第44話 シルク(後)
「――おねえちゃん、おねえちゃん」
無邪気で柔らかな声が、私を眠りの底から浮かび上がらせる。
ふとももに微かな重みを感じながら重たい瞼を開くと、色素の薄い茶色い瞳が私をのぞき込んでいた。
ちょこんと膝のうえに座る少女。その子を見て「いったい、ここはどこだろう」と未だ夢の中にいるような気分に微睡む。ガタガタとお尻から伝わる振動に、いま自分は馬車のなかにいることを思い出した。思い出すまでに、少しの時間を必要としたのは最近まともに寝ていなかったせいだろう。お世辞にも乗り心地が良いとはいえない馬車のなかで深い眠りについてしまっていた。
「おはよう。おねえちゃん」
五歳ほどの少女が子猫みたいに可愛らしい笑顔を向け、私の頬を撫でる。細くて柔らかそうな赤毛が馬車の中に吹き込む風に揺らいでいた。
「おはようございます」
頬に伸びた小さな手に触れる。柔らかくて気持ちがいい。
「ずっと起きないから、死んじゃったのかとおもった。おねえちゃん大丈夫?」
そういって少女はまた無邪気に笑う。
「ごめんね。大丈夫ですよ」
「……あ、こら――ミーちゃんだめでしょ。お姉さんに迷惑かけたら」
「いえ、迷惑だなんて」
「そーだよ、なにもしてないもん! おねえちゃん起こしただけだもん!」
「だめなの。ごめんなさいね」と、宥めるように私から少女を引きはがしたのは、ホセの街から旅を共にすることになったこの子の母親。彼女も私と同じで馬車の座席を寝具に居眠りをしてしまっていたらしい。「だめでしょう?」と言いながら完全に開ききっていない瞼をこすっている。
見た感じ私といくつも歳が離れていないようだ。それでも、いくら疲れて眠ってしまっていたとしても常に気を張り巡らしている様子や、今のように慣れた手つきで子供の世話をする姿を見ると自分よりも随分と自立しているよう思えた。
本当に、お母さんは大変ですね――
少女のぬくもりの無くなったふとももに手を置き、ふうと息を吐く。
馬車のなかには私を含めて六人の乗客。
私の対面に座っている白髭を蓄えた初老の男性は、頬を緩めながら母と子のやりとりを見つめている。ふいに「うちの娘も小さいころは――」と隣の乗客に声をかけるあたり、二人のやりとりを見て昔のことを思い出しているように見えた。会話の端々から察するに、どうやら初老の男性は随分と長く連絡を取っていなかった子供に会いにいくようだ。愛想無い相手からの返答なんてなんのその、喜びが全身からあふれ出していた。
そんな穏やかな馬車のなか。
「お父さん待ってるかな」
「ええ、ミーちゃんに会えるのを楽しみにしているわよ」
「よろこぶかなっ」
「ええ――きっと」
楽しそうな親子のやり取りが続く。
そして言葉のひとつひとつが、ちくりちくりと私の胸を刺す。
幸せへ向かう旅とは対照的に、私の旅は誰にも望まれていないものだから。
目的地、王都クルージまではあと五日。
あの日オラクルを飛び出したあと、田舎に帰るはずだった私はホセから出立している乗り合い馬車を使ってクルージを目指して進んでいる。
――あの日の決断が正しいと胸を張って言う自信はない。
けれど、あのまま何もかもから逃げて田舎に帰る、という決断がどうしてもできなかった。
何しにきた、と言われてしまうかもしれない。
彼は私のことなんかもう二度と見たくもないだろう。
お詫びなんて受け取ってもらえるはずもないだろう。
もう、元の関係には戻れるはずもないだろう。
彼の顔を見るのは、言葉を交わすのはきっと次が最後。
もう二度と会えなくなる。
最後の日のことを考えただけでも胸が締め付けられるように痛んでも、それでも私は彼に会ってきちんと言葉で伝えたかった。
昔のこと、これまでのことを思い返しながら。
ガタガタ、ゴロゴロと終点を目指し青空の下を進んでいく。
◇
ついこの最近まで日中も肌寒かったのに、照った陽に暖められた空気が肌に触れると季節の移り変わりを実感する。追い越していく街道の脇には夏に太陽のような花を咲かせる植物が背筋を伸ばし始めていた。
少しずつ、でも確かに時間は流れている。
初めての経験だからか、何日経っても馬車旅に飽きはこないようでミーちゃんは乗客の膝の上を行ったり来たりを繰り替えしていたり、外をのぞき込んで「あれはなに、あれはなに」と知らない世界に瞳を輝かせていた。
