ぼっち論

小欅 サムエ

友とは

 『がんばっている』という言葉がある。


 これは、自分自身が発していい言葉ではない。あくまでも、これは他人からの評価である。


 『がんばっている』のは自分だが、それを見ているのは他人だ。故に、本当に『がんばっている』のかどうかは、その他人こそが評価すべきものなのだ。


 だから、自分で自分のことを『がんばっている』などと宣ってはいけない。それは、ただの保身でしかないのだ。


 他人でしか分からない、という観点で言えば『友達』もそうだろう。


 そもそも、友達とは何者か。


 何をしたら友達と呼べるのか。その人にとってどういう存在ならば、友達となり得るのか。


 誰が、この問いに対して答えを見つけられようか。真に友達とやらを見つけた人間には分かるのだというが、果たしてその友達は、あなたのことを友達と思っているのだろうか。


 そう考えると、友達とはまるで確証の得られない、蒙昧なる存在だと言える。


 つまり、友達とは架空の存在であり、決して目に見えぬものであると結論付けられよう。


 言葉を交わしただけでも友達、という人間も中にはいるが、それは友達という価値観の違いが生み出した、一種の幻覚に過ぎない。友達という言葉だけが独り歩きし、それに対し明確な定義も出来ぬままに、ただラベリングを行なっただけである。


 そう思うと、とても哀れだ。真の意味での友達というものを知らず、他人に裏切られたことで、友達と思っていたのに、と泣き叫ぶ人間は、何と愚かで悲しい生物なのだろうか。


 ならば、友達というものは幻想の生物と仮定し、我らは歩むしか無いだろう。一方的に友達と判断し、それによって無駄に心が傷つくようなことは、あってはならないのだ。


 こういうものを、ぼっちは妄想しながら書き殴り、涙を零すのである。

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