第一章 この世界は美しいと、彼女は笑った
第1話 vs 暴虐の悪鬼
夜更けの住宅街は、意外なほどに静かで暗い。
家々から漏れる生活の灯が消えてしまえば、そこは死角だらけの世界だ。
等間隔で立ち並ぶ街灯の周囲だけが、頼りない明るさで照らされていた。
暗く染められたアスファルトの上を、
年の頃は二十代半ば。攻撃的な目つきと恵まれた体格が印象的な男である。
まるで墨を頭から被ったかのように、紅沼の肌や衣服には全身に渡って黒い染みが纏わりついていた。
今が昼間であれば、あるいは、この場が灯り煌めく繁華街であれば、染みの正体はすぐに判明しただろう。
正しくは黒ではなく赤黒いそれは、全て血液。
人の血であった。
頭の中で謎の声が聞こえた、あの日。
紅沼は最初、何かの病気を患ってしまったのかと恐慌をきたした。
だが時間が経ち、声に込められた意味を知ると世界は一変した。
理解したのだ。自分は選ばれたのだと。
人智を越えた何かに祝福されたのだと。
今となっては、声を受信していなかった時の自分は不完全だったとしか思えなくなっていた。
初めて声に従って力を使った時には、何が何だか分からないままに全てが終わった。
溢れ出る高揚感に、制御の聞かない己の体。
思い返せば、力に振り回されたというのが正しい表現なのだろう。
全てが終わった後の光景は、圧倒的なものだった。
捻じれたガードレールと無残に折れた街路樹。それ以上に壊れた三人の屈強な男たちが地面に転がっていたのだ。
元々、暴力に塗れて生きてきた紅沼をしても、あまりに非現実的な光景だった。
興奮で眠れぬ夜を明かす間に、全て夢だったのではないかという考えが頭を過ぎった。
だが、一晩明けて現場に戻り警察が設けた規制線の向こう側を見た時、全てが事実であるのだと悟った。
被害者が後ろ暗いものでなければ、もっと世間を賑わす形で報道されていただろう凄惨な痕跡が、そこには残されていた。
厳然たる事実として、あの日、紅沼は人智を越えた力を得たのだ。
あれから、群れのどこにいるかばかり気にしていた日々は過去のものとなった。
人をトマトのように握りつぶせる圧倒的な身体能力。
それは金銭や地位のように、一つの間違いで全てを失うようなものではない。
体と魂の一部になっていることを直感が――何よりも頭の中の声が――教えてくれた。
力を得た当初は金銭を持っていそうな、それでいてか弱い存在ばかりを無意識に探して回った。
たっぷりと肉をつけた、逃げ足が鈍そうな獲物を。
幾度かの狩りを経て、そんな自分がいかに無駄な労力を費やしていたのかを理解した。
獲物のサイズや力の強さなど、誤差のようなものでしかないことを悟ったからだ。
どんなに屈強で俊敏な相手でも、反撃の心配どころか、逃げられる可能性さえ皆無なのだ。
ひと月もしないうちに、獲物を選ぶ基準は変更された。
単純に、どれだけ財を蓄えているのかだけを気にすればいい。
高そうな車、派手な貴金属、質のいいカバン、それだけを吟味する。
いや、最早、金銭などいつでも手に入る。
そんなことよりも、目障りな鳴き声や見た目の害獣を適当に間引くほうが、己の心を満たすことになるのではないか。
そうして、糧を得るためではない狩りを楽しむことにした。
今日の獲物は、野良犬のような輩を五匹ほど。
チームがどうだとか、縄張りがどうだとか、以前の自分を想起させる若者たちを平らげた。
だから紅沼は機嫌がよかった。血まみれのまま、調子はずれの鼻歌をたれ流すくらいに。
「随分と機嫌が良さそうじゃないか?」
無防備な背中に、突然声がかけられる。
振り向いた先にいたのは、若い男だった。
距離にして、二十メートルほど。
上下ともに黒系の服を着た細身の男ということは分かるのだが、頼りない光源のせいか、その詳細を把握することは出来ない。
紅沼は、青年に警戒心を抱いた。
敵対者や獲物にいつ出会うのかは分からないと、十分に生物の気配に対してアンテナを張り巡らせていた。
