第10話1-9トイレタイム

「私、ちょっとトイレ行くからここで待っていて」

「かしこまりました」

 僕は着慣れない黒いスーツにそわそわしながらご主人様を見送ろうとしました。服屋の前の道路で佇んで風に前髪を吹かれると、あることに気付いてご主人様を呼び止めることになりました。呼び止めることにもまだ慣れていませんので、声が上ずってしまいました。

「すみません、ご主人様。紐を結んでください」

「あぁ。忘れていた、すまない」

 ご主人様は踵を返すと足早に戻ってきました。僕は紐を手渡すと、ご主人様はどうしたもんかと周りを見渡していました。おそらく、今まで奴隷の紐を結んだことがないからどうしたらいいのかわからないのでしょう。

「では、ここにヒモを結んでください」

 僕が石のガードレールの柱を手で叩きました。別に自分で結んでも良かったのですが、勝手に行動して飼い主にボコボコにされたことがあって以降は嘆願するように勤めています。もちろん嘆願してもボコボコにされることは何回もありましたが、可能性は少しだけ低いのでそれが正しい選択だと思っています。

「そんなことしなくても、いいのにな。約束事だとしても面倒くさい」

 ご主人様は慣れない手つきで結びながら呟きました。約束事というのは、奴隷の散歩をするときのルールのことであり、これを破ったものは罰金もあるのです。人間以外にも犬などにも適用されます。

「逃げるかもしれませんよ」

「逃げたければ逃げてもいいのだよ」

 ヒモを石柱に結びました。ご主人様は先程よりさらに足早にトイレに向かいました。僕が思うに、トイレが近かったのでしょう。

「逃げたければ逃げてもいい、か」

 僕はご主人様の言葉を思い浮かべながら紐の結び目を眺めました。その紐は緩くて今にも解けそうでした。僕は思わず手が伸びました。

「あなた、大丈夫?」

 後ろから声がしました。

「――どちら様でしょうか?」

 僕は肩からビクつきながら後ろを恐る恐る振り返りました。そこには僕と同じくらいの背の人間の少女が金髪のロングに白いフリルのドレスをつけて微笑んでいました。その首には石の首輪がはめられ、鎖で止められていました。

「初めまして、私はジヌよ」

「僕はドペカ」

「あなた名前を与えてもらったの?」

「そうです。初めてのことです」

「私もよ。いい名前でしょ?」

 ジヌの笑顔は可愛かった。僕は今までいろいろな人間の女性を見てきましたが、その中でも5本の指に入る可愛さでした。結婚したい。

「うん。いい名前だ」

「ありがとう。私ね、今のご主人様に拾ってもらってうれしいの」

「奴隷は飼い主を選べないからね」

「そうよ。私ね、今までご主人様に恵まれなかったの。悪口言われるし、殴られるし、嫌なことされるし」

 ジヌはそう言いながら顔が曇っていきました。過去のトラウマを思い出して辛いのでしょう。本当の地獄を味わえば感情なんてなくなってしまうという持論を持つ僕からしたら、そこで感情が出るなんてまだ本当の地獄を見ていない証拠ですが、それなりの嫌なことを経験しているのでしょう。

「僕もそうだよ。奴隷はみんなそうだよ」

「だから、私ね、今、幸せなの。こんな綺麗な服も着せてもらっているし、美味しい食べ物も食べさせてもらっているし、布団だってフカフカよ。天国みたい」

 ジヌは急に太陽のようにパァーと明るくなりました。一見すると情緒不安定に思えるくらいのものでしたが、地獄に仏ということでしょう。僕も彼女くらい感情を出せればいいのかもしれませんが、なくしたものは仕方がないです。

「お待たせ、ジヌ」

「御主人様」

 そこには白髪まじりで優しそうなメドューサが立っていました。彼女は僕を見て不思議そうでした。自分の奴隷が仲良くしている僕に興味を持ったのかなんなのかは僕にはわかりませんが、笑顔は絶やしていない彼女でした。

「おや、友達ができたのか?」

「はい。ドペカって名前なの」

「初めまして」

「これはこれは、ご丁寧に。初めまして」

 笑顔だった。

「ところで、仲良しになったところ悪いけど、そろそろ帰るよ」

「はい、ご主人様」

 ジヌを結んでいた鎖を解きながら問答する彼女ら。ジヌは完全に飼い主になついていました。僕もあれくらい愛嬌があったほうがいいのだろうか。

「ごめんね、君。これでお別れだ」

「いいえ。僕は大丈夫です

「ドペカ、さようなら」

「さようなら、ジヌ」

 彼女たちは歩いて去って行きました。ジヌが飼い主に向ける笑顔は見ているこちらが明るくなるものでした。それと入れ違いにご主人様が戻ってきました。

「お待たせ」

「とんでもないです」

「今のは?」

「さっき仲良くなりました」

「ふーん」

 ご主人様はいつのとおり素っ気無く返事しながら紐をほどいていました。僕はジヌの笑顔を思い出しました。あのとても可愛くて明るく気分にさせてくれる愛嬌のある笑顔の良さを身にしみていました。

「ご主人様、ありがとうございます!」

「どうしたんだい、その気持ちわるい顔は?」

 僕は笑顔をやめました。


翌日、ジヌの死体が見つかった。

ジヌの飼い主は奴隷虐待の件で警察から軽く注意を受けただけだった。

よくある風景だった。

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