第十六話:信頼

 死の雨のように降りし、赤きもの。

 それは、誰が放ち、誰が流し、誰が止めたのだろうか。


 その時。

 ローウェンは見た。


 レティリエが助けられた時と同じようで、違う。

 青白き、不可解な文様が浮かぶ、謎の半球状の壁が二人を。そしてグレイル達四人をそれぞれ覆い。赤き棘の雨を受け止めたのを。


「速水君!!」

『雅騎!!』


 絶望を声にし、顔面蒼白のまま叫んだ天使達も見た。


 仲間を護る。

 その一点に全力を懸け、己を護らなかった男が、巨大なる岩塊を交差させた両腕で受け止めるも、その力で吹き飛び、額から血を吹き出しながら、宙を舞ったのを。


 魔壁の盾シルズ・ヘルサ

 雅騎はその力を、仲間を護る事だけに向けていた。


 彼は様々な術を駆使できる。

 だが、それとて有限。同時に放てる数にも限りがある。


 己に魔壁の盾シルズ・ヘルサを向けていれば、その雨を降らす事はなかっただろうか。

 それでも、雅騎はできなかった。仲間を見捨てる事など。


 吹き飛ばされた雅騎は、勢いのまま空中で体勢を立て直し蜻蛉返りを見せると、脚から着地し滑りながらも踏みとどまった。


 額からの血は顔を汚し。地面に滴る。

 両腕は今の一撃で折られたか。動かそうとすれば痛みが走る。


 痛みに顔を歪ませる。

 痛みで意識が飛びそうになる。


 だが。

 彼は紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナを見続けた。


 まるで、俺はここだと。敵はここだと。

 魔人に伝えるように。


 佳穂達の声に振り返ったグレイルやレベッカもまた、そこに立つ満身創痍に見える雅騎を見て身を震わせた。

 魔人と戦い、傷ついた者達の野生の本能が訴える。


 彼はこのまま殺される、と。


 治癒の光マグスルファの手を止めた佳穂とエルフィが思わず立ち上がり、飛び出そうとする。

 だがその動きは、彼の苦しげな叫びで制された。


「綾摩さん! エルフィ! みんなに力を向けろ!」

「でも!!」

「死なないって約束したんだ! だから、信じて!!」


 その言葉に佳穂もエルフィもびくりと一瞬身を震わせ、思わず唖然とする。


 彼が言い放った言葉の意味を知っていた。


 エルフィこと、エルフィアンナの妹、エルフィレイア。

 雅騎は天使である彼女達との戦いで、己の命を犠牲にして妹を護ろうとした。


 結果として九死に一生を得たものの。

 あまりにあっさりと自らの命を捨てようとする彼に、佳穂は泣きながら訴えた事がある。


  ──「死んでもいいなんて、言わないで……」


 心に思い浮かびし言葉が、佳穂を、エルフィを悔しげな表情に返ると、二人は再びしゃがみ込み、グレイルに治癒の光マグスルファを掛け始めた。


「雅騎が……」


 彼の肩越しに雅騎の状況を見たレティリエの恐怖に引きつった声。


「佳穂! エルフィ! 俺はいい! あいつを助けろ!」


 グレイルは思わず振り返り、二人に懇願するように叫ぶ。

 当たり前だろう。随分と傷が癒えてきた自分などより、余程彼のほうが危険。

 だが佳穂は、涙を堪えながら、首を横に振った。


「何故だ!?」

「……速水君を、信じてるから……」

「……!?」


 彼女の顔の何処に、そんな気持ちがあるのだろうか。

 悔しくてたまらない。今すぐにでも加勢に行きたい。

 そんな色しかないのにも関わらず。彼女がそんな事を口にした事に、グレイルが言葉を失う。


「速水君は死なない! 私達がみんなを治すまで、絶対生き残ってくれる! だから、それまでにみんなを何としても治すの!」


 己に言い聞かせるように叫ぶと、悔しさにぐっと口を真一文字にする佳穂。そして彼女と同じ覚悟を決めた、悲痛な、しかし真剣な顔のエルフィ。

 その二人の気持ちが、グレイルには分からなかった。


 彼は思わず、視線を戦いに戻す。


 腕が上がらぬ雅騎が脚と身体だけで敵の攻撃を避けている。

 手負いの獲物を狩りで追い詰めるように、魔人がただ前に出る。棘もまた、彼にしか向かない。それは何か彼に驚異を感じているからなのだろうか。


 雅騎の動きは、腕を使えない分不自然さがあり、決して長く保つようには見えない。