だというのに、この距離になるまで青年に全く気が付くことができなかった。
相手が声を発しなければ、どれだけ接近されたかも分からない。
「ああ、別に答える必要はないよ」
言葉通りに返事を待つこともせずに、青年は独白を続ける。
「大体分かる。急に力を手にして、その気になってるだけだろ」
まるで散歩でもするかのように、軽い調子で距離を詰める青年に、思わず紅沼は後ずさる。
青年に接近されることを本能が拒んだのだ。
それは力を手に入れて以降、初めての感覚だった。
「へぇ……勘はよさそうだ」
紅沼の様子を見て、青年は少し驚いたような声をあげた。
声色とは裏腹に、飄々とした表情を浮かべたままに。
どこか上から目線の青年に対して湧き上がりそうになった怒りの感情を、紅沼はどうにか抑え込む。
迂闊に隙を晒さないように。
彼は経験として知っていた。
人が人と殴り合おうという時、興奮や恐怖を覚えるのは当然のこと。
だが、たまにいるのだ。
虚勢ではなく、実際に何も感じていないような輩が。
異常なまでに荒事に慣れているもの、ネジが一本はずれているもの、強い信念や感情に突き動かされているもの。
理由は様々あるが、眼前の若者もそういった警戒すべき相手だと判断したのだ。
「同類か?」
少しでも情報を知るべく、紅沼は初めて自ら声をかけた。
「どういう意味で?」
「……お前も、声が聞こえるのか?」
「ああ、そういう意味でなら同類かな」
軽く肩をすくめながらも、青年はさらに歩みを進める。
「誰かの報復、いや……警察関係者か?」
平行して距離をとりながら紅沼は問いかけた。
同時に獣のような笑みを浮かべる。
力を得た当初こそ、勝てる相手かどうかを慎重に見極めて行動していた。
手にした力が信頼に足るものかが不明だったからだ。
だが今は違う。
荒事のプロに、警官や自衛官などの力を職業とするものたち。
そんなものとの戦いを心のどこかで待ち望んでいた。
自分はどこまでやれるのか、この肉体は刃物や銃弾よりも強いのか。
簡単な玩具相手ではなく、同等の存在を相手に全力を吐き出したいという欲望。
目の前の青年は、その待ち望んでいた何かではないのか。
「どちらでもないよ。でも、もうすぐ怖い人たちがアンタに辿り着くと思うから……その前に対処しておこうと思って」
青年の答えに、紅沼は推測を重ねる。
復讐でも職業的な理由でもなければ、何故、青年は自分と対峙しているのか。
情報は少なく、まともな答えは出そうにもない。
「敵ってことか?」
「ああ」
「それが分かれば十分だ」
未知の要素があるのは気にくわないが、やりあうしかない。そう腹をくくった。
何よりもこれ以上、昂ぶりを抑えられそうもなかった。
後退を止め、戦いを覚悟した途端、紅沼は奇妙なことに気がついた。
無音。辺りを静寂が支配してた。
先ほどまで、ずっと聞こえていたはずの虫の声も、風でこすれる葉擦れの音も、何一つ聞こえない。
事態を把握した紅沼の全身に悪寒と歓喜が走る。
確認するまでもない。目の前の青年も普通ではない力を持っている。
つまりそれは、望んでいた獲物に出会えたことを意味していた。
ゆるゆると、だが止まることのない青年の歩みにより確実に縮まり続ける間合い。
既に距離でいえば十メートルは切っている。
最早、目の前の男がどこの誰でも構わない。
仮に武術の達人だとしても、銃器を所持しているのだとしても、勝てばいい。勝つしかない。
今宵は、どれほどの闘争を行えるのだろうか。
すぐに壊れそうもない相手を前に、紅沼は嗤った。
「いいなぁ……お前みたいなのを、待ってたんだ」
紅沼の心に暴力への渇望が、とめどなく溢れ出す。
あの日、謎の声に教えられた完璧な自分に、一秒でも早く変化しなければ。
抑えきれない興奮により僅かに震える喉で、導きの言葉を叫んだ。
「オーガァッ!」
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