第3話1-2

 日が沈み、ジュンは母親の目を盗んで大樹に向かいました。取られたリュックと高枝枝バサミは母親の寝室に置いていました。家族を起こさないように忍びました。

 深夜に街の灯りがだいぶ消えて闇が深い状況でした。しかし、ジュンは何度も大樹へのルートの途中を通ったので、見えなくてもスイスイ進めます。瞬く間に黒くて大きな壁にぶち当たりました。

 ジュン塀を跳び越えて、進みます。その塀は街と大樹へ続く樹林とを分け隔てるものであり、何回も通るのを妨害された場所です。その先はジュンには未知の世界です。

 ジュンは人の気配がしない樹林の中を分けいります。とても静かで、希望も後ろめたさも怖さも全ての感情が引き込まれていきます。そのまま闇の一部としてジュンは前なのか後ろなのかわからない方向に進んでいきます。



「誰だ?」


 ジュンは音のした方向を見たが、何もありませんでした。本当に音がしたのかも確信がありませんでした。この時のジュンは闇夜の森林と一体化した感覚であり、あらゆるものを見透かしている状態だと自分では思っていましたが。


「気のせいかな」


 ジュンは気にせず進むことにしました。というよりも、気にしたら進めなくなると思ったのです。しかし、ジュンが進むと、確実に再び音がします。


「誰だ? いるのはわかっているぞ!」


 すると、再び音が止みました。聞こえるのは風が木の葉を揺する音のみでした。ジュンは自分の心を揺すられている気分でした。


「戻ったほうがいいのかな、でも、今、逃したら……」


 ジュンは駆け足で進みました。揺れた心が固まることなく地面に落ちた木の葉を踏みつけながら急ぎます。見えないくぼみに足を取られてこけました。


「いったー!」


 何者かがジュンを襲ってきました。ジュンは避けました。ジュンの服は少し切れ、鋭利なものが地面に刺さっていました。


「誰だ?」

「今から死ぬやつに名乗る必要はない」


 その男は長い棒状の刃物を地面から抜いて振り回してきました。ジュンは高枝枝バサミで威嚇しました。長さに近いものがあります。


「来るなら、やるぞ」

「――どうしてそんなものを持っているんだ? ナイフとかならわかるが」

「家にある包丁は家族が毎日使うから持ってくるのは違うと思った。高枝枝バサミなら、1年でも数回しか使わないから大丈夫だと思った。しかも、家族で使うのは僕くらいで、家族は電動ノコギリを使っている」


 ジュンはなぜか律儀に答えました。とっさのことで混乱して、理由もなく反射的に答えたのです。本当に懇切丁寧に返答が来たことに対して男も面食らって懇切丁寧な返答をしていくことになりました。


「余り物か。電動ノコギリでなかっただけでもよかったが、それでも不利だな。リーチの差が断然だ。ここは引いたほうがいいかな」

「さぁ、さっさと引け」


 懇切丁寧な返答合戦による変な空気が流れましたが、遅速性の毒が回るように徐々に命のやり取りの緊張感が漂いました。ジュンの目の光はいつまでも自分に向かっていたことから、その者は緊張から喉をゴクリと鳴らしていました。森の中では風が勢いよく通るような音が響いていました。


「――わかったよ。簡単に追い剥ぎ出来ると思ったが、とんだ誤算だぜ」


 男は去ろうと後ずさりしたら、その後ろからクマが現れました。その急な出来事に2人とも反応できませんでした。クマは口を大きく開けました。


「後ろ!」

「え? く、クマっ!?」


 男は一瞬で顔を食いちぎられました。血が一面に飛び散り、青ざめたジュンの顔も赤く染めました。首が取れた銅像のような人間の上では熊が血の噴水で顔を洗っていました。


「あっ、あ、あぁ」


 クマはそのままジュンの方に向かっていきました。無駄な抵抗で差し出した高枝枝バサミが前足で軽く弾き飛ばされました。クマの大きなノドチンコが暗闇の中をジュンの目に迫りました。


「――あ……」


 クマがそのままジュンの上に倒れました。ジュンはクマに押しつぶされそうになりながら、押し上げようとした手がクマの胴体をすり抜けたことに気づきました。よく触るとクマの体が少し破裂していました。

 クマ背後から何者かが現れました。



「誰ですか、あなたは?」


 声のする方向にジュンが顔を見上げたら、女子がいました。ジュンは熊の下から這い出し、座るところまでは体勢を整えました。しかし、立ち上がるところまでは心身ともに整えることができませんでした。


「え? あっ、えーっと。僕は別に大樹に向かっているわけではなく、道に迷っただけでして、はは……」

「何を言っているのですか? 落ち着いてください」


 女子は落ち着かせようとしました。しかし、口で言っても落ち着かせられるわけも無く、ジュンは慌ただしく話し続けます。


「だから、僕は街のルールを破って大樹に登ろうとしたわけではないのです。だから、このことは言わないでください」

「なるほど、ここでは大樹に登ることは禁止されているのね」

「そうなんですよ。ここでは大樹に登ることは禁止……あれ?」


 少し冷静になったジュンは自分よりもっと冷静な女子を見つめました。知らないあいだに星の光で少し周りが明るく照らされていることに気づきました。その女子は髪の毛を肩まで伸ばしており、スラっとした体型でした。


「やっぱり多いのね、禁止しているところは」

「君、何を言っているの?ここでは……?」

「自己紹介遅れたわね。私は下から来たダインよ。よろしく」


 ジュンは思考が追いついていませんでした。目の前の女子は細い眉毛と鋭い目で獲物を狩る獣のような印象をジュンに与えました。名乗りはするが、得体の知れない状況で得体の知れない者が得体の知れないことを話していることには変わりありません。


「下から? 君は何を言っているのですか?」

「何って、私のことよ。それから、私の名前はダインよ」

「え? 君は……」

「ダインよ」


 ダインは自分の名前を強調しました。名前以外で呼ばれるのが嫌なのか名前を覚えていない場合の再確認かほかに理由があるのか。ジュンは名前呼びをすることにしました。


「それで、ダインさんは下から来たとはどういうことですか?」

「そのままの意味よ。下から登ってきたの、大樹を登って」

「え? 下? この下に別の場所があるのですか?」


 ジュンは思いもよらぬ真実を知りました。自分が住んでいた街が全てだと思っていた少年にとって、大樹だけが別の世界だと夢見ていた少年にとって、別の場所があることは夢見心地になる衝撃でした。ジュンは全身が震える感覚になりました。


「そうよ。もしかして、この葉ではそういうことは教えていないの?」

「教えていないも何も、『葉』って何ですか?」

「なるほど、そこからですか。あなたは……ところで、あなたの名前は?」


 ジュンが腰砕けるくらいに話題が変わりました。話が気になって名乗る気分ではありませんでした。しかし、名乗らないと話が進まないのでジュンはさっさと自分を名乗ります。


「僕はジュンです」

「ジュン、実はあなたが世界の全てだと思っていたところは、大樹から生えている葉の1つでしかないのよ。ここみたいな場所はたくさんあるのよ」


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