第2話 友達の登場

 夏鈴は、鞄の中におつりの入った小物入れがあることを確認してから家を出た。正直夏鈴にとっていま必要なのは、今日のクラスルームに要るものより、洞野に渡すおつりだった。

 一日寝ればある程度痛みが引いたが、それでも悪化させる危険はあるので、前回より2,3本早い電車に乗れるように早起きをした。

 駅までゆっくり行って、定期券を使ってから電車に乗り込んだ。席に座れて安心しながら文庫本を開こうとしたときだった。

「あ、君女川さん!?」

 上から降ってきた朝早くとは思えない甲高い声に思わず顔を上げると、見知らぬ顔があった。

「……どなた、ですか?」

 思わず夏鈴はそう訊ねると、相手は一瞬複雑な顔をしてから、納得したように頷くと、自己紹介をした。

「おんなじクラスになった、伴野心(とものこころ)だよ!入学式の時に見たけど、クラスにいなかったから、女川さんだなって思って!」

「伴野…さん」

 さりげなく伴野は夏鈴の隣に座る。

「女川さんどうしたの?クラスに来なかったの?」

「えっと、途中で転んで保健室に行ってて」

「そうなの?怪我してない?」

「足、捻挫しました…」

「え!大丈夫なの?困ったら言ってね、助けるから」

「ありがとうございます」

 夏鈴は遠慮しながら、伴野の優しさを素直に受け取った。伴野は笑顔を絶やさず会話を続ける。

「クラスの中、みんな面白い人ばかりだよ。ひょうきんな人もいるし、天然もいたよ、きっと女川さんでも大丈夫だよ!」

 そう聞いて、夏鈴はほっとした。友達の多そうなフレンドリーの伴野との関わりを得れたことにも安心できる事だった。

「あのね、沙良って子がいて、びっくりするぐらい塩対応なの。でもちょっと抜けてるところがいっぱいあって、可愛いんだ!」

「そうなんだ…」

「それとね…」

 と、伴野の会話が止まる。少し考え込んでから、苦笑いを浮かべて話を始める。

「あの、女川さんじゃ仲良く出来そうにない人がいる……かも」

「え?」

「そう、めっちゃ怖い人がいるの。雰囲気が…ね」

 夏鈴は、そんな怖い人がいると思って少し体に力を入れる。

「途中で来た人なんだけどさ、目つき悪いし、前髪長いし…」

 夏鈴は、途中で「あれ?」と思った。

「あんまり、関わると怖そう。ああいう人って、人を見下しがちだから…。ほんとに、一人で本読んでたし、誰とも関わろうとしてないし。あ、ごめんね、クラスメイトのこと悪い風に言っちゃった。これ、私の解釈だから」

 夏鈴はそこまで聞いて、なんとなく察した。でも、伴野との解釈は全く違っていた。

「私は…そうは…思わないです」

「え?知ってるの?同じ中学?」

「いえ、あの。怪我をしたときに…」

 夏鈴は必死に洞野の説明をした。伴野はそれに文句も言わず、少し相槌を打ちながらじっと聞いてくれた。

〈洞野は怖い人じゃない〉

 それをひたすら伝えた。学校最寄りの駅に着いて、やっと夏鈴は我に帰った。

「あ…。ごめんなさい、こんなこと言って…」

「んーん、いーよー」

 伴野は柔らかい笑顔で手を引いてくれた。夏鈴はひたすら洞野のことを熱弁してしまったことがどうしようもなく恥ずかしくて、顔を下に向けていた。もちろん、このことで伴野に嫌われてしまったのではないかという不安もあった。

