彩夏の相談


 葡萄園のオーナーのアレックスの家は、園のすぐ近くに建っている。大きなその建物は、労働者たちが入居できる別館がふたつ備わっていた。

 別館にはそれぞれベッドが五つずつ並列しており、淳はそのうちの一部屋の一番奥のベッドを当てがわれていた。

 黒い小さなカーテンがそれぞれ天井から吊るされており、僅かなプライバシーが守られている。

 インターネットが本館から届いているため、住み心地は決して悪くなかった。

 現在、労働者は淳の他にルーマニア人、ギリシャ人の二人しか入っておらず、部屋は比較的広く感じられた。

 淳は素早くシャワーを澄ませると、ベッドに寝転がってスマートフォンを手に取る。

 数分もたたないうちに彩夏からラインにメッセージが入った。

『今友達のバッパーにいるんだけど、こない? 淳くんのところからそんなに遠くないよ! あとビールもあるよ!』

『何処?』

 すぐにホステルの場所を示した地図が貼りつけられて返ってきた。確かに、淳のところからそれ程遠くはなかった。

 淳はバックパックを掴むとベッドから起き上がった。

 部屋の真ん中のベッドには、アレクサンドルというルーマニア人が大きな鼾をかいて眠っている。優に百キロは超えているだろう、その巨体が小さなベッドの上で大きく揺れていた。

 入り口近くのベッドでは、エイドリアンというギリシャ人がベッドの上に腰かけてスマートフォンをいじっている。

 淳と目が合うと、口元を緩めて笑顔をつくった。淳は彼とあまり話したことはなかったが、確か年は四十歳くらいで、二千十年からのギリシャ経済危機のためにフランスへ移民してきた、以前そんなことを話していたのを思い出す。淳も笑顔をつくり、軽く会釈をして部屋を出た。


 遠くはないとは言っても、葡萄園の敷地内にある淳の泊まっているアレックスの家からは、街にあるホステルまで徒歩で二十分以上かかった。

 淳は晩御飯をまだ食べていなかったため、すきっ腹には少しきつい散歩だったが、彩夏の『相談』というのが少し気になっていた。

「やっほー!」

 ホステルに着くと、淳の方に向かって手を振っている彩夏の姿が見えた。

 周りには数人の泊り客たちが騒いでいて、中にはアジア人の姿も見えた。そのうちの何人かを、淳は葡萄園で見たことがあった。

「まあ、まずは座って一杯飲んでよ。チップスもあるから適当に食べて」

 ホステルの外に設置されているガーデンテーブルで飲んでいた彩夏は、テーブルの上にいくつか置いてあった缶ビールを淳に勧めた。

 淳は彩夏の向かいに座ると、礼を言って缶ビールを受け取った。銘柄は見たこのないものだった。いつも淳が日本で飲んでいたものよりもアルコール度数が少し高かった。

「お疲れ様ー」

 彩夏の持っていた缶に軽くぶつけて乾杯をすると、淳はグイっと一口飲んだ。よく冷えた液体が勢いよく胃の中に飛び込んできた。そして後頭部を強く刺激した。すぐに酔ってしまうかもしれない、と淳は内心思った。


「で、相談って何?」 

 暫く二人は葡萄園での仕事の話や、日本での話、彩夏の彼氏の話をしながら飲んでいたが、二本目の缶ビールのプルタブを開けるとき、淳の方から切り出した。

 空きっ腹も手伝ってか、予想した通り早くもほろ酔い加減になっていた。

「うん、実はね……」

 彩夏は周囲を軽く見回した後、ゆっくりと口を開いた。

「レオが、しつこいんだよね……」

 葡萄園の主人アレックスには、レオという一人息子がいた。年は確か三十歳くらいで、たまに葡萄園を手伝っているようで、淳も何回か見たことがあった。

「レオって、アレックスの息子の? しつこいって? 誘ってくるってこと?」

 何となく彩夏の言う意味はわかっていたが、淳は念のため確認するように聞いた。

「うん、そう。初めの頃は仏語と英語をミックスして話してくるから、結構おもしろいし勉強になるかなと思って、こっちも話を合わせたりしてたんだけど……最近になって、ドライヴに行かないかとか、一緒にワインでも飲まないかとか、今度パーティがあるんだけど行かないか、って感じで、しつこく誘ってくるんだよね……」

 淳は彩夏を改めて観察した。彼女は背丈は淳より少し低くて小顔でつぶらな瞳、細長い手足にやせ型の身体をしていた。

 単にアジア人女性というだけで、西洋の男性には人気があるのだろうか。淳は、逆に西洋の女性は淳のようなアジア人男性をどう思っているのだろうか、などと考えていた。

「それにね……」

 彩夏の言葉に、淳は思考を一旦停止する。

「なんか、マリファナとかもあるっていってるんだ……でも、日本人はやっちゃいけないよね? 海外でも、何処でも? 淳くん、やったことある?」

「え? ないよ! 別に興味もないし」

「そっか……」

「でも、マリファナとかやばそうだね。強いクスリじゃないって言っても……絶対行かない方がいいと思うよ。でも彼氏は何て言ってるの?」

「え? 彼氏には、まだ話してない……」

「え?」

「あっ、そう言えば、トレーニング期間があるとかって何のこと? 私は初めから普通に支払われてるよ、最低賃金だけど」 

 彩夏は咄嗟に話題を変えると、新しい缶ビールのプルタブを開けた。

 二人とも少し酔ってきたのか、お互い思考よりも先に口だけが動いているような会話になってきている、淳は心の何処かでそう感じていた。

「えっ! オレは、来る前にアレックスの奥さんのクロエとメールでやり取りしてたんだけど、最初の二週間は未経験者は皆『試用期間』ということで、無償で働くって……」

「えー!? 何それー!? うそでしょ? 酷くない? でも絶対何かの間違いだよ! アジア人だからって足元見られてるんじゃない?」 

「え? ……そ、そう、かな? 仏語だったからあんまり自信ないんだよね……明日、クロエにもう一回聞いてみようかな」

「うん、そうしなよ! 絶対何かの間違いだよ! 何ならうちの彼氏に仏語でクロエと話してもらうように頼んであげようか?」

 彩夏のフランス人の彼氏に、淳はまだ一度も会ったことはなかった。

 彼は、レオのことを彼氏に相談する前に、自分に相談してくることに疑問を抱いた。

 同じ日本人だから先に話したのか、それとも余計な心配をかけたくない、という彼氏に対する彩夏の気遣いなのだろうか、淳には全く分からなかった。

 彼はそんな彩夏の彼氏を少し羨ましく思ったと同時に、ふとイングランドで会ったエステルのことを思い出した。

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