第3話1-3普通でなかったら

「……」

「――覚えられないのなら、無理に覚えなくてもいいわ。でも『たぶん』ってことは、少しは私のことを覚えていたのよね?」


 彼女は冷たい視線を続けていました、暖かい笑顔に変化したその奥に。僕は息が詰まる思いでした、彼女の質問が平々凡々の在り来りなものであることを理解しながら。僕は目を外しながら答えました、早く息が詰める思いから解放されたい一心で。


「その髪型が……」

「なるほど、女の子でこの髪型は珍しいからね。普通はこんなに短くしないわね。わたしもあまり好きではなかったのだけど、あなたに覚えてもらったからよしとしましょう」


 僕が感じるに、彼女の顔が作られた笑顔から素の真顔に変化するとともに視線が暖かく変化しました。僕は温かい視線を送りました、彼女が自分の頭を両手で撫でながら園児のように口を開けている姿に。僕は詰まっていた息を解放するため息を吐きました。


「気に障ったのならすみません」

「いいえ。気にしていないわよ……って、好きでないと言ったばかりね」


 彼女はエクボを見せて自分に笑っていました、僕が心の中でその笑いを理解していないことを知ることもなく。僕が思うに、自分の発言が矛盾する等の失敗をしたときはとても恥ずかしくて無言の真顔になるはずです。彼女のように自分の失敗を自分で笑う人はたくさん見てきましたが、それは理解できないしそういう人には距離を感じるのが常でした。


「僕は似合っていると思います」

「そんなに気を使わないで」


 僕は周りの人からの評価では基本的に気を使わない人間らしいので、これが気を使うというものなのかと勉強になりました。それとともに僕は後ろめたい気持ちになりました、というのも自分がオシャレとかに興味がないこともあり、ある意味適当に答えただけのところもあったからです。もちろん嘘ではないのですが、自分の意見を矛盾させて恥をかきたくないので、似合っている路線で言葉を繋ぐことにしました。


「いいえ。なんか、こう、綺麗だと思います。そのー、髪の毛ではなく本人の魅力が出て」

「……」

「……あの、その、ええっと」

「ありがとう。嘘でも嬉しいわ。あなたみたいな人は初めてだわ」


 彼女の言葉は嬉しかったです、例えそれが嘘であったとしても。たしかに彼女が言ったとおり、褒められることは嬉しいことであり、媚売りが出世する理由がわかりました。僕は普段は言葉が少なくて周りから敬遠されているのですが、さっきの彼女の変な沈黙が怖かったので、敬遠される理由もわかりました。


「ど、どうも」

「顔は覚えていないけどこの髪型は覚えているとして、名前はどうしよう」

「頑張って覚えますので」


 僕はよくある言葉で返す自分に違和感を覚えました、彼女が嬉しそうに困ったような思案顔でいるのを見ながら。普通こういう言葉は頑張る気がないときや覚える気がないときにいうのですが、今の僕は頑張る気も覚える気もありました。今まではそうする気がなかっただけなので、自分の気分屋の一面に多重人格のような新鮮さを感じました。


「うーん……頑張ってもらうのは嫌だな……ニックネームは?」

「ニックネームはあまり」

「どうして?親しみやすくなるわよ」


 彼女は再び太い眉毛を下げて眉間にシワを寄せました。僕が思うに、彼女は困ったときにはそうするわかりやすい性格をしているのであり、それは周りから親しまれるタイプの要素であり、僕にはないものです。夏の炎天下に日差しを浴びている彼女と日陰に隠れている僕とでは水と油なのかもしれません。


「あまり親しみやすくなるのは苦手で」

「ふーん、そうなんだ」

「変わっていると思いますよね?」

「普通はね。でも、普通でなかったら?」


 彼女曰く、普通はそうらしいです。僕は再び自分の思う普通が正常だったことに安心したとともに、彼女が普通なのかどうかが気になりました。僕が思うに、この発言をするときの彼女はいつも液体窒素のような空気を場に醸し出していました。


「――さっきから、それは口癖ですか?」

「そうよ。気づいてくれた?」

「さすがに」


 僕はさすがに気づいていました、短期間に3回も同じ言葉を聞かされていたら顔と名前は覚えていなくても。彼女は口癖を気づいて欲しかったようで嬉しそうに目シワを浮かべましたが、そんなところにシワができるのは老人くらいしかないと思っていたので意外でした。僕が思うに、それは僕の気のせいでありほかの人も笑えばできるのだろう。


「じゃあ、私のことは『普通1号』と呼んで。それで、あなたのことは『普通2号』と呼ぶわ。それでいい?」

「いや、ニックネームは嫌だと……」

「これは命令なのだ、普通2号くん」


 彼女は目シワも相まって魔女のように意地悪な言い方に見えましたが、老婆のイメージと違い鼻が尖っていなくて丸いことで魔女のイメージからすぐに離れました。僕がゆっくりと頭の回路を動かすに、そもそもどうして彼女とのやり取りに付き合わなければならないのだろうかという末端端子にたどり着きました。気になるところが多くなってきて、なんかもうどうでもいい気分でした。


「――わかりました、普通1号さん」

「分かればよろしい」


 彼女は満面の作り笑顔でした、その目は冷たいままに。僕が思うに、彼女は何かを思案しているのでありそれを隠すための笑顔なのだろうが、その目と一致しない仮面を剥いでやりたい気持ちになりました。しかし僕はその手段は思いつきませんでした、諦めました、そして諦めた中にあることに気づきました。


「――ところで、話している時にいつまでも座っているのは失礼では?」

「あっ、ごめんなさい」


 彼女の目と表情は一致して申し訳なさそうでした。立ち上がった彼女は顔を僕と同じ影の中に入れました。2006年の8月が終わろうとしていました。


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