時間の紅葉

須藤しじま

第1話

 施設の猫の額ほどの中庭には季節毎に葉の色と模様を変える電子制御の樹木のオブジェがその中央に置かれている。中庭を彩るのはオブジェのみで、他にあるのはオブジェを向いて等間隔で設置されたベンチが数台、四方を囲う外壁にも何ら装飾のたぐいは施されていない。合理化の結果ではあるが、それは財政の合理化ばかりを意味するものではない。木は人間を合理化する。変化のない施設の日常にあっては四季折々の色と形を見せる木が入居者の狂った時間を一律に調整する。それは佐川宏が親孝行とは名ばかりの厄介払いをされた、こうした施設のとりわけ重要な機能だった。

 今現在の木は桜色で、佐川宏は〈先生〉に教わった通り、その色から今の自分が春にいることを理解した。時間は木の色のように相対的なものだった。認知症の診断を受けてはいても判断力はまだ衰えていない。選択肢は日に日に少なくなっていたが、自分の意志で選択することはできた。彼はそれが生きた木ではないことを認識していたし、制御パネルで季節外れの色を変えられることも認識していた。同じようにして彼自身の時間が操作できることも。

「今は春です」

 佐川が小さく、しかし確信を持って言うと、先生は満足そうに頷いた。

「そう、今は春です。春があって夏がある。佐川さん、夏の次はなんですか?」

「夏の次は秋です」

「秋の色は?」

「茶色…赤…」

「そうです、秋の色は赤」

 佐川は黙って視線を落すと、先生には聴き取れない声で何かを呟いた。木の色は濃度を増して、やがて燃えるような赤になる。


「月日が経つのが早くなった」先生がベッド周りの機器を眺めている間、ベッドの上の佐川が何気なく放った一言に、先生としてはなにか答えたつもりではなかった。老化現象はテロメアの短縮やDNA修復エラーといった既知のファクターには還元できない。私たちは老化の主要因として別のファクターを考えている。あなたが今言ったように歳を取ると時間を短く感じる。それは思い込みではありません。大人は知らずしてATPを消費した時間操作を行っている。これがテロメアの短縮やDNA修復エラー、細胞のアポトーシスを誘発することで老化が進行するのです。その証拠に、過去を振り返る人ほど老化が早い。

 そう話す間、先生は佐川を見なかった。職業病というべきもので、先生は佐川を納得させようとその話をしたのではなかったし、またその期待もしていなかった。問われればただ機械的に口が動く。だからふと佐川に目をやって、彼の視線が画鋲で留めたように先生に注がれているのを見た時には、先生は少なからず驚いた。「先生、過去に戻れるのですか?」。佐川が彼を先生と呼んだのはその時が初めてだった。


「今となっては笑えるなんてとても言えないけれど、笑おうと思えば笑えるぐらいにはなったんだよ。先生が教えてくれたからね、辛いときには笑い飛ばしてしまいなさい。幸福は相対的なもので、ある人の不幸はより不幸な人から見れば幸福なのかもしれないし、その時は幸福に思えたものでも後から振り返れば不幸になっているかもしれない。この本だって一概には駄作だとは言えないのさ」


 佐川は施設の入居者の中では目立たない部類に入る。指示に従わないこともなければ暴力沙汰を起すこともない、管理面では扱いやすい入居者ではあったが、その分自発的に何かをしようとすることもない。レクリエーションに力を入れるスタッフにとってはその扱いやすさが悩みの種になっていた。どんなに手の込んだレクリエーションを用意しても佐川は従順に指示に従うだけで表情に色がつくこともない。無気力のプリズムを通して周囲に無力を放射する、無臭で遅効性の毒のような人間が佐川だった。

 そうした佐川の特性はスタッフには周知のことだったから、彼が先生の実験台として時間旅行の訓練に乗り出した時には、苦々しい表情を浮かべるスタッフも少なくはなかったが、結局は誰一人として止めることはしなかった。実験に対する佐川の熱の入れようからすればそれも無理からぬことで、たとえ実験がスタッフにはバカげて見えたとしても、実験のもたらした変化はバカげたものではなかった。先生の操作する木の色に合わせて今を夏だとか冬だとか必死に思い込もうとする時に、佐川の顔は激しく歪んで赤く色づくのだった。