「おねえちゃん、そこかわってー」
中から唯一外が眺められる幌についた木枠の窓。それを背にした乗客に「お願い~」と席の交代をねだるミーちゃん。
「――ええ、もちろん」
「ありがとう~!」
「こら、ミーちゃん。ちょっと静かになさい。本当にごめんなさいね」
ぺしりとお母さんにお尻を叩かれてもお構いなしに窓枠に肘を乗せはしゃぐ。
いったい、ミーちゃんにはこの世界はどのように映っているんだろう。
「――幸せそうですね」
綺麗な高い声。
ふいに私の隣に移ってきた女性が呟いた。
独り言か、それとも自分に向けられた言葉か分からず、軽く頷くとどうやら後者だったようだ。
ミーちゃんへ向けられていた視線が微かに私に向いた。
視線が交差し思わず息を飲む。目深に被った黒いローブで全ては見えないけど、今まで見たこともないような綺麗な人だったから。王都で活躍する女優と言われてもおかしくはない。少しの光があれば輝くような白い肌、ローブで影を落としていても分かるくらいに赤い宝石のような瞳が煌めいた。
そして隣にきて初めて気付く、甘い香り。
こんに綺麗な人がずっと近くにいたなんて――
どうして気付かなかったんだろう。
「あのふたり、とっても幸せそう」
「ええ。王都へはお父さんに会いにいくそうですから、余程嬉しいのではないでしょうか」
彼女は視線を親子へと戻し、くすりと微笑んだ。
「それは素敵。待ち人がいる旅というのは楽しいものですから」
「羨ましいです、本当に」
今初めて会話を交わしたはずなのに、不思議と昔からの知り合いだったかのように感じるのは彼女が不思議な空気を纏っているからだろうか。美しい絵画を鑑賞しているときのような穏やかな時間に身を任せる。
彼女の甘い香りが睡魔の手助けをしたのか、気づけば隣に座る彼女の肩を枕にして居眠りをしてしまっていた。慌てて傾いた身体を正す。
「あっ……ごめんなさい」
「いいえ」と言葉だけを返してくれる黒いローブの女性は相変わらず親子へと視線を注いでいた。はしゃぎつかれたのか、ミーちゃんはお母さんの腕のなかに丸く収まり無邪気な寝顔を見せている。それはお母さんも他の乗客たちも同じ。まだ日が落ちてはいなくても馬車旅の疲れが出てきているのか、皆がかくりと首を垂れていた。
「お疲れのようですね」
「いえ、疲れてはいないんですけど……最近あまり眠れていなくて」
「馬車旅は自身で動いていなくても、疲労が溜まりますから――あまり無理をなさらず」
「お気遣いありがとうございます。あの……あなたも無理しないでくださいね」
「ええ、ご心配なく」
彼女からは疲労の色は見えない。ゆとりのあるローブに一本の芯が入っているような真っすぐに伸びた背が、綺麗なシルエットを作っていた。
ふいに、
「あなたは――ずっと寂しそう」
と彼女が言った。
眠れていないことを心配してくれたのか、もしくは私から何か含みを感じたのか、どちらかは分からない。けれど心を見透かされているような突然の言葉に困惑し真横を向いた女性を見る。それでも彼女はこちらに向き直ることはない。
「あなたはなぜ王都へ?」
私からの答えを待たないまま、先ほどの答えは要らなかったかのうように彼女は再び問う。
「私は――」
一瞬、なんと答えるべきか悩んでしまった。
言い淀んだあと重たい物を吐き出すようにして、ありのままを答える。
「……その、私も人に会いにいくんです」
「そうですか。それは素敵ですね」
何も素敵なものじゃない。
私は、私のこの旅も何も素敵なものなんかじゃない。
私には、ミーちゃんやお母さんのように「待ち人」がいるわけではない。
それなのに、さも普通の女として穏やかな空気に混ざっていた自分の浅ましさを思い出し自己嫌悪に襲われる。
私の事情なんて彼女が知るはずもないのに
「何も素敵なんかじゃありません、会いたいなんて思われてもいませんから……」
つい口走ってしまう。
そして口走ってから自分は何を言っているんだと後悔し、彼女の返事を待つ前に「なんでもありません、ごめんなさい」と自ら蓋を閉じた。こんなことを言っても気を遣わせるだけだというのに。
「それでも――良いじゃありませんか。会いたいときに会えるのですから」
