第七話 マラソンの記録
新学期のスケジュールも消化して、いよいよ翌日から、本格的に授業が開始された。
「それでは、教科書の十ページを開いてください」
由美子にとっても、教育実習を経ての、初めての授業である。
「まずは この公式についてですが–」
一年生はまだ文系か理系かに分かれる前なので、現国も数学も学ぶ。
由美子も、自分のクラスとはいえ生徒たちに教える事には、まだ緊張があった。
教科書の設問を解かせて、解答させる。
「えーと…この設問、答えられる人」
と、当たり前の進行をしたら、三人ほどの生徒が手を上げる。
勿論その中には、三四郎がいた。
「えっと…それじゃあ、山下さん」
女子を充てて、無難にスルー。
あえて三四郎を指さなかった、というより指せなかったのは、少年の眼力が相変わらずの、愛情の熱と圧を隠さないからだ。
「はて、正解です。この公式は–」
こんな感じで授業を進め、三回ほど挙手を求めたら、三回とも手を上げたのは三四郎のみ。
(ま、まあ…入試満点だものね…)
流石に、三回も挙手をして指さないのは、問題アリな気もする。
「それじゃあ、葵くん」
「はい」
ハッキリとした返答に、僅かだけど確かな嬉しさみたいな感情を感じ取れたのは、気のせいだろうか。
(…なによ)
可愛いと感じてしまい、焦る。
三四郎の答えは完璧で、由美子の解説はむしろ他の生徒たちに向けての解説になっていた。
そしてスラスラと答えた眼鏡少年に、なんだか華やぐ女子たちも散見できる。
(…………)
それが何一つとして悪いわけではないのに、胸がムカムカしてしまう。
(こんな事じゃあ、教師失格だわ…)
自省しても、気分は晴れなかった。
翌日、体育の授業があって、HRの後に放課後。
職員室へ向かう由美子に、三四郎が声をかけてきた。
「先生」
「は、な、なあに?」
日を跨いでもムカムカしている気分を悟られたくなくて、由美子はごく自然な作り笑顔でも教師らしく対応。
「後で、体育の加持(かじ)先生に訊いていただけると解る事ですが」
今日の体育は、生徒たちの基礎体力を測る意味もあっての、持久力マラソンだったらしい。
時間の限り校庭のトラックを走り続けるという、生徒たちにとっては地獄の苦行だ。
発表を聞いた男子たちは絶望感に包まれ、みな肩を落として走り続けていたという。
「それは大変だったわね」
つい自然と、同情の苦笑いが出てしまう。
「マラソンは大してキツくは無かったのですが、僕が先生に知っておいて欲しいのは、周回です」
「周回…?」
「持久力を測るマラソンでしたので、終業のチャイムが鳴る十分前…約三十分ほど走り続けました。なのでコースを何周走ったか、という記録が残されました」
「そ、そうよね…」
つまり、三四郎がマラソンコースを何周走ったのか。という記録を、加持先生に訊いて確かめて欲しい。という話だろう。
「ど、どうして…?」
と思わず訊ねてしまったけれど、理由は解る。
「先生には、ちゃんとお知らせしておきたいと思いますので」
これも、三四郎なりのアプローチだ。
「では、失礼いたします」
いつも通りの綺麗な礼をくれると、眼鏡男子は教室へと戻って行った。
「…訊けって 言ったって…」
男子生徒のマラソンの記録を聞いて、変な顔をされないだろうか?
