第29話 序章のおわり

 神経を侵す猛毒が未だに体中を巡る。


 嘔吐を繰り返したせいか、喉の粘膜は溶け息を吐く度に焼けるように熱い。 


 先程まで痛みという感情を欲していたはずなのに、脳天に走り続ける唸るほどの激痛に悶絶する。そして、その痛みは超位回復とは別の吐き気を引き起こす。


 千切れた小指、先から血が溢れ止まらない。


 無意識に涎が落ち地面に染みを作る。

 

 それでも正気を保つためにこうするしかなかった。

 悪夢を、最悪な幻をかき消すにはこうするしかなかった。


 耳だけじゃなく僕の大切な一部を、こんな男のために――

 

「ぼくが……こんなやつに……ぼくが、ぼくが……」


 頭に浮かび弾けたのは二度と思い出したくも無い最悪な幻。

 ロイドやフレイアにラフレシアメンバーに向けられたあの時の眼差し。

 嘲笑うような無能者たちの顔。


 いや、それよりもっと醜い幻を見せられた。


 フレイアが向けるロイドへの眼差し。それを見て腹の底から湧き上がった醜い感情。僕が絶対に認めたくなかった負の感情。僕の心の奥底にある誰にも知られてはいけない想い、ロイドに負けを突き付けられたかのような、欲したものを奪われたかのような耐え難い屈辱。


「くそったれ……この低辺が……ぼくを……」


 そんな最悪な幻を見せられたのも、全て目の前にいる男のせい。


「ぼくの負けだと? ああ!? ……僕のぼくの勝ちだろうっ……」


 一歩ずつ、地面にひれ伏す男へ近づく。

 手にも足にも力は入らない。一歩踏み出す度に胃液を吐き散らす。

 それでも、この男だけは許してはいけなかった。

 自分の存在を揺るがし、屈辱を与えてくれたこの男のことだけは。

 

「……お前なんかに……お前なんかに……」


 万が一自動治癒を発動していようが喉元を踏み抜けば最早関係無い。

 こんな無様な形で終わらせるのはあまりにも不愉快。けれど、残った気力からこうするしか方法は無かった。


 うつ伏せになる男の眉間を蹴り飛ばし、その体を天に晒す。


 露わになった無防備な首に足を置く。

 後は全体重をかけて踏み抜くだけ。


 全身を支配していた不快感が、少しだけ軽くなった気がした。



「僕の――勝ちだ」



 ――刹那 



「いいえ、あなたの出番はここで終わり」


 ふわりと香った甘い匂いと透き通る高い声。


 背筋に走った猛烈な悪寒に反射的に男から飛び退く。

 突然の気配に振り向くと、そこにいたのは真っ黒なローブを纏う「何か」

 

 なんの気配も感じることは無かった。

 誰もいないはずだった。

 この場にいてはいけなかった。


 まるで次元を切り裂いて出てきたように「何か」が目の前現れた。


 一瞬ミヤビが現れたのかと思ったが、そうでは無い。ミヤビのような猛烈な殺気も敵意も、この存在からは何も捉えることは出来なかったから。それでも、目の前にいる女が放つ圧倒的な存在感はミヤビなんてちっぽけに思えるほどに強烈なもの。背筋に走り続ける悪寒がとんでもない異物の登場を示していた。


 胃液が喉に絡み、熱を帯びていたはずの吐息さえ凍りそうな程に空気が冷えていく。


 だれだ、だれだ、だれだ、なんだこいつは。


 回らない頭で考え得る可能性を探る、が相応しい答えが見つからない。


 突如として目の前に現れた違和感に向けて問う。


「あなたは――誰だ?……なにをしにきた」


 女は問いに答えることは無い。


「ようやく夜が明けますね。長かった、とても長かった。ほら、綺麗」


 僕の前にいながら、僕を見ながら僕なんか見ていないかのように抑揚無く言葉を紡ぐ。朝日を掴むように差し伸ばした手、まるで舞台を飾る女優のように差し込む光を背に軽やかに舞う。


「質問に答えろ……あなたは何者だ」


「あなたはこれからも出番があるなんて、これからもこの物語の根幹に関われるなんてそんな風に思っているかもしれませんね。でも、もうあなたに用はありません」


「いったい何を訳の分からないことを……」


 女はくすりと笑う。


「わかりません? あなたの代わりはいくらでもいても、彼の代わりはいないのです」


 まるで会話になっていない。

 顔の見えない異界の存在と会話をしているような感覚。女は胸に両手をあてがい、物思いにふけるように恋焦がれる乙女のように小さく息を吐く。


「どこにでもある設定。どこにでもいる登場人物。ありきたりな物語は、もう終わり」


「だから何を――」


 深く被ったローブを脱ぐ。

 零れたのは柔らかそうで艶やかな黒髪。


 朝日に照らされ、輝く。

 

 その姿を見て――息を飲む。


 この世にこれほど美しい生き物がいるのかと、世界を疑いたくなるほどに整った造形。まるで天使を模して創り出されたかのような洗練された美貌。それでいて身に纏っているのは眩暈がする程の妖艶さ。


