Ex.1 ある特殊部隊長の推測
信越地方のとある山中に、その建物は存在する。
表向きは警察庁の訓練と研修を行うための施設。
真の用途は、有事の際に特別な基地として使われるべく建設された、巨大な『家』であり『檻』である。
単純な物理的衝撃のみならず、熱や毒などの様々な攻撃に耐えうるよう設計された、ある種の要塞であった。
結果として、長らく真の役割を果たすことのなかったこの施設に、転機が訪れたのは半年前だった。
その頑強さと居住性の高さに白羽の矢が立ち、これまでとは全く別の用途で運用されることとなったのである。
新たな施設名は『特異疾病罹患者保護センター』。
関係者の間では
その物騒な施設名は、便宜上名付けられたものでしかない。
実のところ、特異疾病とは何なのか、
しかし、名前をつけなければプロジェクトとして共有できず、予算も人員も集められない。
そのためだけに着けられた、実態を鑑みてはいない仮の名称であった。
現在、この施設にいる人間は三種類。
特異な病に罹患――つまりは謎の力に目覚めた後に、様々な経緯で協力者となった民間人たち。
次に、謎の力を使い犯罪行為を行ったことで、通常の司法制度を適用することができなくなった収容者たち。
最後に、施設の管理や維持、謎の力に関する研究や対策を行うために、各省庁や企業から集められた職員たちである。
中でも、特に厳しく能力と人格がチェックされたうえで集められたチームが存在した。
特異罹患者保護部隊。
与えられた任務は守備的な名称とは裏腹に、謎の力を使う暴徒の鎮圧である。
施設内には、あらゆる組織から人員が派遣されている中、この部隊に限っては警察庁と防衛省のみから人員が集められており、何が期待されているかは火を見るより明らかだった。
その性質から、任務以外での外出を厳しく制限されている彼らは、訓練も休暇も施設内で過ごすことを強いられていた。
広大な面積を誇る施設なのだが、結局は区切られた空間だ。
最初こそ、物珍しい場所も多く散策するものもいるのだが、すぐにそれも飽きることになる。
結果として休暇の過ごし方は、自室にこもるか、施設内に数か所存在する過ごしやすい場所に自然と集まる形となる。
そんなスポットの一つ。適度な緑と蛇行した遊歩道に囲まれた中庭。
その中程にあるベンチでは、無地の白いTシャツにカーキ色のカーゴパンツというラフな格好の中年男性が草臥れていた。
足早に近づいてくる制服姿の部下に、仕事の匂いをかぎとって男は軽く溜息をついた。
「おはようございます
事務的な語りとともに、ブラックの缶コーヒーが差し出された。
「あー、来週配属される海保からの出向者か……すまん。出張から帰ってきて以降、ベッドの上で記憶を失くしていた」
小振りな缶を受け取ながら、猪名は肩を竦めた。
「いえ、吉野から話は聞いています。お疲れでしょうから無理もないかと」
同じブランドのカフェオレを手に、ショートボブの女性が言った。
ほぼ同時に倒されたプルトップが小気味良い音を立てる。
「後で目を通しておくが、せっかくだから軽く教えてくれるか?」
「獣の名前は、ケルピーだそうです」
「何冊かの本で目にしたな。あの、馬と魚がくっついたみたいなやつだろ?」
「覚え方が雑ですよ、隊長。馬の上半身に魚の下半身、川や湖に住むという幻獣で、スコットランドの伝承にて語られる存在です。
興味がおありでしたら、情報をまとめて資料としてお渡しします」
「……
「昔から、記憶力には自信がありますので」
四万は眉一つ動かさずに答えた。そこに謙遜の色はない。
「魚ということは、水中も自由に移動できるのか?」
頼もしい部下の知識に頼るべく、猪名は問いかけた。
「上も同様の興味を抱いたようですね。簡易に行った試験では、尋常ではない速度で遊泳したそうです。しかも息継ぎ無しで30分を越える潜水も達成しています」
「いや……それを、どうやって俺に指揮しろというんだ?」
猪名は苦笑した。
「同じ水に関する力を持っていなければ、指揮どころか共闘も難しいでしょうね」
「以前から、飛行できるものは班を分けるべきだと具申していたが……」
「水中の部隊についても、同様に考慮しておくべきでしょうね」
猪名には、むしろ水中に特化した部隊こそ急務に思えた。
陸上や上空に向かっては、謎の力を保有していない隊員でも、現行装備でかなりフォローできる。
最も戦力面での不安が残るのは水中及び水際であることは明白である。
