第14話 その服は湿っていた
飛鳥が大学を後にし、鳴瀬が喫茶店で資料を読み込んでいるのと同時刻――
奏多は、新たな地へと足を運んでいた。
先月、被害者となった男が飲食店を出て十五分後に遺体となって発見された場所である。
スマホの地図アプリも駆使して周辺を散策してみたが、特徴的な地形や施設を見つけることはなかった。
続けての空振りにも、奏多が気落ちすることはない。
すぐに分かるような違和感があるのであれば、二桁以上の被害者が出る前に、捜査のプロである警察が気がついていたはずである。
珍しい力を得たのだとしても、奏多は自分が特別だとは思わない。
しかしメンバーと力を合わせれば、そう平凡でもないという自負はある。
分析力、勘、人脈や経験に優れた仲間たちがいる。
ならば自分の役割は、彼らの網羅できない部分を埋めるために動き回ることである。
この場で成すべきことは、後はこれだけだと、奏多はしゃがみ込み手を合わせた。
「トモちゃんの知り合い?」
突然、背後から声をかけられたが驚くことはなかった。
奏多の優れた感覚は、人が近づいてきていることを、かなり前から捉えていた。
そのうえで、あえて接触するために冥福を祈るような行為を行ったのだ。
「ヤストミさんには、兄が仕事でお世話になりました。ホームセンターで文具の担当者をしていまして」
奏多は咄嗟にアドリブで話を合わせた。
釣れた魚の大きさは分からないが逃す理由はない。
トモちゃんなる人物が誰のことを指しているのかは、簡単なクイズだった。
この場で亡くなった男性の名前である。
「そうなのね」
オフィスを出発する直前に、被害者に関して判明している限りの情報は頭の中に叩き込んできた。
彼は文具メーカーに勤めている。そして家族と呼べる人間は存在していない。
つまり背後にいる女性は――
「花や飲み物を供えるのは、マズイですよね?」
「昼間は、車や自転車が結構通るからねぇ」
立ち上がって振り返ると、恰幅のいい中年女性が悲しそうな表情でアスファルトへと視線を落としていた。
「あの……」
「ああ、ごめんね。トモちゃんね、私の店によくご飯を食べに来てたのよ」
「常連と店員さんってことですか?」
「そうね。一応、一人でやってる店だから、料理長兼オーナーかしら」
女性は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「お店は、この近くで?」
資料によると、被害者は最後に利用した店から五百メートル程度の地点で亡くなっていたのだという。
この場から目と鼻の先に、その店があることは分かっていた。
彼女はその店のオーナーなのだろうと、奏多はあたりをつけた。
「ええ。すぐそこのお酒も飲める定食屋ね。亡くなった日もね、うちに来た帰りだったのよ」
「そうなんですか?」
最も話を聞きたかった人物との出会いに、奏多はできる限り情報を手に入れるべく集中力を高めた。
「常連さんが、亡くなって店に来なくなるってことは、たまにあるけどね。
うちの常連さんのなかで一番若かったから……簡単に割り切れなくてねぇ」
たぬきを想像させる愛嬌のある顔を、女性は曇らせた。
「野洲富さんは、よくいらしてたんですか?」
「週に二、三回は必ずね。弁当にしても自炊にしても、肉と炭水化物ばかりになるからって。本人は栄養補給のつもりだったのかもね」
「家庭の味を求めて、東京のおっかさんてやつじゃないですか?」
被害者は九州の出身であり仕事のために上京していたはずであると、資料を思い出しながら奏多は言った。
「やだ、そこは、お姉さんって言ってよ」
冗談なのだろう。からからと笑いながら女性は言った。
会話を始めた頃よりも、明らかに気を許した雰囲気を奏多は感じ取った。
アイドリングは十分だと判断し、本題について切り出すことにした。
「凍死だったんですよね」
「……正しくは、低体温症っていうらしいわよ」
女性の顔に影が差すのを、奏多は見逃すことはなかった。
それは怒りや悲しみではなく、不満の色を湛えていた。
「四月にもなって、ですよね?」
より深い話を聞くために、会話の燃料を投下した。
「ありえると思う?」
「……正直、疑問は感じました」
「そうよね。それが普通よね?
だって、あの晩はそんな寒さじゃなかったのよ?
