第8話2-2逃げる

 僕は逃げる。逃げる。逃げる。

 建物の出入口のスローブには、骨を覆った軍服や警察帽子などが散らばっていました。血は高いところから下に少しずつ流れており、ついさっきまで生きていたことがわかりました。今までよく見た光景です。


「逃げないと」


 どこに逃げたらいいんだ?僕は門を出たところで立ち往生しました。どこに逃げたらいいんだ、どこに逃げたらいいんだ、どこに逃げたらいいんだ?


「坊主、乗りなさい」


 ワゴン車の窓越しに話しかけてくる女性。サングラスにポニーテールでした。僕は、車の中で殺されかけたことを思い出しました。


「結構です」


 僕は逃げました。バッタからも、人間からも逃げました。


「待ちなさい」


 僕は無理やり車の中に押し込められました。その時の途中の出来事は覚えていません。手際よく捕まってました。


「何をするんです?」

「何をって、助けてあげたんじゃない?」

「そうやって、僕を襲おうとしているんでしょ?」

「襲っ?」


 女性は頬を赤くしました。ちょとんとした目で少し間を空けた後にクスクスと笑い始めました。何か僕は変なことを言ったのでしょうか?


「馬鹿ね。そんなエッチなことをしないわよ!」

「エッチ?殺すことがですか?」

「――そっちの意味ね」


 女性は気まずそうに顔を背けました。何か別の意味があったらしいですが、僕にはわかりません。だから聞くことにしました。


「そっちの意味って?」

「何でもないわ。それよりも、大丈夫?」

「大丈夫ですけど、これからどうなるかわからないです」

「それは私もよ。でも、とりあえず外よりは車の中の方が安心よ」

「そうでもないですよ」

「どういうこと?」

「以前に車の中にバッタが入ってきたのです。そこのところから」


 僕は冷暖房のところを指さしました。その指先を眺めて女性は静かに頷きました。大人の余裕を感じました。


「なるほどね。外とつながっているからね。でも大丈夫よ、埋めているから、そこらじゅうの穴を全てね」


 女性は他の冷暖房が出る場所も指さしました。自分は先手を打ったということ誇示したいのか、一つ一つ丁寧にしましてくれました。僕はひとまずの安心でした。


「本当に大丈夫ですか?」

「あー、お姉さんを信用していないな。でも、信用しない方がいいかもしれないわ、今の状況なら」

「そうですか」

「それに、大丈夫じゃないところもあるのよ」

「何ですか」

「空気の出入りするところをいくつか閉じたことになるから、換気ができないの。だから、一酸化炭素中毒になるかもね」

「いっさんか……」

「呼吸ができなくかもしれないのよ」

「それは困ります」

「そうならないように気をつけるわ。それにしても暑いわね」


 女性はサングラスを外しました。左目のところが青く閉じられていました。それを見て僕はバッタの被害を予想しました。


「その目は?」

「あぁ。うっかりしてたわ。ごめんね、見せたくなかったのに」

「バッタにやられたの?」

「違うわよ。人間にやられたの。悪い女性の先輩にいじめられて、それでナイフで人差しよ。サングラスで隠すようにしていたのに、ミスったわ」

「人間って、そんなに怖いの?」

「そうよ。あなたには経験がないかもしれないけど」


 僕は自分がパシリにされていたことを思い出しました。あれがエスカレートしたら自分ももしかして同じ目にあっていたのかもしれないのです。僕は冷房がついていない車内で首に寒気を感じました。


「はい、目をえぐられたことはないです」

「それは良かった」


 車はバッタが飛んでくる方向に向かっていました。次から次へと当て逃げひき殺しバッタ殺しをしていました。でも、ゾンビバッタは死にません。


「これは何処に向かっているのですか?」

「バッタが飛んできている方向よ」

「どうしてですか?逃げなくていいのですか?」

「逃げてところで追ってくるわよ。それなら、立ち向かったほうがいいでしょ?」

「そんな、めちゃくちゃな」

「こういうの知っているかしら。ライオンやサメに噛まれたときは、引くのではなくて押し込んだほうが助かりやすいのよ。引いたら噛みちぎられるけど、押したら履いてくれるかも知れないのよ。それと同じよ。逃げるのではなくて立ち向かったほうが助かるかも」