「ごめんねー」

 改札を抜けて伴野がそう言った。

「え?どうしてですか…?」

 夏鈴は思わず訊ね返すと、伴野は眉を下げて申し訳なさそうにしていた。

「だって、今の聞いてたらさ、私外見だけで判断しすぎたんだなって。申し訳なくなってさ」

「でも…」

「まあ、洞野くんに何も話しかけなかったしね。よし、話しかけてみるか!」

 伴野は片手で伸びをしながら、そう決意した。夏鈴は手を引かれながら思った。洞野は相当誤解をされている可能性があると思った。

「あ、そうだ。下の名前で呼んでもいーい?」

「へ?」

 夏鈴は思わず間抜けな声を出した。今まで下の名前で呼ばれたのは、家族と先生だけだったから。慌てて、間抜けな声の余韻を残さないようにすぐに返事した。

「はい…!」

「やったー、よろしくね、夏鈴!」

 そう呼ばれたとき、夏鈴は疑問を持つ。

「あれ?私、下の名前教えましたっけ…?」

「ふん!クラスメイトの名前を一日で覚えた私だからね!」

 伴野は胸を張ってみせた。そうすると、夏鈴は、自分より大きい胸に一瞬嫉妬する。身長も勝ててないし、友達の数も勝ててない上に女子としても負けている感じがした。それでも、やっぱり勝てないものは勝てないので、嫉妬するよりもいいところとして捉えようと決めた。

 校門をくぐると、沢山の挨拶が飛んできた。夏鈴ではなく、伴野に。

「心!おはっよー」

「よお、伴野!」

「みんなおはよう !」

全てに笑顔で返す伴野を凄いと思いながら夏鈴は歩いていく。隣にいることが少し恥ずかしくもあり緊張してしまった。一人、伴野のもとへ近づいて来た。

「おっはよ!その子誰?」

「夏鈴!ほら、一人来てなかったでしょ?」

「あ!そっか、初めまして!」

 駆け寄ってきた女子は、笑顔で夏鈴にそう言った。

「は…初めまして」

 夏鈴は少し萎縮しながら答える。女子は自己紹介をする。

「私、舞野躍(まいのおどり)ていうんだ。ダンスが得意なの!」

 スカートをふわふわ舞わせながら、くるくる回る。伴野のような長身と、スカートから伸びる細い足、伴野よりは胸は小さくともスタイルの良い舞野を見ると、夏鈴はさらに少し嫉妬する。

「女川、夏鈴です…」

「夏鈴ちゃん、よろしく」

「よろしく…お願いします」

 夏鈴は頭を下げると、舞野は必死に手を横に振る。

「いいっていいってっ、友達なんだからさ!」

 何気なく舞野はそう言った。それに夏鈴は嬉しく感じる。

 伴野に手を引かれ、舞野がそばを歩いていく。夏鈴は二日目にして初めて教室に入ると、色んな人がいた。伴野は夏鈴の机まで手を引いてくれた。舞野は近くのグループに入っていった。伴野も、夏鈴に笑顔と手を向けてから立ち去った。とりあえず、一日分遅れたので、机の中を確認したり、周りの環境を確認したりした。机の中には色んなプリントが入っていて、周りには伴野と舞野はいないみたいだった。

 そのまま文庫本を開いたけど、やっぱり話し相手がいないのは寂しかった。

 周りをちらちら見ていると、全員の視線が一点に集中し、すぐに目を背けた。何かと思って夏鈴は全員が向いた方を見ると、教室の後ろ側の出入り口に、昨日の初めての友達の姿があった。

