第27話 いっときの幻を見る
最低最悪なスキルの使い方。
本来人を癒し慰める回復の力が、人を傷つけ心を破壊する暴力へと変わっていく。首に食い込ませた指先、感じるのは奴の体温と心臓の鼓動。
繋がり一つになった身体。
ごくりとウェスカーの喉が鳴った。
交差する視線、止まった時間。
これ以上、交わす言葉なんてない。
指先に集中した全力の一撃。
傷ついたミヤビを癒したあの日に感じた心地よさなんて一切無かった。
あったのは怒りと憎しみ、あとは少しの虚しさ。
心を蝕む力を――ウェスカーへと流し込むように発動させた。
超位回復が身体へ流れ込んでいるのを示すかのように大きく見開かれたウェスカーの目。
殺気に塗れ怒りに燃えていた瞳に濃い影が落ちていく。
まるで感情や心が黒色に塗りつぶしていくかのように、瞳の光は陰り輝きを失っていく。
「お前なんかに――」とウェスカーが呟く。
光を失いかけたその瞳に再び微かな火が灯り、最後のあがきかのように一瞬だけ鈍く煌めいた。憎悪が俺の全身を貫く。
「お前なんかにぃぃいいいっ!!」
その咆哮に、大きく身体が震えた。
唾をのみ込む。
さあ、こい。
ここがもういっちょ根性の見せ時だ。
――止まっていた時間が一気に動き出す
防ぎようもない膨大な力。濁流のように流れ込み、全身の血管から脳に向け一気に走った。まさにキャパオーバー、俺のちっぽけな身体には相応しくないほどの強烈な量が身体の中で膨らみ、肺に残った空気が押し出されるようにして口から噴き出た。
たえろ、たえろ、たえろ。
『快楽とか、心地良いとか、そんな次元の話じゃない。地獄の苦しみを味わうことになる』
ミヤビの言葉が一瞬脳裏をよぎり、弾ける。
無防備な身体に流れ込んでくる高次元の回復スキルは、一瞬のうちに強烈な眠気にも似た安堵感へ変わり全身を支配する。今こうして男二人が対峙し、互いの首を絞め合い殺し合いをしようとしている異常な状況なんて、ふと忘れてしまいそうな程の穏やかな感情が膨張していく。
そして、全身を巡り膨らんだ安堵感は徐々に神経を侵し始める。この瞬間の為に研ぎ澄ましていた感覚も、奴から一瞬たりとも離すまいとしていた視覚も、途端にその役目を忘れてしまったかのように鈍る。
自分を包む空気が弾力を帯びぬかるみはじめた。
弾力のある空気が溶けた鉛のように全身に纏わりつき、吸い込んだ重たい空気が肺に入り込み吐き出すことを許してくれない。
思うように身体が動かない。
悪夢を見ている最中のように、必死にもがいても視界は歪み次第に霞んでいく。
朦朧とする意識を手放すまいと痛みという感情を欲する。
持ちこたえろ、持ちこたえろ、持ちこたえろっ……!
目を覚ませっ――と舌を思い切り噛む。が、口の中に一瞬血が溢れる生暖かさを感じるだけで痛みを得ることは出来なかった。踏み砕かれ、目玉が飛び出るほどに痛み、熱を感じていた右の足先を地面に向かって振り落とすがこれも痛みは無い。まるで全身の痛覚をごっそり持っていかれたかのようだった。
そして全身を走る安堵感が一気に猛毒へと変わっていく。
こみあげてきたのは猛烈な吐き気。
天地左右どこにいるのかも分からないような浮遊感。
酒を飲んで酔っ払っているなんていう生易しい表現じゃすまない。
直接脳みそにアルコールをぶち込まれ、思いっきり振り回されるような異常な感覚にえずく。散々腹を蹴りとばされ、最早胃の中には何も残っていないはずだった。それなのに身体が異物を吐き出そうとしているのか、胃液だけが口から噴きだした。
噴き出た胃液、ぼたぼたと零れるそれがウェスカーの指先まで伝っていくが、奴は手を離さない。奴の精神が今どんな状況になっているのか分からない。だけど、その目に宿る狂気は完全に消えることはない。熱い息を吐き出しながら唸るその姿は、まるで獲物を仕留めるまで喉へ食らいつき続ける獣。
溢れ、零れてもどんどんと注がれ続ける超位回復。
頭が、脳が、心がおかしくなっていく、蝕まれていく。
がくりと膝が地面に落ちかける。
「ウェスカァぁぁ……!!」
それでも。
叫ぶ。
砕けた奥歯が口から弾き出る。
自分を鼓舞する、奮い立たせる。
倒れるな――倒れたらだめだ。
もう少しだろ、もう少しだろ。
これを耐えたらアイツに勝てるだろう。
おい、俺!
頑張るって、こらえるって決めただろ!
この野郎の顔面をぶん殴るって決めただろ!
踏ん張れよ、踏ん張れよ。
必死に自分に言い聞かせても、身体が言うことを聞いてはくれない。
足にも腹にも力が入らず、今にも瞼は落ちてしまいそう。
ちくしょう……ちくしょう!
