一人きり

「お前、一体何年ここで働いてんだ。役に立てないならさっさと辞めろ」

「…すいません」


 俺は朝から上司に怒鳴られていた。言っておくが心当たりは特にない。またいつものパワハラが始まった、という周囲の雰囲気をひしひしと感じる。

 

 −俺があんたなら、こんな風に理不尽に部下を虐げたりしない−


 そう思うけれど、結局口には出せずに黙って頭を下げた。


 


 押し付けられた仕事のせいで、いつもよりずっと遅くなった帰り道。向かいから高校生カップルが並んで歩いて来るのが見えた。

 この辺りの道幅は狭いのだが、彼らは避けることなく突進してくる。俺が端に寄ったけれど、通り過ぎざまに男の方は舌打ちをしていった。

 

 −俺がお前なら、相手を立てて彼女にいい所見せたいけどな。ま、お前みたいのにはお似合いの彼女だから、それでいいのかもな−


 もちろんこれも頭の中だけの悪態で、間違っても口にはしない。


 


 不満を消化しきれぬまま家に辿り着き、最低限の身支度をして布団に倒れ込んだ。夕飯よりもシャワーよりも、何よりも今は眠って全てを忘れたかった。電気を消して、暗闇の中静かに目を閉じる。


 …。……。………。うるさいな。


 隣室の大歓声が筒抜けだ。住人は学生らしき若者なのだが、今日は仲間を何人も連れ込んでいるらしい。酒も入っているのか、歌声まで混じっている。疲れていても、これだけ騒がしいと気になって寝られない。

 

 −俺がお前らなら、もっと常識の範囲内で学生生活楽しむけどな。流石にこれは俺でも我慢ならないぞ−


 力任せに壁を殴ろうとして、結局は握った拳を下ろした。今の時代、そんなことをしたらどんな反撃を喰らうか分からない。




 今日一日で積み重なった怒りに耐えながら、布団の中で何度も寝返りを打った。

 思いやりや譲り合いの精神なんて、最早どこにもありはしない。人は一人じゃ生きていけないなんて嘘だ。結局、皆自分のことだけ。頼れるのも、信じられるのも、まともなのも自分だけ。そう、俺はこの世で一人きりなんだ。


 そんな下らないことを考え続け、結局眠れたのは明け方近くになってからだった。




 ♪♪♪♪♪


 何度目かのスヌーズでようやくスマホのアラームを止める。ベッドから這い出して、半分以上眠ったままの頭でシャワーを浴び、コーヒーだけ飲んで部屋を出た。

 俯いたまま電車に乗り、またうとうととする。普段利用する電車は死ぬ程の満員状態ではないけれど、立ったまま眠っていられる位の乗車率ではあるのだ。



 降車駅はオフィス街のため多くの人が降りる。流されるように電車を降り、改札を出た。ここから会社までは徒歩五分。ようやく動き出した頭を軽く振って歩いていると、前方から歩いてきた人物と肩が触れた。


「あ、すいません」


 反射的に謝り、俯きがちに頭を下げた。その一瞬、視界の端に映った相手の姿に、微かな違和感を抱く。


「…?」


 慌てて顔を上げたが、既に相手は人混みの中だ。何だろう、よく知った人の雰囲気がしたけれど気のせいだろうか。



 会社に着いて、自分のデスクをみて溜息をついた。昨夜の残業終わりにはなかったはずの書類が勝手に置かれている。

 今日もまたパワハラのターゲットは俺か。そう考えた時、背後から声をかけられた。


「よう、役立たず。今日も死ぬ気で働けよ」

「…はい。おはようござい」


 最低限の礼儀として挨拶をしようと振り返り、息を呑んだ。


「え。………俺?」


 そこにいたのは、俺だった。

 いや、服装も体型も上司に間違いない。なのに、その上に乗っている顔は、俺。鏡を覗いた時のように、目の前に自分自身が立っている。

 それを認識した途端、叫んでいた。


「う、うわぁっ!!」

「おい、どうした。熱でもあんのか?」


 こちらに手を伸ばす上司−いや、俺自身を振り払う。


「ち、近づくな。何だ、これ。どうなってんだよ!」


 騒ぎを聞いて同僚が集まってきた。

 助けを求めようとして開けた口がそのままになる。俺の周りに集まったその誰も彼もが、俺の顔をしていたからだ。男も女も皆、同じ顔。


 俺は自分でもよく分からない声を上げ続け、椅子にぶつかって転げながら、会社を飛び出した。

 あてもなく無我夢中で走り回ったが、その間に通り過ぎる人は、恐ろしいことに誰もが俺の顔をしていた。

 気持ちが悪くて、吐きそうだ。一体何がどうなっているのか、全然理解ができない。俺の頭がおかしくなったのだろうか。




 どれだけ走り回ったのか、既に息は切れて限界だった。倒れるようにその場にしゃがみ込み、気づけばそこはいつもの駅だった。この駅の向かいのビルには巨大なモニターがある。よくニュースや広告を流してるアレだ。

 

 誰でもいい、他の顔を見たい。

 縋る思いで顔を上げようとする自分を、頭の中で必死に静止する声がある。

 見るな、絶対に見ちゃ駄目だ、と。

 けれど俺には自分を止めることができなかった。



 見上げた先に映っていたのは、キャスターの俺が、アイドルの俺が歌って踊っているニュースを伝え、スタジオの俺達と笑っているワイドショー。



 数え切れないほどの人間がいるこの世界は、今や本当に俺一人きりだった。

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