 洞野の近くには、人は寄ってこなかった。洞野が歩いていく方にも人は自然と避けていた。その様子を眺めると、夏鈴は少し胸が痛くなった。

 ただ、胸が痛いのは、その後のことで吹っ飛んでしまった。

「え?」

 思わず、声を漏らした。隣に洞野が座ったから。洞野はその声を聞いたとき、思わず驚いたような顔で夏鈴の方を見た。前髪で隠れているが、分かりやすく目を丸めていた。

「あ、ごめん。隣だと思わなくて…」

 小声で夏鈴は洞野に言うと、洞野は納得したように頷いた。

「あ、それと、おはよう…」

 夏鈴はそう言うと、洞野は心が飛びそうになって慌ててこらえた。

 洞野は今まで、挨拶をされたことがなかった。初めてされた挨拶に、洞野は感動してしまった。なるべくそれを悟られないように、全力で押さえた笑顔を夏鈴に向けた。

 夏鈴はそれを、申し訳程度の笑顔だと受け取った。

「おはよう」

 洞野はそう言って、前を向いた。夏鈴はちゃんと挨拶できたことに喜びを感じながらも、洞野の申し訳程度の笑顔に、小さく残念がりながら本に目を移した。

 そのやりとりは、クラス内では誰も気付いていなかった。


 昼休みになって、それぞれ弁当箱を開けて、教室内には弁当の匂いがした。夏鈴も弁当箱を開けようとすると、伴野が寄ってきた。

「やっほ!夏鈴、一緒に食べよ!」

 その誘いが素直にうれしくて、夏鈴は頷いた。伴野は夏鈴の前の席の椅子を勝手に借りて座った。夏鈴の机の上に弁当を置くと、夏鈴の隣の席を見た。

 そして、口元に手を当て、夏鈴に小声で訊ねた。

「……どう、話しかければいいかな?」

 どうやら伴野が洞野に話しかけたいみたいだが、どうすればいいかわからず、夏鈴に助けを求めたようだった。夏鈴も少し困った。

「私が…話しかけたわけじゃ…ないから…」

 夏鈴は洞野の方を向くと、洞野は黙々とコンビニで買ったサンドイッチを食べていた。

「むーん、難しい」

 伴野が、夏鈴が気付かぬ間に開けていた弁当のおかずを食べる。夏鈴は慌てて弁当を開けた。自分で作ったにしても、適当過ぎて驚いた。でも、伴野はそうは思わなかった。

「え!?夏鈴、弁当すごっ!お母さんが作ってくれたの?」

「……ううん、自分で…」

「え!すごいじゃん、料理うまいんだね!」

 伴野は感激していた。夏鈴は褒められて嬉しかった。はにかみ笑顔を浮かべると伴野は笑った。

「いいなあ。……もしかして、独り暮らし?」

「う、うん」

「ええ!私じゃ無理だよぉ、朝起きれない!」

「時々、寝坊しますけど…」

「私、寝坊のレベル超えてるから!寝坊どころか、夜勤みたいになっちゃう」

 そんな伴野の冗談に夏鈴は少しだけ、緊張がほぐれていった。

 会話を続けてご飯を食べ終えると、伴野はもう一つの弁当箱を取り出して立ち上がった。

「……?」

 夏鈴は首を傾げると、伴野は丁寧に説明してくれた。

「今日は、夏鈴以外に弁当食べる約束してる人いるの!私食いしん坊だから、二つ目の弁当持ってきちゃったんだ」

「そうなんだ…」

 夏鈴は驚いた。どう考えても一つ目の弁当の量も夏鈴より多かったのに。

 伴野は笑顔でクラスを出ていくと、夏鈴の周りは静かになった。夏鈴は弁当を片付けると、右を向いた。

 洞野は昼寝をしていた。机に顔を覆うように両腕を乗せて、突っ伏していた。寝顔は見られなかった。と、何を考えているのかと夏鈴は自分を叱咤する。

 夏鈴はそんな洞野の様子をじっと眺めていると、舞野が来ていたことに気付かなかった。

「やっほ、夏鈴ちゃん」

 舞野は小声でそう言った。

「隣の人、寝てるね。こんな人も寝るんだね」

 舞野は八重歯を見せて無邪気に笑うと、夏鈴の机に両手を置いた。

「洞野って人、怖くないの?」

 そう訊ねてきた。夏鈴は、やっぱり洞野は誤解をされていることに改めて感じた。

「いいえ、怖くないです」

 夏鈴はちゃんと首を振って否定した。

「そっか、夏鈴ちゃんが言うなら本当か。入学式初日で、極道の息子の噂たってたからさ、私も怖くなっちゃんだよね」

「極道の、息子…?」

 思わず夏鈴は驚きながら、復唱してしまった。洞野はそんな人間ではないと分かっていたからでもある。

「そ、でも、夏鈴ちゃんが怖がってないんだったら大丈夫か」