そもそもトモちゃんはお酒に強い人だったし、店をでる瞬間も足元はしっかりしてたし呂律もまわってなかったわ」
立て板に水を流すがごとく、女性は語りだした。
「それが、外で眠って低体温症っていうのは気になりますね」
「ええ。金目のものが盗られていないし。車とぶつかったり、人と争ったような跡とかが一切ないから、事故だって」
「不審な点はないわけですか……」
既知の情報ではあるが、それをおくびにも出さずに奏多は相槌をうった。
事情に詳しすぎて不審がられることがないように、という配慮がそこにはあった。
「でもね、私たちは、あれは事故なんかじゃないって思ってるのよ。ちゃんと理由もあるの」
警戒は完全にとけているのか、女性は不満の感情を隠そうとはしなかった。
「理由ですか?」
「ええ。警察にも伝えたもの。
あの日ね、トモちゃんが店を出て十五分くらいしてから、外から騒がしい声が聞こえたの。
常連さんのお爺ちゃんが、俺が見てくるって外に出てね、そしたらトモちゃんが倒れてるって。
私も他のお客さんたちと、急いで駆けつけたのよ。それで、眠ったように倒れてるトモちゃんを一生懸命揺すったの。
すぐに触るなって他の人から注意をうけて、救急車を呼んだんだけど……」
情景を思い出しているのか、涙目になりながら女性は言った。
「そこで、その理由とやらに気づいた?」
「そう。トモちゃんの服がね、湿ってたの」
「湿っていた? 濡れていたじゃなくて?」
「濡れるってほどじゃなかった。生乾きの洗濯物を触ったみたいな感じ。もう一人、触った人も言ってたから間違いないのよ」
濡れた服。
そのキーワードを耳にした奏多の脳に、ピリと電気が走る。
月。
短時間での凍死。
吹雪であれば若者でも、容易に低体温症になりやすいという事実。
全ては繋がった。
あと一ピースが判明していないのだが、それは幻獣の力があればどうとでもなる。
「事故と判断されたということは、服が湿っていたという話は、警察では重要視されなかったんですかね?」
「それ以前の問題よ。夜の寒さで指の感覚が……とか、被害者の汗じゃないかとか、相手にもしてもらえなかった」
どおりで、取得した情報の中に記載されていなかったわけだと、奏多は納得した。
損傷のない遺体という絶対の証拠の前に、勘違いの類だと判断されでしまったのだ。
「その日、雨は降ってはいなかったんですよね?」
「一日中晴れだった。私たちが駆けつけた時には、地面も濡れてなんかいなかったし。
トモちゃんの服だけが冷たく湿ってたんだよ」
そう言って、女性は自らの両手のひらを見つめた。
「雨も降ってないのに、ただの事故だと思えないんだよ……」
「それは……」
絞り出すように言った女性に、奏多は何と声をかけていいのか分からなかった。
もしも鳴瀬のように人生経験があれば、ふさわしい言葉を選べるのだろうか。
「あの後、店でみんなと話しててさ、冷凍した食材が融けると濡れるじゃない?
他にもさ、暖かい場所に冷たいコップを置くと水滴がつくよね。
そういう感じて、何かトモちゃん、どこの施設とか機械で冷やされたんじゃないかって」
「店長さんだけじゃなく、常連の皆さんも事件だと考えているわけですか」
「証拠はないんだけど……」
女性は無念そうに口ごもった
奏多は女性の目的を理解した。
知人の墓の前に立っていた青年を捕まえて、思い出話をしたかったわけではない。
胸の内に渦巻く、モヤモヤとした感情を誰かに聞いて欲しかったのだ。
おかしい。
納得がいかない。
彼は事故死などではないのだと。
今、目の前で彼女が浮かべている悲痛な表情が、それを物語っていた。
「……事件か事故かは僕には分かりませんけど、野洲富さん、一生懸命怒ったり頭を悩ませてくれてる皆さんに、感謝していると思います」
奏多には真実を告げるわけにはいかなかった。
現実離れした誰かが、人を殺して回っているなどとは。
新たな不幸や怒りを生むきっかけにしかなりはしない。
だから、せめてもの慰めの言葉を口にすることにした。
「そうかねぇ……でもさ」
週に二、三回の常連客。それ以上の意味が彼女の中にはあったのかもしれない。
あるいは、全ての常連客に対して、こうして厚い情で接しているのか。
「感謝なんていらないから、やっぱり生きてて欲しかったよ」
「……そうですね」
奏多は頷くことしかできなかった。
ただ生きていて欲しい。
その気持ちを痛いほど知っているから。
「ああ、ゴメンね呼び止めて、好き勝手に話ちゃってさ」
自分が空気を重くしたことに気がついた女性は、焦ったように頭をさげた。
その言葉は心からの響きを帯びていた。根っから善良な人なのだろう。
奏多には、この人の店に通っていた被害者の気持ちが少し分かる気がした。
「いえ、こちらこそ、色々お聞かせいただいて。ありがとうございました」
目の前の女性のような想いをする人間は、一人でも少ない方がいい。
オフィスに帰り有力な推論を仲間に説明すべく、奏多はこの場を後にすることにした。
最後に、今一度、手を合わせ黙礼する。
そして心の中で誓った。
何百、何千分の一かは分からないが、自分たちが無念を晴らしてみせると。
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