第43話 シルク(前)
この街にやってきてから殆どの時間を過ごした部屋には、今や生活感を感じ取れるものは全てなくなっていた。生活感を無理やりに剥ぎ落され、ぽかんと無機質な四角い空間だけを残している。
陽を浴びた埃が光の粉になって、開け放たれた窓から外へ吸い込まれていく。
空っぽの部屋を眺めてみる。
こんなに広かったかな――。家財の一式がなくなった部屋は、今まで思っていた窮屈さが嘘のように広く見えた。
住んでいるときには気付かなかったけれど、知らず知らずのうちにいくつも生活の跡を残してしまってたみたいだ。誰かが何かを零してできた染み、誰かが何かを落としてできた傷、そんな痛みが滲み、摩耗し壁や床のあちこちに残っている。時間が経った痛みはなかなか落ちてはくれない。何度も拭きあげてもやっぱり少し残ってしまった。
「それでも――少しは綺麗になりましたね」
小さな部屋とはいえ、室内のモノを全てを片づけてみると思いのほか量があるものだ。お部屋にあったものはトランクケースに入りきる量だけを詰め込み、後は処分することにした。
誰に言うわけでもなく
「それでは、お世話になりました」
誰に向けたわけでもなく、頭を下げ部屋を出た。
ころころ、ころころ、トランクケースを引きずりオラクルの街を歩く。
思いのほか片付けに時間を取られてしまった。
昇っていた陽が目線の高さまで落ちてきている。
橙色に染まるこの街のことを私はとても好きだったけれど、今はどうだろうか。
街を歩きながら、渦巻く寂しさに胸が痛む。それは多分私がいつも誰かを迎える側だったからなんだと思う。仕事帰りの冒険者の皆さんとは進路を逆にとり、引き返さない道をただ真っすぐに歩いていると、今は自分が街に見送られていることを思い知らされる。
歩きながら、ぐるぐる、ぐるぐると、どうしても考えてしまう。
自分の決めたこの決断がほんとうに正しかったのだろうかって。
故郷へ帰る――
なにも無いあの村へ。
戻るんじゃなくて、帰る。どんなときだってそんな風に考えたことはなかったのに、ついに今の私にはそうする術しか残されてはいなかった。こうしてひとり戻って、お父さんやお母さんは何ていうんだろう。
何かあったと聞かれるのは間違いない。聞かれなくても言うしかない。これまでのことを。どこにも逃げる場所なんてない。一生、私の一部となる事実。
ぐるぐる、ぐるぐる、どうしても考えてしまう。
街の人たちの視線を感じながら正門近くまできたとき、
「シルクちゃん!」
ふいに、呼び止められる。
いったい誰が私の名前を呼んだんだろう。
もう――この街で私に「まとも」に声をかけてくるような人はいないはずなのに。
だから振り向くのは、少し怖かった。
「良かった。間に合って」
どきどきしながら振り向き、そこにいたのは久しぶりに会うエプロン姿のエリーダさんだった。
「……エリーダさん? どうして?」
「どうしてもこうしてもないでしょう――シルクちゃん、街を出るのね?」
走ってきたのだろうか、息を整えながら彼女は言う。
街を出るなんて誰にも言っていないはずなのに、どうしてエリーダさんは知っているんだろう。
答えに変わりは無いはずなのに言葉に詰まる。
こうして声をかけられることなんて無いと、勝手に決めつけていたから。
私の沈黙を答えと受け取ったのか、「やっぱり」とエリーダさんは息をつく。
それは呆れているような、そんな深いため息だった。
「さっきお店の呼び込みしているときに偶然見かけて、ね。……しかも、そんな荷物を持って歩いているから。だから、もしかしてって思って」
「……ごめんなさい。お世話になったのに何も言わずに」
「そんなことはどうでもいいの。でもね、余計なお世話かもしれないけど、シルクちゃんはどうするの? これからのこと」
「村に、故郷に帰ろうかと思っています」
「帰ってどうするの?」
矢継ぎ早に問われて、再び答えに詰まる。
正直なところ何も考えてはいなかった。
「……お恥ずかしい話なんですが、何も考えていなくて」
「ほんとに――シルクちゃんも同じことを言うのね……」
なんで?とは聞かれないのは私がオラクルで何をして、何が起きたのかをエリーダさんも知っているからだと思う。お世話になったエリーダさんに自分の隠してきた汚い一面を知られていることに恥ずかしさや情けなさが込み上げてくる。その感情のせいで、あの日決めた覚悟なんてものが途端に押し流されてしまいそうだ。
「馬車で帰るのでしょう? シルクちゃんの故郷がどこなのか詳しくは分からないけど今から乗る馬車があるの?」