 ただ。グレイルはその時の彼の眼を見て、はっとした。


 彼は、佳穂を護ると決意した闘いと、未だ同じ眼をしていた。

 ひたすらに覚悟だけを感じる、強い眼。


 だが、劣勢。

 だが、首の皮一枚。


 何故そんな戦いの中で、あの男は絶望しないのか。


  ──あいつはまだ俺達を護る気なのか!? この状況でも、希望を捨てていないのか!?


 確かに雅騎は村人に認められた。

 だが彼は人間だ。本来別の世界の赤の他人だ。


 それなのに。彼は今、誰よりも人狼達を護らんと、命がけで戦っている。

 勝てぬかもしれないのに。傷だらけなのに。


 仲間を護らんと、必死に。


 そこにある彼の強き意思を感じ、グレイルははっと気づく。 


 力こそ全て。

 そんな人狼の村にあって、最も強いと言われる自分が、何を簡単に諦めていたのか。


 自分とて、過去に人間にレティリエが拐われた時、必死だったではないか。

 レティリエもまた、過去に人間から仲間を護り助けるため、必死だったではないか。


 そう。

 諦めようとしなかったではないか。


 グレイルは、当たり前の事に気づかされた。


 誰かを護る。

 それは諦めた瞬間に終わる。

 だからこそ。

 あの男は護る為だけに全力を向けていると。

 希望を捨てないのだと。


 偶然か。必然か。

 戦いの最中さなか、グレイルは一瞬雅騎と眼があった気がした。

 その眼の奥底に宿る希望の炎など、見えやしない。


 だが。


  ──「諦めるんですか?」


 見えぬはずの炎に、そう問われた気がした。

 そして。それがグレイルの心に、小さな希望の火を灯した。


 雅騎は傷ついたにも関わらず、己の気をより強く高め、抗い続けた。

 仲間が狙われたのは、こちらだけを敵視してもらえたと油断したから。


 傷を負ってはいる。だが、もうこれ以上仲間を危険に晒さない為、この状態でも魔人の驚異であるため、彼は強く牽制し、魔人の敵であり続ける。


 半分は時間稼ぎ。

 だが、半分は未来への道を閉ざさぬため。


 仲間を治癒し、佳穂達が合流できればまだ勝機がある。

 そのためにも自身が驚異であり続けるべく、避けながらも、隙あらば反撃をする素振りを見せる。


 だが、腕があがらぬ状況では体術すらままならない。

 そして何より、強く頭を打たれ、未だ目眩もある。

 それでも彼は己の全力の体術と、集中力で、ひたすらに舞い続けた。


 だが。その状態で永遠に戦い続けるなど、運命が許さなかったのか。

 魔人の突きの連撃を避けながら下がっていたその時。突然彼の視界が欠けた。


 目に入りし血が、片目の視界を奪い、突きの軌道が闇に覆われる。

 瞬間、雅騎は予想外の事に動きを止めてしまう。

 頭で分かる。避けられない。


「しまっ──」


 雅騎の後悔の声は、瞬間。

 その身を貫きし紅き鋼……ではなく、黒き疾風により遮られた。

 素早く走り込んだ黒き狼は、そのまま雅騎に体当たりし、間一髪。魔人の腕が刺さる前に勢い良く後方に吹き飛ばしていた。

 狼は勢いのまま雅騎まで跳躍すると人狼と化し、空で彼の胴を片腕で抱えると、華麗に身を反転させ、魔人の方を見るように着地する。


「グレイルさん!」


 小脇に抱えられたまま、雅騎が救世主の名を呼び彼を見上げると、グレイルもまた雅騎に顔を向け、にやりと笑う。


「すまない。遅かったか?」

「いえ。完璧ですよ」


 その言葉に、痛みを堪えながらも笑顔を見せる雅騎。


「おっと!」


 そんな二人の再会を拒むように放たれた鋼の棘を、グレイルは彼を抱えたまま軽快に避ける。


「あいつに勝てる策はあるのか?」


 攻撃を避けながら問い掛けるグレイルに、雅騎は表情を引き締めると。


「木々のない、開けた場所にあいつを誘き出せれば」


 はっきりとそう言い切った。

 その言葉が彼にも希望を与えたのだろう。同じく真剣な表情をしたグレイルは、短く「任せろ」と告げると、紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナを牽制しながら、背を向けて村と反対方向の森に駆け出していった。


