第30話 閑話 兼 前編エピローグ 兼 シルク
彼がいなくなってから、どれくらいの時間が経ったのかもう分からない。いなくなってから一日、二日、一週間と、意識していた日の経過も、いつの間にか気にすることもできなくなっていた。大きな喪失感に苛まれながら無為な時間を過ごし続けている。
これまでの生活が無くなってから、わたしにとってやはり地獄のような日々が続いた。朝起きてから寝るまでの間の些細なことでさえ、わたしにとっての当たり前が失われてしまったことを知り後悔と悲しみに襲われる。そしてそれが自分にとって如何に大切にしていたものだったかを、これでもかというほど思い知らされる。
その度に、繰り返し思う。
これは自分がしでかしたことの罰として受け止めるべきなんだと。
身勝手に彼を裏切り逃げたわたしには相応しい罰なんだと。
受け入れるしかない、と。
でも、そんな毎日を過ごしていくなかで、もっと恐ろしいことに最近気付くことになった。それは――わたしにとって今の生活が当たり前の日々に変わりつつあるということ。後悔や悲しみを糧にした生活が、いまの私の当たり前になってしまっているということ。それに気付き、もうこれ以上なにもしたくないと思ってしまった。これ以上変わってしまうのが怖かった。変えてしまうのが恐ろしかった。
だから、もう何もしたくないって思うようになった。
それでも、何もしたくない――って思い生きているのに、当然のようにお腹は減るし夜になれば眠気がやってくる。一人で住むのに丁度良くなった部屋の中で、朝を迎え、お腹が減れば市場で買った食材を調理し皿に盛り付け食べる。そしてお風呂に入り、寝床につきまた朝を迎える。その繰り返し。何もしたくないって考えているはずなのに、自分から当たり前をつくろうとしている。そんな自分がとても身勝手で、情けなく思えた。
彼を探しに行こうとして引っ張り出したトランクが、口を開けたまま今も部屋の片隅に放置されている。トランクの中には綺麗に折りたたんだ着替えや生活品が隙間なく並ぶ。彼を探しにいこうとしてトランクに物を詰め込んでいる最中でさえ、こうして綺麗に物を入れようとしている自分に気付き、それもまたわたしを苛立たせた。
「もう、やだ」
枕を部屋の扉に向かい投げる。
苛立っているのは勿論自分に。
古びた扉にぶつかった枕が埃を散らして床に落ちた。
それと同時に何か別の物が落ちる乾いた音。落ちた物が何か、見ずとも分かっていた。
「マカラスさんたち、今日でしたね」
扉に挟んであったのは鷹の爪がBランクに昇格する祝い会への招待状。もちろん、参加することは無い。いつかメンバーの誰かが部屋の前までやってきて、声をかけてくれてたのを思い出す。応答せずにいたら「気分がのったら」とだけ残して差し込まれた招待状を、ずっとそのままにしていたんだった。
みんなにもしばらく会ってはいなかった。会う気になれなかった。それも、自分の我儘だってことくらい分かっている。けれど、どうしてもこれ以上何も変わって欲しくなくて外部との交流を完全に絶っていた。全部自分が悪いのに、みんなにも気を遣わせてしまっている。
あの人、マサハルくんにも、もう会いたくなかった。これもまた自分勝手なこと。自分から望んで然るべくしてそうなったはずなのに、今はもう会いたいとさえ思えない。もう、頭が馬鹿になるのがどうしても嫌だった。
「ほんと、さいあくですね……」
まだ日も高く上っている時間なのに、ベッドに潜る。目を閉じるのは決して眠たいからじゃない。時折襲ってくる虚しさに耐えきれないから。現実から目を背けるように身体を小さく丸めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰に言う訳でも無く呟く。
◇