「いいえ、ホセまで歩いてそこから馬車で帰ろうかと思っています」
「ちょっと、ホセって歩きで三日はかかるわよ? そんなのダメよ。女の子ひとりで長旅なんて危ないじゃない。もしお金の心配があるっていうなら、馬車代くらい私が出してあげるから」
オラクルから西に進んだ場所にある小規模な街ホセ。オラクルよりも規模が小さいその街まで歩く意味はなく、別にオラクルから馬車に乗って村を目指してもいい。だけどその手段を選ばなかったのは今は誰もいない、ひとりの時間が欲しかったから。
「気を遣わせてしまってごめんなさい。お気持ちだけ頂きます。でも、色々と整理しながら帰りたいんです」
「そんな――危ないわよ。道中何が起こるか分からないんだし」
「きっと大丈夫です。慣れてますから」
言いたいことは沢山あるだろうし、エリーダさんは納得していないのだろうけど、困り顔のまま「分かったわ」再び深い息を吐いた。これ以上は何も聞かないというように彼女はいつもの柔らかい笑みを向けてくれる。職業病なのかどうかは分からない、それでも必要以上に誰かに干渉しないエリーダさんなりの気遣いが好きだ。
「そこまで言うなら止めはしないけど――でもこれだけは受け取って。もしかしてと思って用意したものだから大したものじゃないけどね」
そう言って渡されたのは踊る珊瑚礁の印字の入った水色の包み。手に取ると温かい。小包からは久しく行っていない懐かしい店内の匂いがした。
「もう。ゆっくり食べてもらうはずだったのに。シルクちゃん、無理しちゃだめよ? 少し歩いて、駄目だと思ったら帰ってきなさい。他人事のように言うけど、本当に困ったら私に声をかけて。うちで働くなりなんなり用意してあげるから」
ごめんなさい、ありがとうございます、大丈夫です。
なんて色々な言葉が頭に浮かびはしても声となって出てこない。
どんな顔をしてエリーダさんを見たら良いか分からなくて渡されたお弁当に顔を埋めることしかできない。
「色々あるわよ、人生は。人に好かれて人に嫌われて。後悔して惨めな想いをして、毎日その記憶にうなされて顔を覆いたくなることがあってもさ。後悔もすればいい、反省もすればいい。だけどね、だからって自分の人生を捨てていいってわけじゃないんだから――って、これは私の独り言」
優しく肩を抱かれる。
「それと、これも独り言。ジークさんは王都に向かったって聞いてるわ。あとはあなたが決めなさい」
もう顔をあげることができない。
「だからね、いってらっしゃい。シルクちゃん。また待ってるからね」
◇
辺りには草原以外なにもない、月明りに照らされた一本道。
振り返っても、オラクルの街はもう見えないところまで道を進んでいた。
余分なものは入れていないはずなのに、トランクケースがやけに重たく感じる。
ごろごろと車輪を転がし草原に伸びた道をただ歩く。
故郷を出た五年前、狭い世界から抜け出した先にある新しい道のひとつひとつが新鮮で、辿った道がこれから先にひとつの形に繋がるように思えてずっと胸が高鳴りっぱなしだった。最後に形と成るそれはきっと幸せなものだろうと、信じて疑うことはなかった。
私が今、辿っている道はどこに繋がっていくんだろう。
この道を辿って、昔思い描いていた幸せの形に結びつくことがあるんだろうか。
そして今はもういないあの人のことを想う。
彼が今、辿っている道はどこに繋がっていくんだろう。
私が干渉しない世界でどんな幸せを形作るんだろう。
オラクルの外門から見送ったあの日、彼はあの人と一緒に私の知らない道を進んでいった。
輪郭までしか見えなくてもその姿ははっきりと目に焼き付いている。
ぐるぐる、ぐるぐる。
いくらか鮮明になった頭のなかにまたこれまでのことが浮かんでくる。
『浮気した? はあ? あんた馬鹿かよ――こんなときに何言ってんすか?』
そう言ったのはガラルドくん。
『マサハルもあんたも最低だよ』
そう言ったのはラルゴさん。
『シルクちゃん、もう鷹の爪はダメみたい。マカラス、今は何も話はしたくないそうよ』
そう言ったのはエミルダさん。
『あんたも悪党の女なんだろ。全部知ってたんだろ。お前、俺たちの人生どうすんだよ』
そう言ったのはみんな。
『シルクさん、僕だけはあなたのことを理解できる』
そう言ったのはあの人。
事実を確かめたくてもあの人の姿はどこにもない。
『自分が孤独になった気でいるな』
そう言ったのは彼女。
歩幅が広くなる。
がたがたと車輪が弾み振動が強くなる。
心臓の鼓動が大きくなる。
吐く息が熱い。
こんなときに何を言ってるんだ。
マサハルもあんたも最低だよ。
悪党の女だろ。