「気にしないでください。ごめんなさい、変なことを言ってしまって」
奥歯を噛み締めワンピースを握りしめる。
こういう自分が嫌いだ。
私はこんな自分が嫌いだ。
この一瞬でさえ自分の決断を正当化しようと誰かに聞いてもらおうと、無意識に言葉に出してしまう、誰かを巻き込んでしまうこんな自分が本当に嫌いだ。
「私は、ずっと会えませんでしたから」
硬い地面を進む車輪の音と被さりながらも、かき消されることなくはっきりと聞こえた寂しそうな声。やっぱり気を遣わせてしまっている。
「なので、会えるうちに会っておくことをおすすめします」
会えるうちに会う、彼女のいうことはもっともなんだろう。
けれどそれも事情によって異なりはすると思う。
私のようなひとりよがりな行為にはきっとそれは該当しない。
「私は会いたいと思っていても、向こうは望んでいませんから……」
「そう」と短く区切り続ける。
「でも、いざというときに忘れられてしまうかもしれませんよ」
忘れられることなんて――絶対にありえない。
あれだけのことをしたのだから。
あれだけの裏切りをしたのだから。
「憎まれたり、嫌われることはきっと辛いことでしょうが、本当に辛いことはもっと別にあります」
「それは……どういう」
救いを求めているんじゃない。
抑揚ない彼女の言葉に、なぜか聞き入ってしまう。
「――自分のことなんて、全て無かったことになっていること。積み重ねてきた思い出も、何もかもが一瞬で泡となり弾けてしまうかのように。まるで歴史の全てが消し去られてしまうかのように」
「そんなこと――」ありえるはずがない。
過去を変えることなんてできないのだから。
「いくら感謝を伝えようとも、その過去さえなくなっていたら? いくら罪を償おうとも、その事実さえなくなっていたら?」
眠気なんてとっくに覚めたはずなのに、なんでだろう、頭がぼうっとしてくる。
「あの人の横に、もう自分はいない。いるべきはずの場所に自分の存在はないとしたら?」
あの人、ジークくんの横にいるのはもう私じゃない。
横に並ぶ人は――多分ミヤビちゃんなんだろう。
ずっと憧れていた彼女の綺麗な顔が頭に浮かぶと同時に言い知れない不安が心臓を締め付ける。
でも仕方ない、仕方ないよ。
だって、それだけのことをしたのだから。
そんなこと――覚悟は出来ているはずなのに。
「もし全部が無かったことになったら?」
いっそのこと全てが無くなってくれたら
「いっそのこと全てが無くなってくれたら?」
自分の過去も、全部無かったことになってくれたら
「自分の過去も、全部無かったことになってくれたら?」
あり得るわけもないのに。
昔のように彼と幸せな時間を過ごすことが出来たら。
浮気なんて馬鹿みたいなことをした自分がなかったことになるとしたら。
なにもない小さな村を出て、なにもなくても、ふたりで身を寄せ合って頑張ってきたあの日がまた戻ってくるとしたら。
自らが壊してしまったあの大切な時間が、また戻ってくるとしたら。
また、やりなおせる
「また、やりなおせる?」
いったい私は何を考えているんだ。
考えるべきじゃない、そんな資格はない。
王都に向かっているのはその為なんかじゃない。
でも、でもでもでも。
「長い時間、夢のなかを真実を求めて彷徨って彷徨い続けて。自分の思い出も摩耗し、劣化していく。次第に自分のもつ記憶が間違いだったのではないかと、疑い始めて」
気持ち悪い、気持ち悪い。
悲しい、悲しい。
つらい、つらいよ。
「――嗚呼、それはきっと地獄の苦しみでしょう」
季節が再び後戻りをしたように、冷たい空気が吹き込んだ。
ぐるりと彼女の身体が私を向く。
燃え盛る赤い瞳、そのなかに宿っているのは怒り。
火花となり放たれているのは、恐怖。
この場から逃げ出したいほどの恐怖が全身を襲う。
それなのにただ身体は小刻みに震えるだけで動いてはくれない。
肺が凍りつく。
息が、息ができない。
「あなたも私と同じ苦しみを味わってみたらいかがでしょう?」
――それがきっと、あなたにとっての贖罪
言い終わると同時に、
暗転したぬかるんだ世界。
◇
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