* * * * *


 グレイル達の逃亡劇の先にあったのは、森を抜けた、はっきりと大地が見える開けた場所だった。

 できる限り森から離れた位置で、彼は雅騎を降ろす。


 未だ天には赤き月が煌々と輝き、不気味に大地を照らす中。

 ゆらりと。ゆっくりと。森から紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナが姿を現し、月の光でより怪しく輝く。


 迎え撃たんとする二人は、不気味な相手をじっと見ながら並び立った。

 雅騎の腕は青みがかり、痛々しさを増している。


「その腕で、いけるのか?」


 魔人から目を逸らさず尋ねるグレイルに、


「少しだけ時間を稼いでください。あと、俺が合図したら、一度身を引いてください」


 できないとは口にせず。短い指示を出す雅騎もまた、魔人をじっと見つめたまま。


「任せたぞ」

「はい」

 

 短く言葉を交わした二人は、魔人の放った赤き棘を避けた後、グレイルが一気に前に出た。

 敵の攻撃を避けつつ殴れど、やはり手応えはない。ただ、囮となるのであれば、無意味でも引きつけなければならない。

 だからこそ、彼は全力で避け、全力で殴った。


 離れた位置で立つ雅騎は、痛みで疼く腕を無理矢理動かし、身体の前で曲げ、片腕を天に向けると拳を開く。


 痛みがあっては、頭の中で詠唱などできない。

 だが、それでも彼は、唱え切った。

 未来へ続く、希望を手にする為に。


 激しい突きや拳を避けていたグレイルは、ふと背後に強い熱を感じた。

 振り返りはしない。だが、それはまるで、誰かの眼に感じた希望の炎がある。何故かそう感じ取る。


 その強き熱を紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナも強く感じたのだろうか。

 一度、その攻め手を止めた、瞬間。


「グレイルさん!」


 雅騎の叫びに、咄嗟にグレイルは横に飛び退き道を開けた。


 死への道か。生の道か。

 疾風しっぷうとなり道を駆け抜け、魔人の前に迫ったのは、またも狼の牙。

 だがその牙は、ただの牙ではない。


 雅騎は、素早い踏み込みと共に狼突牙ろうとつがの体勢で両腕を突き出し、両掌りょうてのひらにある豪炎を魔人に叩き込んだ。


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 それは雅騎の持ちし炎の術。


 その炎の球を魔人は身体と両腕で抱え止めようとする。

 炎と鋼の鍔迫り合いのような時間。

 炎を浴び、紅き鋼が高温を帯びたように焼かれる。

 だが、本来この炎は手から投げ放つもの。

 雅騎の腕もまた、その炎の熱で焼ける。


「ああああぁぁぁぁっ!!」


 歯を食いしばり、言葉にならぬ叫びで吠えた雅騎の力が打ち勝ったのか。魔人は豪炎を抱えたまま一度大きく後ろに滑るように弾かれた。

 炎の勢いを逸らすように、魔人が炎を天に投げ捨てると、ふらりと体勢を立て直す。


 と、次の瞬間。

 雅騎はそのまま二度目の踏み込みと共に、再び狼突牙ろうとつがで踏み込んだ。

 だが叩き込みしは、炎でも掌打でもなく。今度は冷気の塊。


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 渦巻く冷気の風球をまたも受け止める事となった魔人の身体が、熱で赤く光った身体から一転。一気に冷やされ赤黒く黒ずんでいく。

 またも力比べの様相となった状況の後。紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナはまたも冷気の塊と共に、強く後方に弾き飛ばされた。