「しかし本格的に部隊として運用することになると、現在の研究用のものではなく、全力での潜行訓練が可能な巨大プールが必要になるでしょうね」
「許可が下りるビジョンが見えん……」
COSDが設立されて一年と少し。資金と人材の大部分は研究の分野に流れていた。
未知の事象へ対処するための組織なのだから適切な判断である。
そのせいで他の部署には支流程度のものしか流れてこないために、猪瀬たちは分かりやすい形で割りを食っていた。
「当面は、現状の編成で動くしかありませんかね」
「そもそも、前線だって未知なことだらけなんだ。柔軟さとスピード感は必須だろうに、ここまで却下ばかりだとな……」
「そういえば、隊長。昨夜に運び込まれた収容者はご存じで?」
落ち込みそうな空気を察して、四万は話題を変えた。
気遣いの結果に提供されたのは、血生臭い話題であったが。
「簡単な報告だけは聞いている。運び込まれた時には、かなり酷い状況だったらしいな」
「かなり巨大なサイズの傷を負ったようですね。研究班によると、グリズリーなどの大型の生物と比較しても、まだ巨大な爪痕だそうで……地上には現存しない生物だろうと」
「力の所有者同士が、やりあったのは確定か?」
「はい。しかもサイズこそ大きく違いますが、以前に記録された傷と形状は酷似しているようで……」
「例の、謎の集団か?」
「はい」
「そうか、今までは力を抜いていたのか……あるいは、成長しているのかもしれんな」
猪名が眉間に皺を寄せる。
上司の言葉に四万は深く頷いた。彼女も全く同じ推測を立てていた。
「いつものように現場と思わしき周辺の監視カメラには、それらしい記録は見つかっていません。期待できそうな位置のカメラについては全て破壊されていました」
「毎度のことだが、一体どうやっているのか謎だな」
カメラが破壊される瞬間が記録されたり、別確度のカメラに映っていることさえ一度としてないのだ。
個人邸宅や商店、車にまでも映像記録装置が設置されている時代だ。
ここまで完璧に機械群から逃れていることは、それだけで脅威だと猪名には感じられた。
「電子機器を察知するような、力を持っているのですかね?」
「そんな力を持った幻の生物が存在するのか?」
「……私が読んだ限りでは、どんな書籍にも記載されていませんでした」
四万が悩まし気に口にした。
「いつもどおりといえば、今回も収容者は戦った相手の顔を覚えていないのか?」
「そのようです。特に今回の収容者はかなりの無法者だったようで、遠慮なく色々な手を使って確認したようなのですが」
「色々、ね」
部下の物騒な発言に、猪名は皮肉気な笑みを浮かべた。
「記憶、あるいは視界に影響を及ぼす力の持ち主がいることも確定ですかね」
「毎回、叩きのめされた側が相手の顔を覚えていないなんて、ありえないだろうからな」
「どれだけの能力者が関わってるんでしょうか……」
「交戦担当にカメラを破壊した存在。記憶に影響を与えているもの。目撃情報が皆無であることを考えると見張り役……人員輸送担当もいると考えるのが自然か?」
「いずれにしても、少数精鋭ですかね?」
「関わる人間が多くなるほど情報は漏れやすくなるからな。尻尾さえ掴めていないのは、強い結束力を持つ少数の集団だからだと考えるのが妥当だろうさ」
猪名と四万にしても、隊を運営するにあたり、もっとも苦心している部分が情報の取り扱いだ。
任務で外出した際に、どこに目や耳があるかも分からない。
彼らの部隊は様々な前歴を持つものたちの寄せ集めである。
疑いたくはないが、相当数いる隊員の中に情報を外部にリークするものがいる可能性を念頭に置いている。
それだけに二人は、輪郭さえ捉えられない謎の集団に対して感心さえ覚えていた。
「
「同意見だ。希望込みの予想だがな。手口の見事さを考えるに、さすがに三、四人の集団だとは思いたくない」
「思わないではなくて、思いたくないですか……言いたいことは分かりますよ」
四万は不敵な笑みを浮かべた。
「ああ。もしも、その規模のチームだった場合……恐ろしいまでの精鋭ってことになるからな」
相手がそこまでの力量の持ち主だった場合、共闘できる相手ならば幸運だ。
だがしかし、敵になるのならば、とてつもない脅威になる。
未だ道を交えていない強者に想いを馳せながら、猪名はコーヒー缶を傾けた。
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