)

 と内心で波立ったものの、もしそうなら、呼び出されてハッキリと告げられているだろう。

(…よね…)

 では何なのか。


「あーモヤモヤする!」

「どうしたんですか?」

 食堂で一緒に昼食を摂っていた竹田先生から、突っ込まれた。

「い、いぇあの…た、竹田先生はその…もし男子生徒が、何か悩んでいるような、でもそれを口に出せないような感じでしたら、どうされますか…?」

 悟られないよう細心に、しかしなるべく的確なアドバイスが欲しくて、訊ねてみる。

 ベテランの竹田先生は、慌てる事なく答えてくれた。

「そうね…注意しておく事は必要だけど、こちらから話しかけるのもどうかと思うわ。生徒たち同士で解決する事もあるし、あの年頃だと、人に言いづらい悩みも多いでしょうし。もう何日か同じような感じだったら…それとなく話しかけてみる。くらいが、いいんじゃないかしら」

「なるほど…」

 ここは先輩教師の忠告に則って、しばらく何日か、眼鏡少年の様子を注意してみよう。

 と心に誓う由美子であった。


 そして翌日、

 三年男子からなど、いつもの挨拶が繰り返される中、やはり三四郎は不機嫌っぽいままだ。

(これは…やっぱり訊いてみた方が いいのかなぁ…)

 しばらく数日。という先輩の忠告も忘れ、少年の様子が気になってしかたがない由美子。

(もし、重大な事で悩んでいたら…)

(それが人生を左右するような、大変な事態だったら…!)

 私が、彼を助けないと。

 私が、何としても。

「ハっ–わ、私は教師としてっ!」

 自分の決意に自分で慌てた。


 その日の放課後。

 HRが終わって帰ろうとする三四郎に、由美子は思い切って、声をかけてみた。

「あ、葵くん…。ちょっと、生徒指導室まで、いいかしら…?」

「…はい」

 どこか不機嫌なまま、しかし素直に従い、三四郎は付いてくる。

 教室では、優等生の三四郎が呼び出されるという異様な光景に、クラスメイトたちがネタ的に盛り上がったりした。

 そして二人は、生徒指導室へ。


                      ~第十話 終わり~

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