 瞳に宿るのは炎。

 朝日の輝きがくすんでしまう程の、燃え盛る真っ赤な瞳。


「これは、そう。言わば序章。私の物語が今日ようやく進み、そして終わりに向かい動き出すの」


 宝石のような瞳に吸い込まれ、言葉を失う。


「長かった、苦しかった、辛かった。数百年続いた地獄のようなプロローグ」


 千切れた手指の痛みなんて忘れて、

 茫然と美しい女を見る。


「数多の可能性の中からいきついた、たったひとつの答え。これでようやく私はあの人に会える。もう少しで私は愛しいあの人にもう一度、会うことができる」


 ただ、茫然と。


「……いったいなにを……」


 ようやく女が問いに答える。


「私はヘラ――黒虎のヘラ」


 僕を見据える美しい瞳。

 瞳に浮かんだ炎が一層の輝きを増した。


 ごくりと胃液の絡んだ唾をのみ込む。


 忘れかけていた言葉の発し方をようやく思い出す。


「ヘラ……だと。なぜあなたが……ここに……」


 黒虎のヘラ――その名は冒険者であれば誰もが知っているだろう。最高峰ギルド黒虎を束ねる存在、名前だけはその存在を証明していても、誰もその姿を捉えたことが無いとまで言われている謎の多い女。


 全冒険者の頂点に立つ女。


 それが今、目の前に姿を見せている。


「彼が傷つくのをみて、本当に心苦しかった。今すぐにでも手を差し伸べたかった。でも、あの人に会うためにどうしてもできなかった。してはいけなかった――嗚呼、運命ってなんて惨いのでしょう」


 炎にあぶられた心臓の鼓動が大きくなっていく。


「一つの入れ物に二つの心は入らない。彼があの人でも、彼の記憶はあの人のものじゃない。じゃあ、要らないでしょう。ねえ、そう思いません?」


「なにを……あなたはなんのことを……」


 言いかけて、口を閉じる。

 一瞬目を疑った。


 美しい黒髪が靡いているだけのはずだった。

 その黒髪からいつの間にか猛々しく立つ、漆黒の獣の耳。


 姿を見て思う。

 怪物、人ならざる存在だと。


「ば、化け物……」


 ふいにでた言葉。


「嗚呼、あなたたちはいつも当たり前のように私達をそう呼び、蔑んできましたね。そう。私達のみならずあの人のことだって」


 美しい炎に混ざったのは無限の憎しみと怒り。


 放たれたのは――恐怖


「おぇええええっぇええ゛ぇぇっ!」

 

 あまりにも悍ましい殺気に触れ、全身の体液が一気にあふれ出した。


 噴き出る汗、胃がひっくり返る程の吐き気、無意識に零れ落ちる涙。


 それは超位回復による副作用ではないと、はっきり分かる。


 ――目の前にいる女に、身体が全部が拒絶反応を示している


 酸素を取り入れようにも、口からも鼻からも噴き出る体液に呼吸がせき止められ息をする事さえままならない。 

  

「あなたたちが当たり前のように持っている力が、能力が、生活が。誰のおかげで成り立っているのかも、誰のものだったのかも知らずに」


 逃げろ、逃げろ、逃げろ。


 今までそんなこと思ったことも無かった。


 それでも――

 目の前にいる女には絶対に勝てない。

 相手なんかすべきじゃない。

 こんな化け物と視線を交わしちゃいけない。

 言葉を交わしちゃいけない。


 一秒でも早く、この場から逃げ出さなきゃいけない。


 逃げろ、逃げろ、逃げろと命の危機を察した脳が全身が悲鳴をあげ続ける。


「嗚呼、それをさも自分たちが神から得た恩恵だと思うなんて、どれほど浅ましく醜い生き物なんでしょう。ねえ、そうは思いませんか?」


 逃げろ、逃げろ、逃げろ。

 寒くもないのに背筋を流れる汗、震える身体。

 ヘラが言葉を紡ぐたびに、まるで刻一刻と死の宣告が迫ってくるかのよう。


 殺される、殺される、殺される……!


 絶対的な強者に捕食されている最中の脆弱な生き物になった感情に支配され、身動きひとつ取ることが出来ない。命が食われるのをただ待つだけ。

 一瞬でも立ち向かおうとしてしまった自分が、いかに愚かであったかを悟る。

 どうあがいたって結果は見えていた。


「私は自分の生まれた意味を肯定する。そして――嘘に塗れたこの世界で、あの人の汚名をそそいでみせる」


「……お願いします。ゆ、許してください。許してください。許してください」


 自分がいつだって誰よりも優れているとそう思っていた。

 与えられる側では無く、いつだって与える側の人間であるとそう思っていた。


 それなのに――生まれて初めて紡ぐ言葉が、無意識に口から飛び出した。


「生まれた意味を問うのは、次はあなたたちの番。そしてこれは、あなたに汚されたあの子への弔い」


 今から自分の身に何が起こるのか、何をされるのか、鮮明なイメージが脳裏に走る。それは耐え難い恐怖であり苦痛、僕の生活全てを支えてきたものが失われてしまう。抗いようの無い、地獄のような苦しみ、死への恐怖。


 いや、死ぬほうがよっぽどましだとそう思える。


「お願いします。お願いします。もう、もう、もう僕は何もしません」


 願う。


 必死に懇願する。


 失禁していることさえ最早恥であると思わない。


 命をこう。


 目の前にいる天使に必死に命をこう。


 瞬きひとつ落とした瞬間に、目の前に迫った恐怖。


「だから、お願いします。助けて――」



 悪魔は優しく微笑んだ。



「さあ、本編をはじめましょう」



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