「どうしてそれほど過去に興味が?」実験の度に先生は訊ねる。その度に佐川は沈黙で応える。先生はそれでも満足していた。重要なのは佐川が過去に戻ることであり、その理由は先生の関心の外にあった。だから佐川が最初で最後の時間逆行実験を前にようやく心情を吐き出した時も、先生はただ受け流しただけだった。「息子に酷いことをしたんです。私は良い父親ではなかった。酒がやめられなかったんです。呑んで暴れて、それで、ある時、私は、どうしたことか息子にキャンプ用のバーナーを…せめてあの傷だけでもなかったことにしたい。先生、私にはできるでしょうか?」

「ええ、できますよ」先生の答えは一言と、もう一言だけだった。「佐川さんが本気で自分の過去を思い出そうとすれば。


「それに、この傷のおかげで君と出会えたわけだしさ。すべては相対的なんだよ。幸せも、痛みも、記憶も、時間だってそうじゃないか。親父が俺を殴っている間、その時間は永遠に続くように感じられた。でも後から振り返ればほんの二三分でしかないし、傷だって案外深くない。どうしてだろうと思ったよ。なんでこんなにも違うんだろう。そんな風に呑気に考えていたのは親父がバーナーを持ってきた時だったね。で、先生が現われて言ったんだよ。相対的なんだって。幸せも、痛みも、記憶も、時間も。俺とそっくり同じ姿の〈先生〉が。存在も相対的なのさ」


 木の前で即身仏のように凍りついた佐川の死体が発見されたのは初雪の観測された冬の日だった。その時の木は燃えるような秋の紅葉で、足跡一つない雪の絨毯の中央で煌々と輝く木は傍らに死体さえなければさぞやインスタ映えしたことだろう。あるいはあっても。またはなくても、毒気を放つばかりでどこにも美など見出せなかったかもしれない。

 私の目にはその光景はいかなる意味も持たなかった。佐川が死んだ。ただそれだけだったから、非難半ば同情半ばといったところのスタッフの言葉を受けて、すぐには答えが出なかった。嬉しいですか、佐川先生。はいなどと言えるわけがないし、といって、いいえと言えるほど簡単ではない。答えを探しているうちに彼女がわざと佐川を強調したことに気が付いた。息子なら息子らしい反応があるだろう、とでもいう風に。「そうなのかもしれませんね」私は彼女が望む答えを言った。左の頬のやけど痕が見えるようにマスクを取って。

 相手の声色から感情を読むことは私には難しくはない。子どもの時分にあの男に存分に仕込まれた。それが仕事になっているのだから世の中は相対的だ。先生の言うことはまったく正しい。嫌になるくらい正しかった。私の最初のSF小説が売れたのも偶然で、出版市場の片隅が空席になったときにたまたま近くに居たのが私だった。虐待の過去を乗り越えて。実際のところ、売れたのはキャッチコピーの方なのだ。本が売れるとは本を読まずに帯を読む連中が買い漁るということの業界的なジャルゴンでしかない。帯はすぐに飽きられる。その頃に私を先生と呼んだ業界人の何人が今も同じ意味で私を先生と呼んでいるのだろう? すべては相対的なのだ。

 もっとも、先生はあの年頃だから女を知らなかったし、父親から教わらなかったから愛も知らなかった。それは先生の知らない絶対的なものだった。私の小説よりも売れたキャッチコピーを考案した編集者は今は私と同じベッドで寝起きする。私にはそれだけで充分だったし、それが私にとっての木だった。あの男が死ぬまで木に縋ったように私もそうするに違いない。過去をやり直すためではなくこれからの未来を生きるために。

 ふと、鏡に映る左の頬と右の頬が対照を成していることに気が付いた。それがあまりに自然なことのように思えたので、何が違和感になっているのか、歯ブラシをだらしなく口に突っ込んだまましばし考えなければならなかった。左の頬に火傷の痕がない。治癒ではなかった。疵そのものが消えている。あの男の汚らわしい焼き印が。

「涼子!」佐川政志が叫びながら寝室に駆け込んだ時に、彼は今の自分が春にいることを理解した。勤務先の施設に行けば先生と呼ばれることも、時間が相対的なものであることも、今はもう木が、憎悪と恐怖と、あるいは愛の記憶と共に失われてしまったことも。

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