ひとり、オラクルの街を歩いている。
朝の街を歩いているのに深い理由は無い。
ただ昨日、日が昇る前に目を閉じてしまったから早く起きてしまっただけ。
もし理由をつけるとすれば、どうせ早く目が覚めてしまったのであれば、市場が開いた途端に数日分の食材を買って部屋に戻ろうという堕落したものだけだ。
日が昇るのが早くなってきたとは言え、まだ吹く風は冷たい。久しぶりに歩く大通りはまだ朝を迎えていないのか、人の姿も夜に見せる華やかさも騒がしさも無くてどこか知らない街になってしまったかのように、ひっそりとしている。
『準備中』と書いた吊り下げ看板のかかったエリーダさん夫婦のお店、踊る珊瑚礁。今日はギルドのみんなが大騒ぎしたんだろうな、って思いながら真っすぐに伸びる石畳の道を進む。
道の脇に転がる汚れのついた串、丸まったどこかのチラシ、割れてしまった瓶の欠片、お店の壁が少し汚れているのは、きっと飲み過ぎた誰かが吐いてしまったからだろう。そして、朝の風が運んでくるのは何か鉄臭い匂い。
こんなに汚れた街だったかな。
って、朝の街を歩きながら思う。
わたしの中でこの街はもっと綺麗で輝いている街だった。
「そうですよね……これも」
今まであまりそんな風に考えたことは無かったけれど、わたしが今そんな風に思ってしまう理由が分かった。これもまた、わたしの今までの当たり前が当たり前じゃなくなっていると気付かせてくれるひとつ。
わたしにとってこの街はとても思い入れがある。
初めての街、オラクル。これまでの人生の中で一番濃く、幸せな時間を過ごさせてくれた街。
昔を懐かしみながら愛着のある街を歩く。
いつかの日潜った大きな正門の前までやってきたとき、ふいに人の気配を感じた。
街の外に足を放りだすようにしている誰かが、そこにいた。
はじめは誰か酔っぱらった人が正門に身体を預けて寝ているのかと思った。
通り過ぎようかと思った。でも、放り出された足、見覚えのある靴――それを見て心臓が高鳴った。
何も考えていなかった頭に血がのぼりバクバクと心臓が震えだす。
こんなところにいるはずがない、戻ってくるはずがない。わたしがいるのに、戻ってくるはずがないと何度も思う。でも、あの靴には見覚えがある。疑っているはずなのに、あり得ないことだと思っているのに、心の中ではすでに確信に変わっていた。
もうあと一歩二歩踏み出せば、正解が分かる。もし彼なら、ジークくんなら、なんて声を掛けるべきなんだろう。会いたいと、詫びたいとずっと思っていた。それなのに答えを見てしまえば全部が終わってしまいそうな予感に、どうしても足が重い。
震える身体。
吐く息が熱い。
鼓動する心臓が、うるさすぎる。
鼓動する心臓に合わせるかのように一歩一歩その人に近づいていく。
「――ジーク、くん?」と言って大きく息を吸い込む。
垂れた黒髪、項垂れていて顔が見えなくても彼であるとはっきりわかった。
「あの、その……」
頭の中がぐちゃぐちゃで、なんて声を掛けたらいいのか分からない。震える唇からなんとか紡いだ言葉はきっと上ずってしまっていたことだろう。それでも必死に声を振り絞り顔を見せてくれない彼へ投げかける。
けれど、彼は顔をあげることはない。
寝ているのかと思った、なんでこんなところで、なんでここに、なんて色々と浮かんだ疑問は、彼の姿を見て一瞬で消し飛んだ。心臓がより大きく弾み、息をすることさえ忘れてしまう。
引き裂かれ、泥に塗れた服、あちこちに飛んでいる染みは血であると気付いたから。
「ジークくんっ!」
第一声目になんて声をかけようなんて、もうどうでもよかった。
そんなこと忘れて叫んだ。
