Ex.2 ある特殊部隊長の弱点
特異症例罹患者保護センター、通称
広大な敷地の中に複数存在する建物、その中の一室にある執務室。
部屋の主である
どんな組織でも、部下の数が増えれば書類に関する仕事も増えるものである。
自らが書く分に加えて、チェックする作業が発生する。
急造かつ未熟な組織であれば、不要に思える書類も数多く処理しなければならない。
いかなる過酷な現場でさえ苦も無く駆け回ってきた、歴戦の戦士の心を容易く折りかけている敵の名は、書類の山。
四十年弱生きてきて、ここまで敵を恐ろしく感じたのは、猪名にとって初めての経験だった。
書類を処理することが得意な幻獣が存在して、その能力を得たものが組織に入ってくれはしないだろうか?
「ん……ああ」
くだらない現実逃避をしていた猪名の耳が、人の接近を捉えた。
ピッという電子音とともに、頑丈な扉が開錠される。
入室してきたのは部下――猪名の中では相棒だと捉えている女性だった。
「おう、お帰り」
「四万(しま)。戻りました」
整然とした挙動で、猪名へと礼をする。
平均的な女性の身長であるものの、引き締まった肉体と強い意志が宿った顔立ちは、独特の風格を宿していた。
「なあ四万……このまま、いくと腕が鈍ることになりかねんぞ。拙(まず)くないか?」
うんざりとした様子で猪名は愚痴をこぼした。
「他の部隊とは、性質が違うということを上は真に理解できていないのでしょう」
颯爽とした足取りで自らのデスクに移動しながら、四万は上司の意見に同意した。
長年の経験により構築された組織とは違う。
思惑も実力もバラバラな人材ばかりが集まっている。それらを束ねるために、トップに座るものには圧倒的な力が必要なのである。
到底敵わないと周囲が納得するような力が。
ましてや、この地では一般的な犯罪者よりも厄介なものたちまで収容されている。
未知かつ、強力な力を持つものが多いだけに秩序が崩れた時、何が起こるのか誰にも想像はつかない。
崩さないことが絶対に必要だと、猪名をはじめ施設に在籍するものの多くが考えていた。
「いっそ、俺の書類仕事を別の誰かが分担してくれればいいんだが……」
頭脳派でもある部下へと、猪名はさりげない視線を送った。
「……私は、すでに隊長の倍は書類仕事を行っていますが」
四万は上司からの無言の要請をにべもなく切り捨てた。
「それはあれだ……スマンな」
「いえ、気持ちは分かりますので」
この地にいる時点で、四万も本性は武闘派と呼ばれる人材である。
名前を聞くだけで震え上がるものがいるほどの。
体全体ではなく頭や手ばかり動かしている日々は、彼女にとっても望ましい時間の過ごし方ではなかった。
「作業をしながらでいいので、報告を聞いてください」
「分かった、聞かせてくれ」
キレのいい返事とは裏腹にあっさりとキーボードから手を放し、猪名は四万へと向き直った。
「例の件について報告を。回収は無事に終了。各種偽装工作も警視庁協力の下で進められています」
「そうか」
「技術部の解析によると、保護対象者が使用したのは水の力で決定です。
現場の痕跡から、交戦したものたちの力の強度は、うちの班長たちより、やや低い程度ではないかと」
「四万の見立ては、違うんだな?」
顔色一つ変えずに報告しているようにみえる表情に、些細な変化を見てとった猪名は、四万へと問いかけた。
戦いの名手である猪名は、観察眼が人並外れて優れていた。
「……あくまで静止画と動画を見た限りと前置きさせてください。
敗者については、技術部の報告通りかと。ただし勝者側については別意見です。
あのレベルで環境を破壊するような敵と戦ったうえで、まともな痕跡すら残していません。
極めて高い力量の持ち主です。どれだけ上かは情報が少なすぎて計れませんが……」
「やばい相手か」
「やばいでしょうね。低く見積もっても班長たちは越えるのではないかと」
自らが所属する組織にとって不利な予測だというのに、四万は淡々とした様子で口にした。
「そうか」
「交戦が避けられない場合は、隊長か私、姫宮(ひめみや)のうち誰かが当たるべきです」
「……それは楽しみだ」
部下から仕方のない人だと呆れた視線を送られながら、猪名は獰猛な笑みを浮かべた。
