第九話 年上の仔猫


 眼鏡男子に促されるまま、由美子は屋上へと連れられていた。

(ああ…ついにこの瞬間が…やって来てしまった…っ!)

 悲しいけれど、しかし学生としては、正しい選択だろう。

(せめて教師として…いいえ、私は…私として…)

 彼女とのことを、笑顔で祝福してあげよう。

 心が引き裂かれそうな俯く美顔を、しかし三四郎は、これまでにない真剣な眼差しで、しかも間近で凝視していた。

「あ、葵くっ–ぅわっ–な、なに…っ!?」

 見上げると目の前にあった、相変わらずの凛々しい面立ちに、思わず驚かされて、やはり心臓がドキんっと高鳴る。

 三四郎は、まるでこれ以上に無い緊急事態の如く、由美子に問うてきた。

「由美子先生っ、ここ数日、表情がすぐれないとは感じていましたがっ、何か心を痛めるような事件でもあったのですかっ!? もし由美子先生を苦しめる誰かがいるのであればっ、微力ながら僕がっ、全力でお守り致しますっ!」

「!」

 真剣に、覆いかぶさる程に迫る少年の言葉と視線が、由美子の心を大きく揺さぶる。

 そんなこと言わないで。

 どうせなら二股かけてよ。

 頭の中がゴチャゴチャにされる。

「な、何も…」

 想いと視線から逃れるように、美顔だけでも必死に逸らす。

 しかし三四郎は、あくまでグイグイと食い下がってきた。

「何もないとは思えませんっ! 由美子先生っ、何があったのか、どうか話して–」

 出来るかはともかく、笑顔で祝福しようと決意をしていた心が、あっけなく揺さぶられて。

「やめてよっ! そんな言葉、彼女にかけてあげてよっ! そもそもみんなっ、あなたの所為なんだからっ!」

 言っちゃダメ。

 と心のどこかで思いながら、溢れ出した感情は抑えられない。

「だいたい何よっ、勝手にキスしておいて、女の子からラブレターとか貰ってっ、嬉しそうにお付き合いとかしてっ! 私に飽きたならハッキリそう言ってよっ! 今更っ、優しくされたってっ–私…っ!」

 いつの間にか、少年と正面で向き合って、涙が溢れてしまっていた。

 言われた三四郎は、事実を指摘されて愕然としているという感じではなく、半分正解で半分外れな事を仰っているな。という、複雑な表情をしていた。

 私、教師失格だ。

 鬱憤を吐き出した女性教師が自己嫌悪に陥っている数秒の間に、三四郎は、由美子の言葉から大体の事情を推察できたらしい。

 少し驚いてから、落ち着いた声色で、まるで年下の彼女を諭すかのように、優しく語り掛けてきた。

「ラブレター貰った事を、由美子先生がご存じでしたのは初めて知りましたが、あのラブレターはお断りしました」

「…え…」

「手渡されたその場で断ろうとしたのですが、手渡してきた上級生は、代理だったらしく…。その後も教室まで断りに向かったのですが、当事者には逃げられてばかりでした。なので先日、駅前のファストフード店で待ち合わせをするという段取りになりまして。手紙を手渡した上級生と一緒にお店に行き、当事者に断りの返事を致しました。当事者が逃げ回るなど、手紙を手渡した上級生も呆れておりましたが、そんなわけで、ラブレターの一件は昨日、解決いたしました」

「…え、えっと…」

 優しくもスラスラと語られたラブレター騒動の顛末に、由美子の頭がまだ、ついて行けない。

「あ、あの女の子が…ラブレターの彼女では…え…? 断ったって…」

「由美子先生が、件の上級生の姿をご存じなのでしたら、本人に確かめてくださるのが 一番早いかと」

「い、いぃえぁの…わ、わかりました…で、でも…っ!」

 何だかわからないけれど、でもこの一週間、冷たかった。

「か、彼女の事…考え…たんじゃ…」

 まるで恋人のヤキモチだ。

 と、言ってしまってから、自分でも恥ずかしくなってしまった。

 そんな言葉にも、三四郎は冷静に応える。

「先日、現国・英語・数学・科学・歴史の五科目で、小テストが行われると、由美子先生が仰ってました。僕の現状としては、今までと違い予習復習授業中など、由美子先生を想うあまり、授業内容の理解が薄まってしまっていると感じておりました。もし僕が、由美子先生の色香にウツツを抜かして成績が下がってしまっては、由美子先生が一番、悲しまれるのでは…と考えまして」