咄嗟に彼の頬に手を当てると、氷のように冷たい。手のひらを口の前にかざしても微かな呼吸も感じることが出来ないし、まるで魂の抜けた人形のように、いくらゆすってみても反応は無い。どこか致命傷がある可能性を探り身体のあちこちを調べてみても、ズタボロになった衣服とは対照的に大きな傷が見当たらないことが余計に私を焦らせた。
なにがなんだか分からなかった。
こんな想い今まで経験したことがなかった。
なりふり構わず咄嗟に発動させた回復スキル。理由はどうあれとにかく治癒しなきゃって、そんな風にしか考えていなかったから。柔らかい緑の光が微かに灯り、彼の身体の中に入り込んでいく。それでも、息をしない、戻ってこない。
想像もしたくない悪夢が脳裏を過り、背筋に冷たい汗が流れる。
「どうしてこんなことに……」
どうしよう、回復スキルじゃ意味が無い。
どうしたら、どうしたら。
このままじゃ彼が死んでしまう。
そんな焦りが重たい緊張に変わっていく――。
「ジークッ!」
張り詰めた空気に切り込みを入れたのは、誰かの叫び声。
我を忘れて回復スキルを発動させていた私の後ろ。
振り向くと真っ黒な塊が、大通りから真っすぐにこちらに向かい近づいてくる。
それが黒いローブを纏った女の人であると、真横に近づいてくるまで気付くことが出来なかった。息を切らしやってきた彼女は私には目をくれず、そして何の躊躇もすることなく彼を抱きしめた。
回復スキルとは違う、柔らかい朝霧のような白い光。
一瞬、朝霧が二人を包んだのを見る。
その一瞬で彼女が何をしたのか、何が起こったのか分からない。でも、抱きしめられたのと同時に、呼吸を止めていた彼が水中から浮き上がってきたときのような、大きな息を吐く。
それが、恐れていた事態を免れたことだけを示してくれた。
「ジークくん……」
不安と緊張で張り詰めた空気がふっと緩む。
硬い空気に固定されていた身体の力もまた緩み、がくりと膝を地面に落ちた。いまだ手足が震えているのはきっと悪夢の余韻が残っているからだ。気づけば額に汗が浮かんでいた。
「ほんとばか……さいあく」
突然の訪問者は黒いローブの背を見せながら彼と重なっている。
重なりひとつになった二人。互いの呼吸が合っているかのように、二人の肩は同じ幅、同じタイミングで上下を繰り返していた。
いったい彼女が誰なのかも分からない、でも彼女が彼を助けてくれたことは明らかだった。私だけでは助けることは出来なかったとおもう。
それなのに、それを見てなぜか胸がちくりと痛んだ。
ただ茫然と二人の様子を眺めているだけしか出来ないわたしに、「だれ、あんた」と彼女は言った。
振り向いた女の人、朝日の逆光に照らされながらも、深く青い瞳が私を捉えている。
「わ、わたしは、その、ジークくんの……」
いまだぐるぐると回っている頭。
突然、誰、と言われて答えにつまる。
「クランのメンバーで……」と、ようやく出した答え。
その答えが正解かは分からないけれど、彼女は興味無さそうに
「ふうん。そう」とだけ呟いた。
見据えられながらローブの中にある綺麗な顔が徐々に鮮明になっていく。
整った顔、大きな青い猫目、首元から垂れた銀色の髪。
目の前にいるその人を、私はよく知っていた。
こんな人に、こんな性格になりたいっていつも思っていた。
自分にもっていないものをたくさんもっていて、いつかこんな風にカッコよくなりたいって思っていた。
わたしの憧れの人。
「ミヤビ、ちゃん?」その名が思わず口に出る。
わたしの問いに彼女は答えることはない。
ただジッと顔を見つめられているだけ。
けれど、その無言は彼女が当人であるという事実を証明しているのだろう。
青い宝石のような瞳に吸い込まれる。
なんでここにミヤビちゃんがいるんだろうと、なんでジークくんと一緒になっているんだろうと、衝撃と困惑が頭に浮かぶのと同時に、第二の質問が投げられ、考える余地を与えてくれない。