「で、凄腕たちが東京に住んでいるのは確定だと思うか?」
「いえ、人口比率的に、東京が多くなっているという可能性は捨てきれません」
これまで謎のチームが関与した事件は、把握されているだけで、北は北海道、南は福岡に及ぶ。
各地に協力者がいると初期の頃は予想されていたが、事態が進むにつれ別の説が濃厚だと結論付けられていた。
謎のチームは、高速で移動する手段を有している。
COSDが使用するヘリコプターのような現実的な兵器ではない、おそらくは高レベルのスキル。
「……東京での事件が多いことも、偽装工作な気がしてくるな」
「あえて今は考えすぎず、情報を集めるべきです」
「その情報とやらを、新たな保護対象者から得られればいいんだがな……はぁ」
猪名は椅子に体を投げ出すように 頭の後ろで腕を組んだ。
「保護対象は衰弱しているうえに輸送中には二班がついていますから、回収は滞りなく進むでしょう。情報の聴取については……」
「無駄だろう。どうせ今回もまともな記憶は存在しないさ。
一番厄介なのは、やはり記憶に影響を与える能力者なのだろうな……」
「私は最初から、そう申していましたが」
「確かにな」と猪名は頷いた。
四万だけが謎のチームと交戦したと思わしき保護者を初めて収容した時、記憶が曖昧だという点を非常に危険視していた。
本来の所属――警察庁で『天才』と呼ばれた四万。
権謀術数、椅子取りゲームが繰り返される組織で、シンプルな誉め言葉ともとれる異名を持つことの意味は大きい。
その彼女の発言を猪名だけは最初から重要視していたが、肝心の情報部や技術部がとりあうことはなかった。
早めに、現代科学やスキルを用いた記憶の回復などの方法を研究できていれば。
官民問わず、様々な場所から人員を集めた弊害がそこにも表れていた。
猪名の思考を遮るように、室内に内線の着信を告げるコール音が鳴り響く。
四万は猪名に視線を向けると、受話器をあげ、そのままスピーカーフェオンへと切り替えた。
「至急の要請です。製薬会社にて謎の事故が発生」
室内に響き渡る、くぐもった男性の声。
時間も詳細も不明な入電。未知だらけの、この部隊らしいと猪名は苦笑した。
「場所は埼玉県にある製薬会社の研究所。そこに勤めている人間数名が、その……」
「どんなに異常な内容でも構わん、簡潔に話せ」
言葉を濁した職員を猪名は叱咤した。
「突然、石になったとの通報が」
「……仕事の時間だな」
首を回しながら、猪名は椅子から立ち上がった。
「そのようですね」
「すぐに動けるのは、七滝(ななたき)班だけか」
「はい」
タイミングの悪さに猪名は内心で舌打ちをした。
全部で六班。そのうち最低でも二班は必ず施設の守備にまわさなければならない。
さらに、危険度が高い保護者を回収するために二班を割いている。
状況に対して、ふさわしい戦力はと猪名は思考する。
答えはすぐに出た。
「四万も来い」
「了解」
猪名の意図を察したのだろう、四万は素早く行動を開始した。
「それから、白萩(しらはぎ)に呼び出しをかけろ」
「白萩班は二週間ぶりの休暇ですが」
猪名は「分かっている」と答えた。
今日は一日中眠るんです、と隈だらけの顔で幸せそうに笑う部下と、数時間前に会話したばかりなのだから。
「心から申し訳ないと思うがな、唯一の回復能力の持ち主だ。
それに犠牲になるのは白萩一人だ、他の班員はそのまま休暇で構わん」
「……余計に恨まれそうですが」
「……その分、しっかりと休みを振るさ。マジでな」
猪名は、同情的の面持ちで部屋を退出していく四万を見送った。
彼女にしては珍しい表情である。おそらくは、四万も隈だらけの白萩を目撃していたのだろう。
石化という想定はしていたが未遭遇のスキル。
防ぐことは可能なのか?
あるいは防御を無視していかなるものも固めてしまうのか?
死地と呼べる場所に向かうというのに、猪名の精神は高揚していた。
ひと時とはいえ、書類の山から離れられることに開放感を感じていた。
帰ってくれば、より高くなった山が待っているという事実から目を逸らして。
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