俺たちの人生どうすんだよ。
シルクさん、僕はあなたのことを理解出来る。
自分が孤独になった気でいるな。
投げこまれたいくつもの言葉が頭のなかを巡り、決して止むことは無い。
逃げられないはずなのに、何かから逃げようと踏み出す歩幅が広くなっていく。
ごろごろと地面を転がる車輪の振動も強くなっていく。
走る。
車輪から悲鳴が聞こえても構わない。
走る。
裾のながいワンピースなんて着てくるんじゃなかった。
『オラクルってすごいよな、俺たちの村が十個は入りそうだ』
ってオラクルの正門を見上げながらあの人は言ったっけ。
振り向いたとしても、もはや見えないだろうオラクルの街。その街で長く過ごした日々が鮮明に浮かんでくる。
走る。涙が出てくる。
涙をぬぐうことさえ忘れて走り続ける。
何も終わってなんかいない。
自分のなかでは何もかも終わりにしようって、そう思っていたはずなのに。
勝手に終わったつもりでいて何も終わってなんかいなかった。
ついにトランクケースの車輪が外れた。
ワンピースの裾に大股で踏み出した足がつっかえ、もたれた。
「あ」と思ったときにはもう遅かった。
頭から突っ込むようにして地面を転がる。
突き飛ばしてしまったトランクケースが中身の全てを放り出してしまったのか、嫌な音が誰もいない草原に響いた。
「……」
突っ伏したまま冷たい地面に顔を埋める。
道端に散乱しているだろうトランクケースの中身を広い集める気も起らない。
痛い、痛い、もう嫌だ。
なんで私が――
そんな言葉がつい口から零れ落ちそうになってしまう。
こんなときに何を言ってるんだ。
だって私は何も知らなかったんだもん。
マサハルもあんたも最低だよ。
だから私は最低ですって。
悪党の女だろ。
そんなつもりなんて無いのに。
俺たちの人生どうすんだよ。
そんなこと私に言われたって。
――なんで、なんで私だけ。
込み上げてくる感情はいったいなんだろう。
怒るべきでもない、悲しむべきでもない。
なのに、並んだ言い訳たちがどうしようもない苛立ちに変わってしまう。
数秒か数分か、地面に突っ伏したあとのろのろと立ち上がる。
目をこする。
砂利が瞼をひっかく。
鼻を啜る。
土臭い。
やっぱりワンピースなんて着てくるんじゃなかった。
膝小僧の形に泥の跡がついたワンピースは、スリットが入ったように裂けてしまっていた。
苛立つ自分に苛立ちを覚えながら、道に散乱したトランクケースの中身を広い集めていく。
何もかもが土にまみれていた。
折りたたまず、着替や下着をケースに詰めていく。皺になったってもう構わない。
雑に放り込みながら、ふと手にとったモノ。
それをケースに投げ込もうとして、手が止まった。
「……」
土埃がついても鈍く輝いている。
持っていても仕方ないと思っていてもどうしても手放せなかったもの。
いつもジークくんが使ってくれていた私からの贈り物。
そして――彼からの決別の証。
お財布を月明りに照らしながら、開いて、閉じて。
開いて、閉じて。
誰かに何かをあげるなんて初めてだったから、こんなモノでいいのかって緊張しながら渡したもの。プレゼントする前にマラカスさんに男の人の趣味を聞いたっけ。
「……ジークくん」
ありがとうって言ってくれたあの日の彼の優しい表情。
旅のお供のようにいつもズボンのポケットから見え隠れするのをみて、嬉しかった。
どれだけ擦り切れて汚れても、いつもいつも大切にしてくれていた。
苛立ちが別の感情に変わっていく。
唇をぎゅっと噛み締める。
――違う。
辛いのは私じゃない。
「ごめんなさい」
その言葉さえ言えないままに。
それでいい、そうすることが正しいのではないのか。
彼にとっては終わっていることだと勝手に決めつけて。
でも――本当にそれでいいんだろうか。
私はどうしたいんだろう。
私はどうしたい、そうやって自問自答を繰り返す。
今更私からの詫びなんて何の意味も成さないことは分かっている。
謝ってどうなるわけでもない。
もしかしたら、もっと彼を傷つけてしまうかもしれない。
そうすれば、それはきっとただの自己満足だと思う。
でも、それでも――ちゃんと、謝りたい。
これまでの感謝を伝えたい。
ううん。私のことをこれほど大事にしてくれたことに、ちゃんと心を込めて言葉で伝えたい。
『ジークさんは、王都に向かったわよ』
エリーダさんの声が耳元で聞こえた気がした。
◇
あとがき
毎度ながら更新が不定期となりましたこと、お詫び申し上げます。
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