「誰が色香よっ!」

 担任教師の突っ込みもスルーして、少年は説明を続ける。

「ですので、とにかくこちらを」

 言われて見せられたのは、問題用紙をもとにして自己採点をした、解答例だ。

 差し出されて、受け取って確かめる。

「現国九五点、英語九六点…数学百点…科学九八点、歴史九七点…」

「由美子先生の数学は百点、それ以外の科目は問一のみを不正解。と、全問正解と狙った設問のみ不正解という目標を、達成できました」

 下駄箱で話しかけて来たのは、これを見せたかったかららしい。

「それじゃあ…う…っ!」

 無表情を装う少年の顔には、目標達成の誇らしさと、由美子に褒めて欲しいという笑顔が、隠しきれずに現れていた。

「が、がんばりましたね…」

「はい!」

 素直に嬉しそうな三四郎だ。

「つ、つまり…」

「はい。勉強に集中する必要がありましたので、由美子先生への想いを必死に封印しておりました。それでも、由美子先生を想う時間は減る事もなく、勉強している間、ずっと由美子先生の事を想ってしまいました…。愛とは、実に不思議で苦しく切なく幸せなのだと、初めて思い知りました」

「そ、そぅ…だったの…」

 三四郎が冷たかったのは、由美子を想いながら成績を落とさないよう、新たな目標の自習スケジュールを組み直していたからだった。

 ラブレターは、受け取ったその場で、すぐに断る決意をしていた。

 昨日会っていた女子は、ある意味無関係。

「そ、そぅ…」

 三四郎の言葉を聞きながら、心が熱くなってゆくのが、止められない。

 ついさっきまで、これから地獄の人生が待っていると、しきれない覚悟をして、この世のどん底を彷徨っていた。

 なのに今は、天国に飛び上がれそうな程、心が嬉しくてたまらなかった。

 俯きながらも、頬が真っ赤に上気して、涙が溢れて止まらない女性教師の黒い髪を、三四郎は優しく、無意識に撫でる。

「ちょ…っ!」

 泣いた女子を慰めるような、優しくて大きな掌。

 心が喜びで爆発しそうだけど、そもそも年下の少年に頭を撫でられるなんて、教師としても女性としても悔しい。

 なのに。

「可愛いですね…由美子先生」

 あ、優しい笑顔。

 三四郎の微笑みを見てしまった瞬間、どうして良いのか解らなくなって、身動きが取れなくなっていた。

(こ、子供のクセにいいいっ!)

 頭にくるのに、ジっとしていたい。

 もっとこのまま、撫でて欲しい。

 たった一週間ほどだけど、いつもの視線を貰えなかった寂しさを、もっともっと埋めて欲しい。

(私っ、教師失格じゃない…っ!)

 自己批判に悩んでいると、両腕ごとギュっと抱きしめられる。

「え…んっ…っ!」

 優しく頬を取られたと解った瞬間には、口づけをされていた。

 ダメ。

 誰かに見られてしまったら。

 そう思いながら、離れようと掴んだ三四郎の上腕なのに、それ以上は動けない。

 頭の中が熱く真っ白になって、どれ程の時間が過ぎたのか。

 唇が離れ、由美子がゆっくりと瞼を開けると、少年の真剣な視線と表情が、強く向けられていた。

「由美子先生…先生に寂しい想いをさせてしまって、すみませんでした…。信じてください。としか言えませんが…僕はもう、絶対に先生を寂しくなんかさせません。どんな女性のアプローチも、その場で完全に断ります!」

「ぁ…」

 心の奥まで、三四郎の言葉と視線と熱が、染み込んでしまう。

「僕にとって、女性は由美子先生だけです! キスだけでなく、僕の心も身体もっ、精神的と肉体的と性的の全てを、由美子先生に捧げますっ!」

「…きょ、教室に、行きなさい…っ!」

 慌てて視線を逸らして、急いで校内へと駆け戻る由美子。

 私、ひどい顔。

 少年のキスを、無抵抗で受け入れてしまった。

 耳までどころか、顔中が真っ赤になってしまっているだろう。

 身体が熱い。

 涙が溢れる。

 全部嬉しい。

『寂しい想いをさせてしまって、すみませんでした』

 少年にあんな言葉まで言わせてしまった自分が、恥ずかしい。

 それでも、あんな想いを正面からぶつけてくる三四郎が、どうしても愛おしい。

(私…)


 屋上で一人残された三四郎は、由美子が走り去った屋上の扉を、黙って見つめ続けていた。


                       ~第九話 終わり~

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