とか思いつつ、自信タッブリな男子の記録は、確かに気になってしまった。
職員室に戻ると、体育担当の中年男性である加持先生が、同じ体育教師である女性の山頭先生と、歓談をしていた。
(じ、自分の受け持ちの生徒たちだもの…気になっても、おかしくないわよね…)
由美子は自分に言い聞かせつつ、恐る恐る声を掛ける。
「あの…よ、宜しいですか?」
「「はい?」」
体育教師が二人で応じて、ちょっと焦る。
「その…今日の体育で、持久マラソンをされたようで…」
どう話を繋げようかと考えていたら、二人の方から話してくれた。
「おお、ちょうど今、山頭先生とその事で話していたところですわ」
「あなたのクラスの葵くん、すごいわね~!」
入試満点という事実は教師の間でも話題になっているから、体育教師の二人も、ある程度は注目していたらしい。
「いや、私は面接を担当してなかったもんでね、てっきりガリ勉タイプだろうと思ってたんですわ。いや~、あれはなかなか 鍛えてますわ」
「松坂先生も 見てみなさいよ!」
言われて、差し出された記録用紙を見る。
「し、失礼します……ぇえっ!?」
男子たちが、多くてコースを二十三周という感じで、少ない生徒は十周にも届いていない。
そんな中で、三四郎は五十七周も走っていた。
「ご、ごじゅ…」
「いやいや 本当に驚きましたわ。これはもう高校のマラソン選手でも、なかなかいない持久力ですわ」
「中学の頃に陸上をやっていたわけでもないらしいのに、この数字ですよ! 陸上部に入って本格的にマラソンを鍛えれば、全国大会も夢じゃないわ!」
二人の教師が興奮している。
由美子は、その数値の高さを理解出来ているわけではない。
けれど、他の生徒たちとの比較だけでも、単純に二倍の周回だ。
(す、すごい…!)
「ねえ松坂先生! 先生からも、陸上部、薦めてみてくれないかしら?」
「私からも、ゼヒお願いしたいところですわ!」
「は、はぁ…」
由美子の生返事も気にせず、体育教師たちは少年の記録に見入っていた。
「陸上部かぁ…でもそんな気、なさそうだけどなぁ…」
帰りの電車で、由美子はボンヤリ考えていた。
身体を鍛えるのは好きだと、自己紹介の時にも言っていた。
(でもまだ、運動系のクラブには入ってないわよね…)
生徒たちからも、入部届けを出したという話は聞こえてきている。
三四郎的には、趣味で鍛えるのは好きだけど、部活として本格的に鍛えるつもりは無い。という事なのだと思える。
それに来週は、各教科での小テストもある。
(今 部活の話とかすると…勉強の邪魔になっちゃうかな…?)
とはいえ、高校時代に部活で汗を流したり友達と切磋琢磨する事は、後々の人生でも良い財産になるだろう。
(何より…高校時代の友達って、一生付き合ったりするものね)
加持先生たちに頼まれた事でもあるけれど、部活を薦めてみるのも悪くないだろう。
「そうよね。あれだけ体力あるのに、勿体ないわよね。うん」
とりあえず明日、放課後にでも薦めてみよう。
と決意をした由美子であった。
翌朝。
登校中の学校付近で、前を歩く三四郎を見つけた。
「いた」
昨日もというか毎日会っているのに、少年の姿を見ると、なんだか嬉しくなってくる。
「んん…えっと…」
とはいえ、どう話しかければよいのか、迷う。
一方的にとはいえ、キスをしてきた少年である。
こちらから気安く声を掛けると、勘違いをして、イキナリ理性のタガが外れたりしないだろうか。
(バカ…考えすぎよ!)
内心でドキドキしながら、話しかけるタイミングを探る。
曲がり角で、三四郎の脚が少し遅くなって、周りの学生たちとも距離が開いた。
今だっ!
由美子は意を決して、少し速足で近づいてゆく。
(まずは、昨日のマラソンの記録の話をしてっ–)
ドキドキを静めたいかのように、教師として話しかけるべき話題を組み立てて。
「あ、あおぃく–」
声を掛けようとして、由美子の脚も、時間も止まる。
歩を止めた三四郎の視線の先から、頬を染めた少女が、眼鏡少年へと歩み寄る。
「あの、葵くん、これ…っ!」
由美子の目の前で、一人の女子生徒が、三四郎へと「♡」のシールが栓として貼られた封筒を、手渡したのだ。
(…………ええええええええええええええっ!?)
~第七話 終わり~
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