さよなら風たちの日々 最終章ー3 (連載44)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第44話


              【6】


ヒロミ、と声をかけた。そのあとぼくは不安にかられた。あそこにいるのは、ほんとうにヒロミなのだろうか。フェンスの内側で見た限りでは、実はそこにいる女性がヒロミである確証はない。飛び降りを考えている別な女性かもしれない。あるいは幽霊、妖怪、未知の生物。地球外生命体。

 恐怖を顔に張り付けながらぼくはフェンスに指をかけ、その女性に声をかけた。

 やがてその女性がゆっくり顔を上げ顔をぼくに視線を合わせた。間違いない。かき上げた髪から覗いた顔は懐かしく、愛しく、そして狂おしいほどのヒロミだった。その顔はぼくに驚き、凝視し、やがてそれが誰だか分かったのだろう。両手で口を押えたまま、まばたきもせず、そのままぼくを見続けている。

「ポール。ポール、なの」

「どうして、ここが、分かったの」

 ポツリ、ポツリと訊ねるヒロミにぼくは、

「超能力だよ」とだけ答えた。

 ぼくはまたウソをついた。ぼくのウソは、ほとんど思いつきや出まかせで言うので根拠はない。しかしそのウソを補強するためのウソを次々に言うと、またそれが何の矛盾も齟齬もないことから、周りの人間はたいていそのウソを信じてしまう。特にヒロミは人を疑うことを知らない女の子だったから、その効果はてき面だった。


 ほら、とぼくは、おいで、おいでのジャスチャーをしてヒロミを呼んだ。

「こっちに来いよ。話はそれからだ」

 けれどヒロミは首を静かに振り、それを拒んだ。

ならばぼくが、フェンスの外に出るまでだ。しかしこのフェンスに手をかけながら、ぼくは思った。この高さ180cmのフェンスを、あのチビ助はどうやって乗り越えたのだろう。

 けれど今、それを考えている暇はない。

 どこか足をかける場所はないだろうか。そう思ってフェンスを見渡すと、ヒロミがいる場所から少し離れた所にフェンス同士を連結するクランプ(継ぎ手)が取り付けられているのに気づいた。クランプはフェンスの上段部分、中段部分、下段部分の三か所に取り付けられている。そのうちの中段クランプは、ぼくの腰のあたりだ。これに足を載せれば、フェンスの向こう側に降りられるかもしれない。

 ぼくは意を決して、中段のクランプに片足を引っ掛け、上体をフェンスの上に載せてから、フェンスの外側に飛び降りた。


 その瞬間、ぼくは足がすくんだ。恐怖で動けなくなってしまったのだ。屋上の一番外側に高さ30cmほどのパラペットがあるとはいえ、十一階建て団地、地上50mの高さにある屋上フェンスの外側に立ったのだ。いわばそこは断崖絶壁と同じだ。

ぼくはたちまち目がくらみ、地上に吸い込れそうな感覚になる。

 怖い。身体が硬直した。震えた。緊張と恐怖で身動きできないのだ。どうしよう。

 ぼくは自然と四つん這いになった。これはワンダーフォーゲル部で覚えた三点確保という方法だ。この方法は登山や崖、沢登り、急斜面を移動するとき、両手、両足を四つの接地点にして、常に一点だけを動かしてほかの三点で身体を支えながら移動するテクニックだ。ぼくはそのぶざまな爬虫類のような姿勢のまま、ゆっくりヒロミに近づいていった。あぶら汗がひたいを流れた。

 するとヒロミが「来ないで」と叫んだ。その声は今にも、屋上から飛び降りかねない勢いだった。くそっ、どうすればいいんだ。ぼくは無様な腹ばい姿勢のまま、くやしそうにヒロミを見上げるしかなかった。

 

 怖い。泣き出しそうになるほど怖い。そしてヒロミの次の行動が、それ以上に怖い。これが命を絶つと決めた人間と、それを考えたこともない人間の違いなのだろうか。

 なぜヒロミは地上50mにある狭いパラペットの上で、膝小僧を抱えたまま落ち着いていられるんだ。なぜヒロミは地面に落下する恐怖に吞まれず、平然としていられるんだ。なぜヒロミはそんな状況下にあっても、泰然自若としていられるんだ。

「ヒロミ。ダメになったんだろ。だからおれん家、来たんだろ。おれとやり直したいって思って、おれん家来たんだろ」

 しかしヒロミは静かに首を振り、それを否定してみせた。

「やり直したいなんて、思ってません」

「ただ、ポールに」

「最期の挨拶をしたかっただけなんです」

 ヒロミはやはり、ポツリポツリと答える。

 最期の挨拶だと。最期の挨拶だと。最期の挨拶だと。ぼくはヒロミの言葉を空しく繰り返すしかなかった。やはりそうか。やはりそうだったのか。やはりヒロミはここから飛び降りて、みずからの命を絶とうとするつもりだったのか。

 何とかヒロミを思いとどまらせる方法はないだろうか。

 ぼくは考えた。そして思いついた。はっきり言って、それは詭弁だった。

「ヒロミ。おまえ昔、上野公園でおれに、ずうっとずうっとおれを待ってるって言ったよな」

「ヒロミ。覚えているか。その言葉」

 ヒロミはこっくりうなずいた。

「それって、このことだったんだろ。おれがここに来るって分かってて、それを待ってたんだろ」

 ヒロミは答えなかった。ただ何かを探るように、目を動かしているだけだった。

「教えてくれ。あれからおまえに何があった。おれと喫茶店で別れてから、それからおまえに何があったんだ」

「あれからのおまえの誰も知らない話を、おれに話せよ。教えろよ」

 するとヒロミの唇が、何かを言いたげにかすかに動いた。

「そうだ。子供はどうした。あのときのおまえのお腹には、あいつの赤ちゃんがいたんじゃなかったっけ」

 ヒロミはその問いかけに唇を噛みしめ、そしてポツリと言った。

「生まれてきませんでした」

「死産でした」

 沈黙が流れた。周りの音は何ひとつ、聴こえてはこなかった。ときおり弱い風が、ヒロミの髪を静かに揺らすだけだった。ヒロミは声を殺して泣いている。嗚咽をこらえながら、しゃくりあげたり、すすり泣くその音だけが、その周りに聴こえる音のすべてだった。

 ぼくはヒロミの言葉を催促した。

 さあ、ヒロミ。教えてくれ。おまえだけの、誰も知らない話を。喫茶店ポールでぼくと別れたあとのヒロミの、誰も知らない物語を




                           《この物語 続きます》







 

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