第8話
「……」
何処か遠くから聞こえてくる豆腐屋のラッパ。
空き地で鬼ごっこをして遊ぶ子供達。
バッタがぴょんぴょんと跳ぶ横でアスファルトの熱に焼かれて干からびているミミズ。
家の外に出てから見えるもの、聞こえるもの、匂い、その全ては陸にとっては日常的に感じるものであり、決して特別なものではない。
だが、今の縁果にとって、それらは。
「――――命が、溢れている」
これ以上とないくらい、新鮮なものに感じられたのだ。
「……」
家を出てから五分ほど黙って歩いていた縁果がようやく声を出し、縁果の発した言葉を聞いた陸は小さく頷き。
「まあ、夏だからね」
秋や冬に比べればそりゃあ、虫も多いし、人も外に出ている。と、縁果の言葉を肯定した。
「ああ、いえ、そういうことではなく……!」
だが、その陸の肯定が気に入らなかったのか、縁果は少し声を荒げながら陸の発言を否定し、何かを語ろうとしたが、途中で思い直したのか、縁果は首を横に振り、左手を頬に当て、陸の発言に対し平行線になる言葉を落ち着いた声音で語り始めた。
「……いえ、そうですね。これは貴方にとっての普通の世界。驚くわけがありません。私にとっての普通の世界を貴方が驚いても私が驚かないように」
今、この気持ちを貴方と共有するのは難しい。と、少し残念そうな笑みを縁果は浮かべたが、それは一瞬のことであり、すぐに明るい表情に戻って陸に再び話しかけた。
「そういえば、まだ貴方の名前を伺っていませんでした」
「え? 俺の名前? ……あー、そっか、別世界のロボットだから俺の名前も知らないってことになってるのか」
「はい」
「陸。平原陸だ」
「陸さん、ですね。覚えました。後、陸さんのお姉さんであるこの身体の持ち主のお名前も教えていただけますか?」
「……縁果。平原縁果だ」
「縁果さん、ですか。私の名前、エントと少し似ていますね」
一時とはいえ、勝手に身体をお借りしてしまい、すみません、縁果さん。と、電柱に取り付けられているカーブミラーに映る自分に謝罪する縁果を見て、陸が乾いた笑みを浮かべていると謝罪を終えた縁果が陸へと近づいてきた。
「陸さん、質問ばかりで申し訳ないんですけど、見たところ西暦が上手く進んでいるのはわかるんですが……」
そして、縁果は陸に更なる質問を投げかけようとしたようだったが、縁果は途中で言葉を止め、その視線をたばこ屋の店頭に置かれている平成十年度クジ(復刻版)好評発売中と書かれた旗に向け。
「失礼しました。これは、聞くまでもなくわかりました」
質問する前に一つ疑問が解決したと陸に報告した。
「ああ、そう。えっと、それでどうする姉さ……って、もしかして俺、姉さんって呼ばない方が良かったりする?」
「はい、可能であれば。私が陸さんに姉さんと呼ばれることを縁果さんは好ましく思わない可能性もありますので。私も自分の妹が私以外の機体のことを、姉さん、って呼んだら結構嫌ですから」
「あー、うん。よくわからないけど、わかった。姉さ……君に合わせるよ。それで、俺は君を何と呼べばいい?」
「そうですね……。傑作機、創者の片腕、エント、この中のどれかから選んでください」
「……じゃあ、エントで」
というか、それしか選択肢がないようなものだ。と、自分の姉、縁果を暫くの間、エントと呼ぶことにした陸は練習も兼ねてエントに声を掛けた。
「それで、エント。これからどうする? 久しぶりに本屋とか図書館にでも行く?」
「あ、いえ、今は書物での情報よりもこの辺りを歩いて、この目で色々なものを見てみたいです」
「……そっか。うん、わかった」
そして、本屋や図書館に行くよりも散歩をすることを所望するエントは、ちょっと姉さんっぽくないな。と思いながらも、約二年半ぶりに家を出たんだから、外の空気も吸いたくなるかと結論付けた陸は、エントの散歩に付き合うことにした。
「……?」
それから特にこれといった目的もなく約十分ほど歩き、その間、見慣れている筈の町並みをエントが観光客のように目を輝かせて眺めていたが、エントは急に足を止め、空を見上げた。
「……少しおかしいですね。こんなに日差しが強いのに気温はそんなに高くないような気がします。……何ででしょう? 風が冷たい?」
そして、エントは青空を見ながら、気温が低いことを疑問として口にし、その言葉を聞いた陸は、そんな当たり前の事を何不思議がっているんだ? と、声に出そうとしたが、引き籠もりが長すぎてアレの存在をど忘れしている可能性もあると考え、陸は気温が低い仕組みを説明することにした。
「いや、それは、RACがあるからに決まってるだろ」
「……RAC?」
「ああ、温暖化も激しくなってる今、あれがなかったらこの町になんか住めないって。観光地であるこの町は景観の都合で町の中には置けないけど、町のすぐ外に何台もでかいRACが置かれてるじゃないか」
「大きくて、気温を下げるRAC……。――――って、陸さん、まさかそのRACって、Regional Air Conditionerの略称なのでは……!?」
「うん、そうだよ」
なんだ、しっかり覚えてるじゃないか。と、陸が引き籠もりが長くても姉の記憶力が健在であることにほっとしていると、エントはそんな陸とは対照的な表情を浮かべ、左手を頬に当てた。
「……おかしい、これはおかしいです。一定地域の気温をコントロールできる局地エアコンが作られるのは、どんなに早くても二千四十年以降になるはず……」
「? 何言ってんだ姉……エント。その言葉通り、二千四十年を過ぎているんだからRACがあってもおかしくないだろ」
「……はい?」
そして、今の陸の発言に凄まじい違和感を覚えたエントは、ん、ん、んー? と、唸りながら違和感の正体を見つけ出し、その事を陸に訴えた。
「……待ってください、陸さん。此処はこんなにも平成前半感全開だというのに、この時代はもう二千四十年を過ぎているというのですか?」
「ああ、いうさ。それにここが平成感全開なのも当たり前だって。そういう町なんだからさ」
「……そういう、町?」
と、本気でわからないと訴える姉の目を見て、陸は少し心配に思いながらも。
「ここは――――平成十年町。平成十年前後の町並みを再現した、日本の観光地だ」
陸は平成十年町という、自分たちが住む町の名を言葉にした。
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