「そういうものですか?」

「どうする?嫌ならやめるけど」

「それでいいです。逃げても同じですから」

「よし、それでこそ男の子だ」


 僕は角刈りと坊主メガネにも同じことを言われたことを思い出しました。この女性は男前で頼りになると思いました。しかし、そういう人も次々と死んでいきます。


「それにしても、バッタが多いですね」

「そうね。予想外だわ」


 バッタの散弾銃が車の硬化ガラスにヒビを入れて目が見えない状態でした。それでもいびつな音と衝撃の連続で、バッタがいつまでも車に当たり続けていることはわかりました。女性はのんきに鼻歌を興じていましたが、怖くはないのでしょうか?


「本当に大丈夫なの?」

「うーん、正直に言うと、やばいかも」

「そんな」

「でも、そのときはお姉さんが守ってあげるから」


 そう笑顔で振り向いた女性の向こうからガラスが破れて女性の顔に刺さってきました。ガラスの欠片・血しぶき・バッタと目の前の空間は混雑していました。女性はバッタの大群に飲まれて、僕の方にもバッタが流れて来ました。

 僕の目と鼻の先にバッタがいました。その眼球・触覚・溶けた部位が目に焼き付いてきました。しかし、それは、人の手に変わっていました。


「守ってあげるって言ったでしょ?」


 その手は女性のものでした。彼女は僕に向かっていたバッタを捕まえて助けてくれました。そのまま手は下に力なく落ちていきました。

 僕はドアを開けて外に出ました。今回は逃げる準備をしたわけではないのに直ぐに出れました。車のドアを開けることはプロなみに手際が良くなったらしいです。

 そこには偶然にも川がありました。僕は川にダイブしました。それは意図したことではなく、偶然転げ落ちただけでした。

 川自体にはバッタを敬遠させる力があるのは、実証済みです。少しでも空気の場所を作ったらバッタにやられるけれども。僕は不本意ながらも一時的な安全を得たことに神への感謝を汚れた水の中でしました。

僕は川の中で筒から侵入したバッタに殺された女の子を思い出しました。僕は筒も何もないなか生きるために頑張って息を止めていました。少なくとも1分は隠れないとバッタに捕まると思いました。


「33、34、35」


 僕は心の中で数えていました。こういう恐怖の時はカウントが早くなると思いましたので、可能な限りゆっくりしました。泡が一つまた一つと上に上がって行きました。

 僕の手がチクッと痛みました。クラゲか何かかと思いながら見ると、バッタがいました。そう、バッタがいました……


「ばばばば!?」


 僕は手を振り足を振り、水面に出ました。川の中をバッタが自由自在に泳いでいるのを見ました。それは前に見たバッタの動きと違います。


「そんな、どうして?」


 僕は急いで川から出ましたが、それでも数匹のバッタが体にへばりつき、空からもバッタが向かってきます。背水の陣の気持ちもなく、四面楚歌の中を絶望するしかありませんでした。服が重い。


「バッタ、こっちだ」


 声の方には、ハゲ散らかった老人が自分の手首にナイフを突き刺していました。草木がバッタに食い切られて土がむき出しになっている河川敷で悠然と立っていました。曇から現れた太陽をバックに老人は澄んだ目をして震え一つありませんでした。


「な、何を?」


 僕は声が出ていませんでした。肺の中に水が入っているようでした。咳き込むことで精一杯でした。


「坊主、わしが血で囮になるから、そのうちに逃げろ」


 老人は手首を切り抜き、首も切り抜きました。一太刀目の手首はドロンと静かな勢いの血でしたが、二太刀目の首からはスプレーのように勢いよく血が出ていました。血が夕日のように赤く空を染めました。

 その血にバッタが飛びつきました。どうやら血に反応したらしいです。僕に飛びついていたバッタたちも老人に向かいました。楽して確実に手に入るからでしょうか?

 僕はバッタの行動に理解できないなりにも理解したつもりでしたが、あの老人の行動には理解できませんでした。僕を助けてくれたのでしょうが、見ず知らずの僕のために自分の命を捧げるとはどういうことでしょうか?

 僕は避難所での僕をかばってくれた老婆を思い出しました。家族を守ることができなかった、生きることに疲れたと言っていた、そんな老婆を。


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