 魔人の抑え込んでいた風が消えた時。

 雅騎は大きく荒い呼吸をし、その場に両膝を突いた。痛みを隠せず、顰められし青白い顔。冷や汗が血と共にだらりと顔を流れる。


 二度の術を受けた魔人はといえば、赤黒き姿に変わっても、動きは止まらない。またふらふらと宙を漂い雅騎に迫ろうと動き出す。

 が、グレイルはその姿に、はっきりとした違いを見て取る。


「グレイルさん! を!」


 雅騎は、道を指し示すように、強く叫んだ。


 赤黒く汚れた身体の中、今まで姿を見せなかった、胸にある赤く輝く水晶が、まるで息づくようにゆっくりと点滅している。

 彼の声に呼応し。グレイルは一気に間合いを詰め、魔人の胸の水晶に向け殴りかかろうと迫った。


 だが魔人とて、敵に簡単に迫らせない。

 黒ずんだ棘が彼を狙うも、狼は黒き疾風しっぷうとなりそれを掻い潜る。

 そのまま勢いよく近づいたグレイルに、魔人は岩塊の巨大な腕を振るった。


 今まで傷すら入れられなかった相手。

 一度は力負けし、あばらまで折られている。

 だが、グレイルにはもう、恐怖などなかった。


  ──あいつなら、やってみせる!


 共に闘いし友なら成しえると信じ。己が希望を掴む為、絶対に砕けると信じ。

 彼は迷いなくその腕目掛け、己の拳を叩きつける。


 今までにない手応え。

 メキメキッという耳障りな音の後、バキンッという音と共に、砕け散ったのは岩拳がんけんの方だった。


 雅騎はこれを狙っていた。

 急激な熱に晒され、直後に急激な冷気で冷まされ。鋼が脆くなれば、彼なら打ち抜けるはず。

 その人狼の力を知るからこそ、後を託した。


「おぉぉぉぉぉぉっ!!」


 振り切った腕をそのままに、グレイルは吠えながら更に踏み込み、もう一方の腕を大きく振るう。

 反撃しようとした魔人の突きの速さを超え、頬を掠めて生まれし傷など気にも留めず。彼は懐に入ると、全身全霊を乗せた拳を、脈打つ水晶目掛け繰り出した。


 拳を喰らいし水晶は、剛拳を受けるといとも容易く一瞬で砕け散り。そのままグレイルの腕が魔人の背より突き出る。


 紅血鋼の魔人シュヴァラ・シスヴァーナは、まるで糸が切れた操り人形のようにだらりと力を失い、暫しそのまま動かなくなる。

 と、次の瞬間。

 全身にヒビが走り、粉々の破片となって地面に散らばり落ちた。


「勝った……のか?」


 大きく肩で息をしながら、振り切った腕を戻し、己の拳を確かめるように見るグレイル。


 と。突如足元に散らばった破片がふわりと光を帯びたかと思うと、まるで蛍が散り散りとなるように、姿を散らし、消していき。同時に、突然空が深い闇に包まれた。


 グレイルと雅騎が天を見上げると。

 赤き月の光はいつの間にか消え、真っ暗な闇に返ったかと思うと。少しずつ、白銀の月が三日月のように少しずつ姿を現し、二人を照らし始める。


「……終わったんだな?」

「……ええ。多分」


 彼等が天を見上げたまま呟いたその時。


「速水君!」

「グレイル!」


 森の方から佳穂とレティリエの声がした。

 見れば、狼姿のローウェンとレベッカの背に二人が跨り、並んで飛来するエルフィと共に駆け寄ってくる姿が見える。


「レティ!」

「グレイル! 無事で良かった!」


 ローウェンの背から下りた途端、勢い良く彼の胸に飛び込んだレティリエが、涙しながら喜びを語り。


『何故貴方は何時も無茶をするのですか!』

「そうだよ! 本当に心配したんだから!」


 佳穂とエルフィは雅騎を涙目で咎めながらも、これまた安堵した表情で彼の両腕に治癒の光マグスルファを掛け始める。


「佳穂。その辺で許してやってくれ。雅騎がいなかったら、俺達はとっくにこの世にいなかったんだ」

「本当ね。ありがとう。みんな


 人狼の姿に戻ったローウェンとレベッカは、呆れたような。しかし嬉しそうな顔で一度互いを見た後、彼等に素直な感謝を口にすると。

 いつも通りの優しき月明かりに照らされながら、六人は皆、笑顔を交わすのだった。

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