第17話 vs 欺瞞の水魔
夜の闇を吸い込んで、水面は黒色に染まっていた。
遠くに目を向ければ、巨大な水門が
遮るもののない河川敷、水音と風の音だけが辺りには響いていた。
川辺には、一心不乱に頑強な堤を眺めている男が立っていた。
その背に向かい、あえて足音を立てながら鳴瀬は歩を進めた。
尾行をはじめて、かれこれ三十分は経過している。
ここが終着点なのだと理解しての行動であった。
「お兄さん、何か用ですか?」
振り返りもせずに、男が問いかけた。
「誘い込んだのはそちらだろう?」
鳴瀬は答えながら歩みを止めた。
二人の距離は全力で駆ければ、数秒で零になる。
「不思議なことにね……あの日から堤防や水門を見ると、耐えがたいほどにイライラするんですよ」
振り返った男の身長は、鳴瀬よりも十センチメートルは低い。
鳴瀬が平均よりも高い程度だと考えると、やや小柄な部類に入るだろう。
「その分、手に入れたものもあるだろ?」
「メリットだけを享受することはできない……ってことですかね?」
「この力に限らず、人生ってのは大概がそんなもんだ」
他愛のない会話の中で、互いに確かめ合う。
お前は同類か、と。
「私、何かミスをしましたか? 痕跡は残していなかったと思うのだけれど……」
「すぐに身元が分かるほどのミスはしていなかったかもしれんが……力に詳しい人間であれば、いずれ辿り着いたと思うぞ」
「そうですか……これからは、警察以外にも気をつけなきゃならないなぁ」
「お前に、次があると思っているのか?」
そして宣言する。
同類、お前を狩りに来たと。
同類、返り討ちにしてやると。
「ふふっ、怖いこといいますね」
「笑顔でいう台詞かよ」
「やりますか?」
「いや、さっさと本来の姿に戻るといい。慣れた体のほうが動きやすいだろう?」
逸る相手に向かって、鳴瀬は待ったをかけた。
「……へぇ、そこまで気がついてるんですか?」
「知識があれば分かるだろう。お前に変身能力があることは」
ぐにゃりと男の顔が歪む。
数度、全身を大きく痙攣させると、その体が変化し始める。
みしり、ぐちゃりと音をたてながら、小柄な男は完全にその形を失った。
鳴瀬の前に立つのは、数秒前までとは違い、女性だった。
腰まで伸びた黒い髪。
夜の闇に、ぼうと浮かび上がるような白い肌。
一回り体格は小さくなり、凹凸にも明らかな変化が起こっていた。
変わらずに身に着けている紺色のスポーツウェアだけが、彼と彼女が同一人物であることを証明していた。
「性別まで違うことに、驚かないのですね?」
「臭いで分かった」
「……そう、臭いは擬態できないのか。勉強になったわ」
女は楽しそうに呟いた。
やはり普通ではない相手だと、鳴瀬は探るような眼差しを向けた。
「戦う前に一つだけ、本物の渋海はどこだ?」
「水の中で眠っているんじゃないですか? まだ形が残っていればだけれど」
「殺したのか?」
「多分ですけどね。私……興味のない人のことはすぐに忘れるんですよね」
「はっ、そうか……遠慮なく潰せそうだ、スラヴの水の精」
鳴瀬は、女の正体を口にした。
東欧で語られる水の精。
水に住み、人を水へと引きずり込む怪異。
「ふふっ、正解……」
女は狂気じみた笑顔を顔に張りつけながら
「ヴォジャノーイ」
囁くように扉を開けた。
『
二人の脳内に機械的な声が響いた。
途端に不気味な気配が女の体から吹き出す。
周囲の草花がざわりと揺れた。
向かい合っていたのが、ただの人であれば、それだけで逃げ出してしまうような圧力が周囲を包み込んだ。
「……ほう」
「はぁ、この感覚、たまらないわ」
「たいしたものだな。二段階目の終盤には至っている」
「二段階?」
「ああ」
不思議そうに首を傾げる女に、言い含めるように鳴瀬は語りだした。
「この力には段階があるんだよ。どれだけ幻獣と同調できているかのな。
例えば二段階目を越えると、解放後よりも効果は劣るが生身でも一部のスキルが使用できるようになる。お前の擬態能力のようにな」
「詳しいですね?」
「まあ、俺もすでにスキルを使用しているからな」
「……え?」
女は呆けた様子で声をあげた。
「%K¥」
鳴瀬の口から、言語化不能の奇怪な言葉が紡がれる。
『#s$&n*@w。能力解放』
続いて、テレビジョンに映る砂嵐をより不快にしたようなノイズが、両者の頭の中に響き渡った。
