シエル・ノワール


 仕事を終えた淳は、ホステルへと向かった。前回行った日からちょうど二週間が経っていた。

 彼は彩夏のことが気になっていたのだ。何か事情があって日本へ帰国したのかもしれないし、彼氏と一緒にヨーロッパか何処かを周っているのかもしれない。ラインのメッセージだって、友達がたくさんいれば全部のメッセージを読まないこともあるだろう。

 寧ろ、一週間ほど一緒に働いて一回飲んで相談を受けただけで、心配して探し回る方がおかしいのかもしれない。そう考えると、淳の足は重くなるのだが、それでもまだ彼女のことが気になっていた。

 前回と同様に三十分程歩くと、彼は目的地に着いた。

 ホステルの入り口の扉は妙に重たく、淳は力を入れて思い切り身体ごと押さなければいけなかった。

 カウベルがカランカランと安っぽい音を立てながら扉が開いた。

 入り口から数メートル先に、フロントが彼の視界に入る。

 しかし、『すぐ戻ります』のサインが立てられているだけで、フロントには誰もいなかった。

 淳は上体を前に倒してカウンターの奥をそっと覗き込んだが、案の定誰もいなかった。

 そのとき突然、背後から声がした。

「ボンジュール、シエル・ノアールへようこそ! ムッシュー、ご予約はございますか?」

 淳が振り向くと、背の高い眼鏡をかけた青年が微笑みながら手を振っていた。

「ボ、ボンジュール。いや、予約、じゃなくて友達をさがしているんだ。日本人の女の子で、二週間前に一緒に外で……」

「驚かしてごめんね。何だって? 日本人の女の子? ここにもたくさん泊まってるよ! ボルドーはワインで有名な街だからね! 日本人にもとても人気の街なんだ。キミもワインが好きかい? 実はこの近くにね葡萄園があってね……」

 淳には青年の仏語が速すぎて、途中から理解できなかった。

「すいません。もう少しゆっくりと話してもらえますか? 仏語はあまり得意じゃなくて……」

「ははは、ごめんごめん。キミが仏語で聞いてきたから、てっきり仏語が話せるのかと思って、ついつい普通の速さで話しちゃったよ」

 青年は悪戯っぽく笑うと肩を竦めた。そして今度はゆっくりと英語で説明し始めた。

 淳はいつか日本のテレビ番組で観たことを思い出した。英語圏の外国人が日本へ来て、日本人に英語で道を聞いてくる話を。そして、フランスでは、旅行者等に英語で話しかけられるとフランス人は嫌な顔をする、または英語では決して答えない、という話を。

 しかし、淳にはこれが至極当然な話のような気がした。日本では日本語を話すし、英語圏では英語を話す。彼には、その国の言語を話すことが礼儀であるように思えた。

 淳は青年の長い英語での説明をぼんやりと聞き流しながら、来週はもっとルカに仏語で話しかけてみようか、などと考えていた。

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