心と身体が離れていく。
『交換しますか?』
『交換しますか?』
『交換しますか?』
命の危機を知らせるアラートのように、無機質な声が頭の中で繰り返し響く。ウェスカーに嬲られ続けていた時と全く同じ、勝手に開くステータスメニューの中で『交換しますか?』と文字が激しく点滅している。今まさに創造スキルが発動しようとしている。俺に再び選択を迫っている――
だけど、
「う、うるせえっ! こぉっ、交換っしないっ! しないっ!」
拒否する。
大声を張り上げる。
『交換しますか?』
『交換しますか?』
『交換しますか?』
「だあってろ! しないってっぁ!」
拒否する。
呂律が回らなくなっても必死に拒否する。
もうこれ以上こんな奴の為に何かを犠牲にし、失うことは嫌だった。
この化け物に大切なモノを奪われるのは嫌だった。
死にかけ壊れそうになった状況で、そんな甘いこと言ってんじゃねえって誰かに叱られ、馬鹿にされそうでも、それでも嫌だった。
アイツらの為じゃないって、何回も何回も繰り返し思った。
今だって、そう思っている。
大した思い出なんて何もないって思ってる。
何も良い思い出が無くてよかったって思ってる。
それなのに、無くなったのは俺にとっては確かに大切な思い出だったから。
何でそう思えるのかさえ分からないけど、俺がとっても大切にしていたものだった。これまで「その為に生きよう」って思ってたほどに大切にしていたものだった。
割り切ったはずだった。理解したはずだった。納得したはずだった。
エリーダさんの為とか、自分の為とか言ってたけど、たぶんそうじゃない。
本当はそうじゃなかった。
辛かった、苦しかった、情けなかった、死にたくなるほどきつかった。
遅かれ早かれこうなっていた。
自業自得だった。
――それでも
こんなしょうもない奴に奪われていいものなんかじゃなかった。
それだけははっきり言える。
奪われっぱなしで終わるほど俺は情けない人間じゃない。
どろどろに思考が溶けいく。目の前にいるウェスカーの顔でさえ大きく歪み一瞬誰だか分からない程に脳も麻痺している。そんな中、いつどこで体験したのかも分からない記憶がいくつも頭の中を周り消える。
手を繋ぎ二人で見上げたオラクルの正門、二人で飲んだ味気の無いスープ、地図を広げ二人で彷徨い歩いた街、寒さを紛らわせるために毛布にくるまり二人でひっついた部屋、大切に使っていた黒い財布、みんなで卓を囲い酒を飲み騒いだ店、はじめてみんなでやっつけたゴブリン、ありきたりでも楽しかった日々。
そんな身に覚えが無い、何かよく分からない幻みたいな記憶や想いが俺を突き動かしている。
この気持ちは心に蝕む超位回復が見せる、一時の幻なんだと思う。
もう少しで夢から覚めたみたいに忘れてしまう程に儚いものなんだと思う。
そんなことどうだっていい。
今はもう、この気持ちが記憶が、幻だろうがなんだろうが構わない。
ぽっかりと空いていた心の隙間が少しだけ戻ってきたような不思議な気持ちが自分を奮い立たせている。――それだけで十分だ。
「この、ボケぇぇえええ!」
鼻水を垂らし、胃液を吐き散らしながら吠える。
力の抜けそうになった指先に再び力を込める。
最低最悪なスキルの使い方。
戦闘シーンなんて不似合いな俺の我武者羅な一撃。
最悪な力をウェスカーへ全力でぶつける。
勝っているのかも負けているのかも分からない。
全身の力を振り絞り、残った力の全てを注ぐ。
膨張した力を一点にまとめ狂気の滲むウェスカーへ全力で流し込む。
最後の一滴まで体力を振り絞る。
ああ、命がけってのは今みたいなことを言うのかもな。
膨らんだ泡が弾けるように、消えていく大切だったいくつもの幻。柔らかな緑の光に溶け込むかのように全部が消えていく。心が剥がれていく。
少しの寂しさを感じながら、再び大きく叫んだ。
…………
……
…
静寂が辺りを包んでいた。
相変わらず俺たちは互いの首元を締め上げている。
でも――ただそれだけ。
もう、超位回復は発動していない。
声を出すことも、一歩足を前に出すことも出来ない。
体力の全てを出しきり石のように固まった身体、半分落ちた瞼。
それでも互いの視線だけは交差していた。
狂気に満ちていたウェスカーの目に光は無い。
霞んでいく意識、微かに届くウェスカーの声。
「……なんでアイツなんかに……フレイア――」
ウェスカーは今までに聞いたことの無い程に弱々しく鳴いた。
食い込んでいた指先が俺の首から外れ、腕がだらりと垂れる。
泣き声をあげる前の子供のようなウェスカーの顔。
いや誰だよ、って思いながら、ゆっくり俺の身体も真後ろへ傾いていく。
この化け物は、超位回復で壊れた心で最後に何を想ったんだろう。
俺もコイツも壊れてしまった、失ってしまった。
ぶん殴ることは出来なかったなと少しの後悔。
顔を出した朝日を見ながら、意識を手放した。
◇
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