第2話 紅沼 ― オーガ ―
名を呼ぶと同時に、無機質な声が頭の中に響き渡る。
『
瞬間、紅沼の体が一回り膨張する。だぶついた衣服が余裕を失くし悲鳴をあげた。
馴染みの万能感に笑みを浮かべた紅沼は、障害物を叩き潰すために行動を開始する。
力の差が不明ならば、初手をとることの意味は大きい。
言葉にならぬ唸り声をあげながらの突進。
鈍く響く足音が、紅沼の重量が見た目とは違うことを如実に表していた。
空気を強引に押しのけるような荒々しい足取りで、あっという間に獲物の元へと到着した悪鬼は息をつくこともなく、容赦なく顔面を押しつぶすために右の拳フックを繰り出した。
身長差のせいで打ち下ろし気味となったそれを、青年はたった一歩横に移動しただけで躱してみせた。
紅沼を嘲笑うかのように、そのまま青年は間合いを潰すように踏み込んだ。
今や間合いは、互いに振りかぶることさえ難しい距離だ。
紅沼は、とっさに背を反らし気味にしながら、上半身の回転のみで左の拳を振りぬく。
ダメージを与える目的ではなく、敵との間合いを広げるために。
「軽いよ」
不安定な姿勢で放たれた拳を、青年は軽くいなすように逸らせてみせた。
邪魔なものとそっと退けるかのように。
自らの拳の勢いで、投げ出されるように紅沼の体勢が前方に崩れる。
瞬間、青年は掌を暴れる鬼の脇腹へと触れさせた。
ドンという鈍い音の後、接触部から爆発的に衝撃が広がり、理解不能な痛みが紅沼の体内を襲った。
「がぁっ……」
混乱の最中、紅沼の胸に湧き上がるのは怒りだ。
屈辱だった。避けられるのは構わない。牙や爪を持っての反撃も覚悟していた。
だが相手は、未だ表情一つ変えていない。
観察でもするかのような眼。紅沼を厄介な敵とは見なしていないことが明らかだった。
流れを断ち切るため急ぎ距離をとるべく、爆発的な踏み込みでバックステップを行う。
同時に、全く同じ速度で青年が踏み込んだ。
第三者がこの場に居れば、それはダンスのように見えたことだろう。
互いに、そう動くことを示し合わせたような動きだった。
「おらぁっ!」
紅沼は急停止すると、苛立ちで声をあげながら右足を蹴り上げた。
大きな隙が生まれるために、未知数の相手に出すことを控えていた得意技だった。
だが、狙いすました先制攻撃が通じないのだから、大振りの一撃が通じるはずもない。
青年はただ避けるだけではなく、蹴り上がる足を、さらに高い場所に導くように掬いあげた。
浮き上がる体。次の瞬間、鬼の体と地面が重低音を派手にかき鳴らす。
肉とアスファルトがぶつかったとは思えないほどの、硬く鈍い音だった。
「……っぅ」
ほぼ痛みはないものの、強引に空気が肺から押し出され喉が言葉にならない音を出した。
駄目押しのストンピング。硬いブーツの靴裏が鳩尾に突き刺さる。
「うごぁぁっ」
本日二度目の苦痛に、紅沼が苦悶の声をあげた。
のた打ち回る巨体を青年が見下ろす。
どちらが優位者なのか、明らかである体勢なのに、その瞳には喜びの色はない。
転がり距離を取りながら紅沼は立ち上がる。
これまでとは違い、青年が追撃してくることはなかった。
「……スキルの存在を把握していないのか?」
代わりに不審げな表情で、何かを呟いているが、その囁くような声は紅沼の耳には届かない。
一連の駆け引きを経て鬼は誤解した。
やはり青年は自分と同類の化け物、しかも格上の可能性がある。
でなければ、金属バットで殴られても痛みすら感じなかった自分が、ここまでダメージを受けるわけがない。
速度も反応も、自分以上に強化されているのだろう。
であるならば、ここまでの展開は納得がいくものである。
ここにきて紅沼の頭に、逃走という選択肢が過る。
状況を打開するべく忙しく周囲に目を走らせた。
逃げに徹すれば、どうにか出来るはず。戦いの技術に格差はあっても、腕力や速度には絶望的な差を感じてはいなかった。
「硬いな……こっちも解放は必要か」
青年は軽く手を振りながら、呆れた声で言った。
「……は?」
紅沼には、一瞬、目の前の男が何を言っているか分からなかった。
それでは、まるで青年は未だあの力を使っていないようではないか。
敵はこの場に身をさらす前に、名を呼び、力を解放してきたはずだ。
同類、同条件だからこそ、人を越えた自分が押されていたはずだ。
「せっかく貰った力を、クソみたいな使い方しかできないアンタに一つだけ教えてやる」
青年の瞳の奥に、強い怒りの色が浮かぶ。
それは交戦が開始してから初めて見せた感情だった。
「名前を呼ぶことは、ただ扉を開ける行為だ。一歩目さえ踏み出していないんだよ」
一呼吸でゼロになる間合い。
風を切るように青年の足が低空をなぞる。
「ぅっっ!」
少し遅れて両膝に走った衝撃に、紅沼は声にならない呻きを漏らした。
痛みとともに理解する。青年は紅沼が行った所業を把握していることを。
逃げ足を潰したうえで獲物に拳を振るうことを、いつも楽しんでいた。
その意趣返しのために膝を破壊されたと。
紅沼は恐怖した。正しく、これから我が身に何が起こるのかを察してしまったからだ。
少しでも恐怖の中心から遠ざかるために、懸命に腕の力だけで這いずるように移動する。
そこに常人を越えたと、優越感に浸っていた男の面影はない。
「安心しなって、アンタみたいに悪趣味なマネはしないから」
同類だなどと酷い勘違いをしていたことを、紅沼は理解した。
同じ舞台で戦う戦士などではない。
狩るものと狩られるもの。
「一撃で終わらせる」
先ほどの蹴りのタイミング、速度、威力、その恐ろしさ。
よく見える目や、人並外れた肉体など得ていなければ、ただの鋭い蹴りだとしか認識できなかっただろう。
声を聞いたこと、力を得たことを紅沼は初めて後悔した。
「はぁ……クソが」
随分と早く醒めてしまった夢に、溜息と罵声が口からこぼれた。
せめて一矢報いるべく、最後まで暴れ抜いてやると覚悟を決めた鬼の視線の先――
「グリフォン」
青年の整った口から、終わりの言葉が紡がれた。
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