「………どうして私基準?」

「だって、夏鈴ちゃん、警戒心強いでしょ。洞野くんの隣にいても全く警戒してないし、むしろリラックスしてるみたいだったから」

 そう笑顔で言う舞野に夏鈴は驚く。舞野は周りのことを見れる凄い人だと思った。そして、夏鈴は自覚はなかったけど、洞野の隣は安心できるものなのだと気付いた。

「でもさ、どうやって話しかければいいかな?」

 それを聞いたとき、夏鈴は思わずくすっと笑ってしまった。

「え?なんで笑ったの?」

「…伴野さんと同じこと言ったから」

「………そっかー、心でも分からないのかー」

「でも、優しい人だから、多分…話しかけたら答えてくれますよ…」

「そうか、第一印象が強すぎたせいで、話す内容が出なかっただけかー。洞野くんも普通の人だし、『こんにちは』とか挨拶しておけば返してくれるかな」

「きっと、返すと思います」

 夏鈴はそう断言すると、予鈴のチャイムが鳴った。それを目覚まし時計にしていた洞野はそこで、顔を上げた。

「おはよ!洞野くん!」

 舞野はすぐにそう洞野に言うと、洞野は寝起きドッキリを受けた芸人並みに驚き、困惑した。舞野は返答を笑顔で待った。夏鈴はちょっと困っていた。さすがにそのタイミングで行動に移すと思っていなかったから。

 洞野は夏鈴以外に挨拶をされ、頭の中は洪水を起こしていた。夏鈴は困ったように笑っていて、クラスの中心にいた女子が目の前で笑顔でいる。昼休みに軽く睡眠をとった後の話ではない。洞野は波が起きている頭の中で考えれずに、体に染みついた『挨拶はされたら返す』を実行した。

「お、はよう…ござ…」

 後半は、声が掠れて出なくなった。すると、舞野はさらに笑顔を深めた。

「よろしくね、洞野くん」

 夏鈴はその様子を見て、少し安心しながら、ちょっと羨ましいと感じた。洞野に簡単にあんな笑顔を見せている舞野に嫉妬していることに気付いて、慌てて嫉妬を消した。

「じゃ、予鈴鳴ったから、席に戻るね!」

 舞野は笑顔で、駆け足で席に戻った。夏鈴は洞野の方を見ると、まだ困惑していた。

「……大丈夫?」

 そう訊ねてみる。

「…………………いや、うん」

 隣でも聞き取れるかわからないくらい小さな声で、洞野は返事した。

「あの、起きてすぐにごめんね」

「…………いいけど……あの人、名前……」

「舞野さん」

「………………舞野…………さん」

 洞野はさらに小さい声で復唱する。夏鈴は少し不安気に洞野の様子を眺めていると、洞野がふいに夏鈴の方を見た。夏鈴と洞野は自然と目が会った。

「……………………何?」

「……ううん、なんでもない」

 夏鈴は慌てて弁明すると、頬杖をついた洞野はくしゃっと笑った。

「……なにそれ」

 夏鈴は、伴野にも舞野にもない、洞野の笑顔に胸が高鳴った。

 洞野の顔を見てられなくなり、すぐに目を背けた。高鳴りが少し収まって洞野を見ると、洞野は頬杖をついたまま、じっと夏鈴を見ていた。夏鈴はすぐにまた、目を背けた。

 チャイムが鳴って、先生が入ってきた。


 放課後になり、続々とクラスメイトが教室を出ていくその中で、舞野は洞野と夏鈴のもとに寄ってきた。伴野は楽しそうに話しながら教室を出ていった。

「ねーねー、二人は家どこなの?」

 舞野は笑顔でそう訊ねる。

「えっと、最寄りの駅から、6駅先のところ…」

「洞野くんはー?」

 舞野は当たり前のように訊ねた。洞野は少し困りながら答えた。

「…………上り電車で6駅先」

 そう答えた時、夏鈴は目を丸くし、舞野は名探偵のように何かを察する。

「もしかして、二人とも同じ駅?」

 夏鈴は、上りか下りか言ってはいなかったものの、洞野の回答でもちろん一緒の駅かどうかは分かった。

「私も、上り」

「え!すっごい、おんなじ駅なんだ!残念だなー、私下りなんだよね…」

「そうなんだ…」

 偶然の一致に夏鈴は驚きを隠せなかった。洞野は必死に驚きを隠した。

「おんなじだったら、どっか寄り道しようと思ってたんだけど…。二人が一緒ならいいんじゃない?」

 舞野は悪気もなく、茶化す気もなく、無邪気に笑って言った。ただ、二人には違う意味で聞こえてしまったのに、舞野は全く気付かない。

(一緒に……?洞野くんと…?)