「今、のは」
不快さで顔をしかめながら水魔は言った。
「認識疎外。どうだ悪くない力だろう?」
「こちらだけ情報が得られないなんて……それは、不公平じゃないかしら?」
女は、この場に来て初めて苛立つような表情を浮かべた。
目の前の敵は、有事の際に備えて幻想上の生物について学んできたのだろうと鳴瀬は察した。
初手から目論見が外れたことに不満を覚えているのだ。
「不公平ね。無関係の人たちを一方的に殺したお前がそれを言うか?」
「……ふふっ、それもそうねっ」
答えながら、女は右手を突き出した。
『水弾 ―ウォーターバレット―』
先制攻撃。
鳴瀬の脳裏に、文字が浮かび無機質な女性の声が響く。
その現象に慣れている鳴瀬は、焦ることもなく右方向への軽いサイドステップで身をかわした。
空中に突如現れたバスケットボール大の水が、目にとめるのも難しい速度で、鳴瀬が一秒前まで立っていた場所に着弾した。
軽く地面がえぐれたことからも、その威力が窺い知れる。
『水槍 ―ウォータースピア―』
続けざまに棒状の水が二本、タイミングをずらして鳴瀬に襲い掛かる。
平行と頭上からの、絶妙なコンビネーション。
「いい攻撃だ」
『瞬歩 ―クイックステップ―』
予備動作もなしに、鳴瀬の体が高速で動きだす。
自らに迫る鋭い刃に対し、とった行動はただの回避ではなかった。
瞬きほどの時間で敵に肉薄した鳴瀬が、そのまま腕を振り上げると勢いに任せて叩き付けた。
『引っ掻き ―スクラッチ―』
見えない爪が女を襲った。
「ちっ……」
『水流 ―ウォーターフロウ―』
ドウッと激しい音をたて、女の体が後ろに滑る。
吹き出る水を移動に使用したのだ。
『瞬歩 ―クイックステップ―』
体にかかる水飛沫も気にせずに、鳴瀬は追撃を行った。
『水膜 ―ウォーターフィルム―』
「無駄だ」
身を守るために咄嗟に水の膜をまとった敵に、鳴瀬は告げた。
経験値が違う。
この事態の
『突撃 ―チャージ―』
さらに加速しての体当たり。
鳴瀬は斬撃ではなく、膜・幕系のスキルでは防げない衝撃をすぐに選択した。
人の体同士がぶつかったとは思えないほどの鈍い衝突音。
車にでも衝突されたかのように、数メートルほど吹き飛んだところで、女の体はようやく停止した。
幻獣の力で強化されていなければ、決着となっていただろう一撃に、彼女は顔を顰めただけで転がるように体勢を立て直した。
すぐさま片膝立ちになると、両手を真上に掲げた。
「はぁ……ああぁぁっ」
背後から、ズルリと水が立ち上がる。
その挙動は、鳴瀬に水の精が川から地上へと這い上がる様を想起させた。
『水瓶 ―ウォータージャグ―』
鳴瀬の中には驚きも焦りもなかった。
彼女がこの河川敷に選んだ時点から、地の利を活かしてくるだろうことを予想していた
人が走る程度の速度で空中を移動した水の帯は、鳴瀬と女の中間地点で巨大な球状へと変化した。
支えもなく、バスタブ一杯よりも多量の水が宙に浮く様子には、現実感の欠片も存在していなかった。
事情を知らない人間が目にすれば、間違いなくこう考えるはずだ。
これは魔法だと。
「はっ!」
『水連弾 ―ラピッドウォーター―』
水の塊からちぎれるように、無数の水の球が放たれる。
一つ一つに人の骨をへし折り、筋を引きちぎる威力が込められたそれらに向かい、鳴瀬は気負うこともなく歩みを進めた。
傾き、翻り、避ける。
機嫌よくステップを踏むがごとく、ゆっくりと敵との距離を詰め続ける。
目標を外れた力の塊が地面に衝突し、鈍い音が周囲に響き渡った。
「……っ」
『水たまり ―パドル―』
このままでは的中させることも難しいと考えた女が、機動力を奪うべく地面へと影響を与えるスキルを行使した。
鳴瀬を中心に地面がグジュリと緩み始める。
『跳躍 ―リープ―』
助走もない軽い足踏みがもたらした結果は、驚異的な距離の跳躍。
無駄だといわんばかりに、鳴瀬はあっさりと効果の範囲外へと飛び去った。
「はぁ……先輩らしいアナタに聞きたいんですけど、この頭に浮かぶ文字と、煩い声をカットする方法を知りません?」
「諦めろ。慣れるしかない」
「参ったなぁ、今後もこれに付き合わされるのね」
「今後、ね。それを実現したいならもっと全力を尽くせ。お前と俺の差は大きいぞ」
「……お望みどおりに」
「最初からそうしろよ、殺人鬼」
