青と黒の空
Benedetto
葡萄園
楽しい葡萄摘みのはずが、やたらと急かされる上に、言葉の壁もあるせいで、日本でのバイトよりも精神的にも体力的にもきつい気がした。
淳は心の中で愚痴っていた。
遠くの方から聞こえてくる監督者のルカの怒声を聞きながら、彼は既に汗ばんだシャツの袖で額を拭った。
九月の気温は日中二十五度以上あり、葡萄で重くなったバケツを両手に提げながらの収穫作業。一時間もしないうちに身体中が汗だくになっていた。
淳がこの葡萄園で働き始めて、一週間が過ぎようとしていた。ここでは、就労ビザを持っているものでも、仕事未経験者の場合は、初めの二週間を試用期間として無償で働くことになっていた。
就労ビザを持っているとはいえ、日本での仕事経験も少なく、片言の仏語を話せるだけの日本人の淳が、ここ外フランスで仕事を見つけることは容易ではなかった。何時間も辞書を片手に英語サイトと仏語サイトを調べた結果、いくつかの季節労働者用の農場での仕事を見つけることが出来た。
しかしそこから相手先と、英語と仏語でメールをやり取りをすることだけで時間がかかり、結局仕事が決まる頃までに、ホームステイ先で一ユーロも稼ぐことなく一ヶ月が経過していた。
それ故、ボルドーの近くにあるこの葡萄園での仕事が決まった時は、二週間の試用期間があると知らされても、淳は二つ返事で引き受けると、即日ネットで列車のチケットを予約した。
「急げ! 急げ!」
手を叩きながらルカが激を飛ばす。声が近くなってきた気がした。
「ジョン! 急げ! ジョン! 急げ!」
次の瞬間、声は淳のすぐ後ろから聞こえてきた。
初日からルカは淳のことを『ジョン』と呼んでいた。彼にとっては、ひとりのアジア人労働者の名前なんて、『ジョン』でも『ジュン』でも、きっとどっちでもいいのだろう。初めの頃は、何度も訂正していたが、今では淳の方もどうでも良くなってきて、『ジョン』と呼ばれても返事をしていた。きっと文化が違うんだと、彼は自分に言い聞かせながら。
暫くするとルカの声は遠くなっていった。他の労働者のところへ行ったのだろう。
「ねえねえ、淳くん。今日はえらく速いね」
淳が顔をあげると、反対側の葡萄の房の影から彩夏(あやか)の顔が見えた。
二人一組で三十から五十メートルほどの葡萄のラインを両側から収穫していく。今日のパートナーは同じ日本人の彩夏だった。
彩夏は淳と同じ二十四歳で、東京生まれの東京育ち。今はフランス人の彼氏の実家に泊まっていて、彼氏の紹介でこの葡萄園で淳が来る少し前から働いていた。
年が同い年という点、葡萄園に二人以外に日本人がいないということもあって、自然と淳は彩夏とよく話すようになっていた。
「ルカがうるさいから……」
「えー、ルカ、結構優しくない? おもしろいし」
「何処が? ……やべっ、また来た」
ルカが視界に入ってきたので、淳は目の前の彩夏を置いて、スピードを上げた。
彩夏もスピードを上げて淳についてきた。
「ねえねえ、淳くん、今日仕事のあと時間ある? ちょっと相談があるんだ……」
「え? 何? お金ならないよ。今トレーニング期間中だから……」
「はぁ? 何、トレーニング期間って?」
「え? 知らないの? 最初の二週間は試用期間中だからお金は発生しないって……」
「えー!? 何それ? 知らないよそんなの。私はずっとお金もらってるけど……」
彩夏が高い声を出して驚いた。
「え?」
淳は思わず動きを止めて彩夏の方をみた。その瞬間、収穫したいくつかの葡萄がバケツから零れ落ちてしまった。すぐ近くでルカの気配がした。
「やべっ、話はあとでね」
淳は零れ落ちた葡萄を素早く拾うと、バケツを持ち上げて移動し始めた。
「わかった。後でラインするね」
そこからは二人は、一切喋らずに葡萄摘みという作業だけに集中した。
淳もアイポッドで仏語会話を聞きながら、一定の速度を保った。
ある程度の速度で作業し、誰かと大声でおしゃべりさえしなければ、ルカは何も言ってこない。淳はこの一週間の間にそのことを学んだ。
初日に、淳がルカに仏語で簡単な挨拶をして以来、ルカは仕事のこと以外でも仏語で話しかけてくるようになった。
しかし、淳には彼の仏語が全く理解できず、何度も何度も聞き返した。そのためか、最近ではルカはあまり彼に話しかけてこなくなっていた。
それはつい先週のことなのだが、淳には随分と昔のことのように感じられていた。
ふと見上げた空は、氷のように青く冷ややかな色をしていた。なぜか淳にはそれがとても眩しく見えた。
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