(女川さんと…?)

 夏鈴は顔に出やすかった。頬を分かりやすく赤く染めた。洞野は顔に出にくかった。真っ白な頬は真っ白なままだった。

 舞野は、夏鈴の赤頬に気付いてから、自身の言葉に驚いた。

「って、変な意味じゃないからね!?」

 焦ってそう答えた。

「え?これ、私、あれ!?邪魔だったりしてないよね!?」

「い、いや。全然邪魔じゃない!邪魔じゃないです!」

 夏鈴は慌ててそう答える。洞野は何も答えなかった。舞野は慌てながら、二人に帰宅を促した。

 夏鈴は流れるように立とうとすると、右足の痛みを久しぶりに自覚した。思わず顔を歪めると、舞野はすぐに手を貸した。

 洞野は無言で立ち上がって教室の出入り口に行って二人を待った。夏鈴は舞野に迷惑をかけていることに申し訳なさを感じながら、ゆっくり歩いていく。舞野は嫌な顔はせず、楽しそうに話をする。

 校門を過ぎ、駅に着くと、改札付近で別れを告げた。

「じゃーね!また明日!」

「また、明日…」

 洞野は舞野に一礼した。舞野は洞野と夏鈴とは逆の方に走っていった。

 夏鈴は舞野に引かれていた手をちょっと眺めると、洞野は自ら夏鈴の手を掴んだ。

「……電車」

 電車が来る時間と、歩く時間を考慮して早めに行動しておきたかった洞野は、夏鈴の手を掴んでしまったが、洞野は『強引ではなかったのか』『もっと相手を考えて行動しておくべきだったのか』と、自分の行動を深く考えていた。

 夏鈴は少し笑った。

「ありがとう」

 その言葉だけで、洞野の考えは飛んで行ってしまったのだが。


 混んでいる時間帯のため、席は一人分しか空いてなかった。洞野は、そこに迷うことなく夏鈴を座らせて、自分は夏鈴の前のつり革につかまった。

「いいの?立ってて…」

「怪我してるから、座った方がいい」

「うん…」

 夏鈴は少し肩身が狭い気持ちだった。毎度洞野に助けてもらってばかりだった。そんな洞野を見ていると、周りでは少し驚いた顔をした人や、冷や汗をかいている人がいることに気付いた。

 洞野はやっぱり誤解されていた。正直、夏鈴にとっては怖い人の印象はすでになかった。よく見てみると、怖く見えてしまうのは顔が整っていているからだと思っていた。服装や髪形にも清廉さが写し出されていた。

(やっぱり、洞野くんはいい人だよ)

 洞野自身のことより、夏鈴のことを優先してくれる人柄に、素直にそう思っていた。


 駅に着いてからも、洞野は手を引いて、段差にはちゃんと注意を向けてくれていた。一切の危険はなかった。駅を出ると、洞野は夏鈴の方を向いた。

「……家、どこ?」

「え?家まで着いて行かなくても、大丈夫だよ」

「いい。どうせ独り暮らしだから、時間がある」

 結局、夏鈴は洞野の優しさを素直に受け取ることにした。道案内をしながら手を引かれていく。昨日より長く繋がる手は、やっぱり温かくて力強かった。

 曲がり角ですれ違った人は、思わず声が出るほど驚いていた。洞野はそれに少し傷つきながら、夏鈴の手を引いていく。

「ここ、だよ」

 夏鈴は、自分の住むマンションを指さしながら言った。

「何階」

「一階だよ、もう、大丈夫だから」

「そう」

 マンション前で、繋がっていた手をやっと放すと、夏鈴は洞野に笑顔を向けた。

「ありがとう、また明日ね」

 夏鈴の笑顔に、洞野は顔を背けたくなるが、昨日のようになるわけには行かないと思い、反らさずに夏鈴を見て答えた。できるだけ笑顔で。

「また、明日」

 夏鈴から見れば、口端が軽く上がっている程度だったが、洞野の全力の笑顔だと感じた。

 洞野の背中を見送り、曲がり角を曲がって見えなくなってから、夏鈴はマンションに入っていった。

 部屋に戻った後に、おつりを返すのを忘れていたことを思い出した。

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