第2話1-2おばあさん

 僕が目を覚ますと、茶色く高い天井でした。体は死んだように動きませんでした。ぼんやりと天井を眺めていると、一瞬天井が落ちてきたかのように近くに見えました。


「ここは中学校の体育館だよ」


 僕は声の方向に、右を見上げました。白髪の優しそうなおばあさんが言ってくれました。視界はまだ天井に焦点を合わせているので、おばあさんはぼやけて見えました。


「ここは?」

「だから、中学校の体育館だよ」

「うそだよ。僕は死んだはずだよ」

「そう思うのも仕方ないよ。私も目が覚めたときはそう思ったよ」


 おばあさんは右目の包帯が赤く染まっていました。僕は見たくないものを見てしまった悲しみで気落ちしました。生きているとはいっても無事ではないのです。


「おばあさんは一人?」

「そうだよ。家でじいさんと息子の嫁と孫2人でいたんだよ。そしてら……いやいや、思い出したくない。息子とも連絡が取れないから、わたし一人でどうしたらいいのやら」

「そう。ごめん」

「謝らなくてもいいよ。私よりあんたさ。言いたくなかったら言わなくてもいいけど、家族は一緒かい?」

「ううん。お母さんは死んだけど。お父さんがどうなったかは知らない」

「そうかい。お父さんは元気だったらいいのにね」


 僕が横に振った頭をおばあさんがポンポンと優しく撫でてくれました。お母さんが僕をあやす時に良くしてくれた事と同じです。僕は涙が出てきました。


「ここは大丈夫なの?」

「運がよければ大丈夫よ。神様に祈りましょう」


 おばあさんは目をつぶり手を合わせました。僕は真似をしました。親の真似をするように、見知らぬおばあさんを真似しました。



「バッタだー!」

「きゃぁー!」

「逃げろー!」


 外では悲鳴が聞こえ、直ぐに消えて行きました。代わりに羽の音が大きくなってきました。僕は合わせた手を震わせていました。


「おばあさん」

「大丈夫よ。神様が助けてくれるよ、今回も」


 体育館の中が悲鳴と血だまりになっていきました。人が多いとこんなにも血の匂いがきつくなるのかと吐き気がしました。神も仏もあったものじゃない。


「おばあさん」

「大丈夫だよ。あの世も幸せだから」

「――どういうこと?」


 おばあさんは手にナイフを持っていました。体育館に光に反射して鋭く見えました。人の血管を切るには充分に見えました。


「おばあさん、何をしているの?」


 僕は車の中で襲ってきた男を思い出し、恐怖に慄きました。あの時はバッタに助けてもらった形になりましたが、今回もそうなるのでしょうか?今回も奇跡的に生き残ることができるのでしょうか?

おばあさんの振り下ろしたナイフが血を散らしました。地面に移った血痕が流れる血で塗りつぶされていました。僕の血潮が騒ぎました。


「私はもう疲れたよ」


 おばあさんは自分の首にナイフを突き刺しました。僕は自分の命よりも、バッタのことよりも、おばあさんがナイフを自分に突き刺したことに頭がいっぱいになりました。意味も分からず、体の震えが止まりませんでした。


「どうして自分にナイフを刺すの?」

「――孫を助けることができなかったのよ。だから、坊やは助けるよ」


 おばあさんは答えになっていない答えを述べて僕の上に覆い被りました。僕の頭の下には温かい液体が広がって行きました。それは、家族のぬくもりに近いものでした。

 おばあさんが上に乗って息ができないし暗いし重くて潰れそうでした。しかし、少しずつ息ができるように明るく軽くなっていきました。おばあさんの肉の向こうに体育館の天井が見え始めました。

 その天井も空が見えるように穴があいていました。そこでは夕暮れが血のように赤く照っていました。それにはカラスもなにも飛んでいませんでした。

 僕は体の上に乗っていた骨と少しの肉をどかして周りを見ていました。僕と同じように運ばれたか避難してきたと思われる人たちがいたはずですが、誰もいませんでした。世界には僕以外誰もいないといったら安直ですが、そういう気分です。

 バッタもいなくて好都合だと思いましたが、途方にくれていました。独り立ちをする時期とかそういう問題ではなく、どうしたらいいのかわかりませんでした。自殺することも選択肢にあることを、おばあさんの落としたナイフを眺めながら思いました。


「とりあえず、寝よっか」


 僕は誰に言うわけでもなく呟きました。僕は誰に見られるわけでもなく寝転びました。僕は誰に聞かれるわけでもなくお腹の虫を鳴らしました。


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