「それで、あんたはジークのなに? アイツらと同じ?」
さっきと同じ質問のようで違う。
アイツら、と言う彼女には少し怒りがこもっているのに気付く。
「その、彼とは幼馴染で……それで倒れていて……わたしが……」
身体の震えが大きくなっている理由がわからない。でも、それは決して、目の前に憧れていた人がいるからではなかった。
「幼馴染み……?」
大きな猫目、眉尻が少し吊り上がったのを見る。
怒りが滲んだ瞳、ひどく冷たいその声色は、多くを言葉にしなくともわたしの胸に突き刺さる。そして理解させてくれた。
この子は全てを知っている――と。
しばしの沈黙。
青い瞳がわたしを解放した。
きっとそれはわたしへの興味が失われたのことを意味しているのだろう。
「……あとはわたしがやる。あんたは手伝わなくていい」
冷たい声だけを残し彼女は顔を背ける。
「そんな、ジークくんはまだ怪我を……」
「触んな」
伸ばした指先は彼に触れることなく、怒気をふくんだ声に弾かれた。
「いつだって当たり前に選べる側のくせに。ありえねーから、ほんと」
胸に刺すような痛みが走った。その言葉の意味は分からない。けれど胸の奥底にある、これまで誰にも触れられたことの無いところに突き刺さった。
汚れてしまった彼の身体を抱きかかえ、彼女は立ち上がった。
どこにそんな力があるのだろうと思うけれど、彼の息を「なんてことない」と吹き返したように、これもまたなんでもないように彼女は歩きだす。
言葉なんて交わしたくない、これ以上彼と近づけたくないって、そんな風に見えた。やっぱりこの子は全部を知っている。彼から全ての真実を聞いている。わたしが誰にも言っていない真実を。だからこそわたしを軽蔑しているだろうし、この場に相応しくないって思っているんだろう。
何もかも無かったことになったような幻の世界が徐々に溶けだしていく。
泣くべきじゃないって思うのに、涙があふれた。
「ごめんなさい」
誰に謝ってるんだろう。
「ごめんなさい」
何に謝っているんだろう。
もう顔をあげることさえ出来ない。
「自分が孤独になったって勘違いすんな。自分が孤独になった気でいるな。孤独にさせたのはあんただ」
嗚咽。
額が地面につく。
「――もう、わたしはひとりぼっちになるのは嫌だ。絶対に」
それだけ残し彼女は消えていく。
変えたくなかったわたしにとっての当たり前。
もうすでに終わっている。
元に戻ることなんてない。
謝り、後悔したところでもう何も戻ってくることはないんだと。
会いたい、会いたくないなんて全部自分の身勝手なんだと。
二人の気配が無くなるまで、ただひとり泣き続けた。
◇
いつもと同じクランメンバーの集合場所。
一日の始まる場所。
久しぶりに見るみんなの顔。
マカラスさんとマサハルくんはいない。
昨日はお祝い会で飲み過ぎたんだろうか。
集まっているメンバーもまばらで、みんなどこか疲れた顔をしている。
「おはようございます」
わたしの姿を見て、疲れた顔に乗っかる目が丸く開く。
「あっ」ってあちこちから声があがる。
みんな何かを言いたげだ。
それは久しぶりに見るわたしに向けて何かを言おうとしているのか、別の理由かは分からない。
けれど、まず言わなきゃいけないことがある。
「シルクさん――あの、マサハルさんが」って口を開いたガラルドくんを遮った。
「ごめんなさい」って、言い終わる前に頭を下げる。
突然のことにみんなの視線が集まっているのが分かる。
もう何も怖くはない。
もう終わりにしようって思った。
息を大きく吸って、吐く。
メンバーの驚いた顔を眺め、言う。
「わたし、浮気したんです」
◇
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