第9話 九人目の犠牲者


 伊棟いとう冬生ふゆおは、疲れた体を引きづるように夜道を歩いていた。


「……そろそろ、日付変わるだろ」


 誰一人、聞くもののいない呟きが、夜の帳へと融けて消えていく。

 会社を出てからずっとこうだ。

 

 思い出したように愚痴をこぼすことで、ようやく気力を持たせていた。


 取引相手のミスによる残業。純粋な尻拭い。

 働いていれば誰しもミスくらいはする。それをフォローしあうのが仕事だとも理解してる。


 だが、急病が原因でチーム内の人手が足りていない。

 ミスした当人は長期休暇中であり、そもそも修正の作業に参加すらしていない。


 と、タイミングの悪さが重なれば話は別である。

 伊棟だけではなく、残業していた人間全員の心がささくれだったのも仕方のない話であった。


「ははっ……」


 沈んだ気持ちと疲れた体では、通い慣れた道も遠く感じるものである。

 まだ半分ほど歩くのかと、乾いた笑いを伊棟は浮かべた。

 


 右手に高校を囲むフェンス、左手には堤防という路地に差し掛かった時のことだった。

 

 見慣れた景色に見慣れぬものが混じるということは、それだけで強烈な違和感を呼び起こす。

 人気のない夜道であれば、なおさらに。


 一台の車両。

 変わった形のコンテナを搭載した、軽トラックが停車していた。

 薄暗さゆえに、詳細な色味は分からないが、背面には店名や社名などの文字は一切かかれていない。


 視界の中には民家や店舗は存在しておらず、この場に車両が存在している理由は不明である。

 事実、五年間通勤で使用し続けた道だが、この深い時間に車を見かけるのは初の出来事だ。


 運転者が社内で昏倒しているのではないか? そんな想像が頭を過ぎる。

 もしも、何かが起こっているのであれば、無視するのも後味が悪いと考える程度に伊棟は善人だった。


 心を落ち着けるように深呼吸を行うと、覚悟を決めて一歩を踏みだした。

 慎重に歩を進め、運転席側の窓に近づき、ゆっくりと中を覗き見ると――


 車内は無人だった。


「ふぅ……」


 安堵のため息が、思わず口からこぼれた。


 車体の前に運転手が倒れている可能性も考慮して、念のために視線を向けてみたが、どこにも人影は存在しなかった。

 取り越し苦労だ。幽霊の正体見たり、という言葉を伊棟は思い出していた。


 近隣の住民が他にとめる場所がなく、多少距離のあるこの場に駐車したのかもしれない。

 あるいは、誰かが逃走車などを乗り捨てたのだ。

 現実的な理由を心の中で探し、家路を急ごうと再び前方に向けた視線の先には――



 一人の女性がたたずんでいた。



 伊棟は思わず、びくりと体を震わせた。

「……ん」

 ただ立っているだけの女性に、過剰に反応してしまった自分が恥ずかしく、誤魔化すように咳ばらいをする。


 距離にして数十メートルはあるだろう。

 女性はスマートフォンを左手に持ち、動画でも見ているのか、特に操作することもなくただ画面を見つめていた。

 下から照らされた顔は、まるで暗闇に浮かぶようであり、伊棟の不安感を増幅させた。


 とはいえ、叫び声をあげれば届く程度の距離には民家も存在している。

 多少、気味が悪いとはいえ、道を変えるほどのことではない。


 女性が佇む方に歩みを進めながら、伊棟は内心で舌打ちをした。

 それにしても、ついていない。


 不審な車両だけではなく、妙な女性までが帰り道を邪魔するように立っている。

 人とすれ違うことは皆無ではないが、せいぜいランニングをしているものや犬の散歩をしている人間くらいのものだというのに。


 女性を避けるように、回り込みながら通りすぎる。

 ほどなくして、無事に通り過ぎることに成功する。


 

 家に帰るだけなのに、どうしてこれほど疲労しなければならないのか。

 ただでさえ疲れているのと、自らの不運に苛立ちを覚えた、その時だった。


「……ャ……イ」


 背後から聞こえた囁くような声。

 気のせいだろうか?

 いや、気のせいではなかろうとも構わない。

 理由があって自分を呼び止めようとしたのかもしれない、そんな可能性が頭を過ぎったが、伊棟は振りむくことはしなかった。


 これ以上、厄介ごとには巻き込まれたくない。

 一秒でも早く家に帰って休みたい気分だった。


 そう考え、警戒のために緩くなっていた歩調を速めたその時――



 ヒタリ。



 背中の全面に、冷たく柔らかい何かが触れた。

 この感触はどこかで……。


 慌てて振り返った伊棟の視界に映ったのは、ぼんやりと歪んだ景色だけだった。



 もしも、この周辺で同年代の男女が凍死しているという事件について彼が知っていれば。

 あるいは、残業などせずに家路についていれば。

 運命は変わっただろうか?


 どう転んでも、この不幸は避けられなかったのかもしれない。 


 悪意は最初から、彼を標的に定めていたのだから。



 その夜、彼は二十八年の生涯に幕を下ろすこととなった。

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