その身から放つ圧力を一段階増した女に、鳴瀬は冷(さ)めた視線を向けた。
「殺人鬼って……本人としては、一般人のつもりなのだけれどっ!」
『蒼い投槍 ―ブルージャベリン―』
汎用スキルには名前の法則性がある。
水であれば、その一つ上は蒼となる。
相手は一段階ギアをあげてきた。
鳴瀬の予想通りに、先ほどまでとは別次元の速度で、目に見えて巨大化した水の槍が襲い掛かる。
『瞬歩 ―クイックステップ―』
「それは一度見たわっ!」
『蒼の塁壁 ―ブルーウォール―』
足元から立ち上がる水の塊に、鳴瀬はスキルを停止させた。
「水流!」
『水流』
足を止めた鳴瀬から、さらに距離をとるように女は叫んだ。
鳴瀬には彼女が何を考えているのか手にとるように分かった。
一連のやり取りの中で、徹底的に距離をとれば戦いにはなると考えているのだろう。
「獣型の生き物なのは、間違いなさそうですね」
「答えを探している分、思考の容量が割かれているみたいだな。特に隠すつもりもないんだが」
「なら、今からでも正体を教えてくれません?」
茶化すような表情で女はいった。
「そうだな……せっかくだから、大きなヒントをやろう」
『遠吠え ―ハウリング―』
鳴瀬は予備動作もなく、スキルを発動させた。
それは音の爆弾。女のすぐ傍で爆音が鳴り響いた。
「ぐっ……あぁっ……」
距離をとることに意味はないと、鳴瀬は文字通り体に叩き込んだ。
接近を繰り返してきたのは鳴瀬にとって狩りの常套手段だから、それだけのことである。
「彼らの何十分の一でもいい、恐怖を味わえ」
『影歩き ―シャドウウォーク―』
よろめく敵を横目に、鳴瀬が己の基本ともいえるスキルの一つを発動させた。
効果は単純だ、気配を殺すだけ。野生の獣よりも巧妙に。
ただし、夜の屋外、自然豊かな河川敷において、その効果は絶大だった。
透明化したわけでも、視界に影響を与えたわけでもないのにかかわらず、女は鳴瀬を見失っていた。
「なっ、どういう……っ!?」
背後からの僅かな音と圧力の変化に、女は咄嗟に防御行動を同時に行った。
『噛砕 ―クランチ―』
『蒼の柔幕 ―ブルーカーテン―』
「……ぐっ」
女の両足に複数の裂傷がはしる。
とっさに回避ではなく防御を行った彼女に、鳴瀬は戦いに対するセンスを感じ取った。
負傷に怯む様子もみせずに、女は言葉を紡いだ。
「距離っ!」
『蒼流 ―ブルーフロウ―』
己の身に負荷がかかることも厭わずに、強烈な水の力で距離をとる。
その距離は、戦いが始まってから最大となっていた。
「ちっ、あああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
自らの足を一瞥した後、女は声を張り上げた。
その叫びには強烈な苛立ちが宿っていた。
『蒼刃乱舞 ―ブルーオンスロート―』
大技の気配を感じた鳴瀬は、足を止めると、この戦いの中で始めて構える様子を見せた。
両腕をだらりとさげての脱力。
宙には無数の水の刃。
ただの水ではないのであろう、うっすらと発光したそれらは回避を許さないとばかりに、あらゆる角度とタイミングで降下を開始した。
『激流 ―トレント―』
追い打ちをかけるように、女の手から横薙ぎの水柱が放たれた。
消防や暴徒鎮圧に使われるよりもさらに上、受けるものを確実に破壊するため威力が、そこには込められていた。
「……死ね」
多方向からの圧倒的な水の暴力に包まれ、水飛沫と土埃で鳴瀬の姿は見えなくなった。
止めとまではいかなくても、これで深手を負わせたはずだ。
だがもしも、これでも大した傷を与えられなければ。
期待と不安で緊張した女の脳裏に、無機質な声が響いた。
『破壊の咆哮 ―ブレイキングバーク―』
女を襲ったのは、例えようもないほどの轟音だった。
全身をかつてない衝撃が襲う。理解できたのは吹き飛んだという事実だけ。
天地、前後左右、全てが分からないまま、女は大地の感触を頼りに身を起こした。
女が周囲を見渡せば、周囲の草花の全てがひれ伏すように折れ曲がっていた。
「どうした、その程度か?」
強烈な耳鳴りに、聴覚の大半を奪われ苦悶の表情を浮かべる水の精。
彼女に対し、月光の下、傷一つない姿で鳴瀬は問いかけた。
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