第5話

「――――」

 唐突に聞こえ始めた音の正体を確かめるため、陸が振り返ると。

「……」

 縁側に下がっている風鈴が、チリンチリンと綺麗な音を立てていた。

 それは陸が幼い頃、縁日で姉の縁果に買って貰った青色の風鈴であり、風鈴が音を発するのは何もおかしくはなかったが。

「……」

 何か妙な違和感を覚えた陸がその感覚の正体を確かめるため、風鈴に近づき。

「……風、当たってないよな?」

 その事実に気がついた。 

 風鈴は扇風機の風が当たらない位置にあり、外は殆ど風が吹いていないように思えた。

 だというのに、風で鳴る鈴は今も鳴り続けている。その異常な光景を見て、陸は背筋が寒くなったが。

「……こんな真っ昼間から怪奇現象なんか」

 起こるわけがないよな。と、自分が気づいていないだけで、どこからか風が吹いてきていて、その風を受けて鳴っているのだろうと結論付けた陸は、深呼吸をし、心拍数を落ち着かせた。

「さて、ボールペン、ボールペンと」

 そして、本来の目的を果たすために、陸は、ゆっくりと振り返り。


 ――――髪の長い、女の姿を目にした。


「――――」

 音もなく突然茶の間に現れたその女を見て、陸は声にならない悲鳴を上げた。

 幽霊だ。と、陸は思った。

 陸はその女が突然現れたからではなく、女の長い髪の色を見てそう思ったのだ。

 その女の髪は、とても綺麗な白色をしていたのだ。

 色素の薄い白髪や、染髪によって作られた色ではなく、純白としか言い様がないあまりにも美しいその白色がこの世に存在するものとは思えなかったのだ。

 ……この町では、結構こういう話は聞くけれども……!

 まさか、自分が体験することになるとは思わなかった……! と、驚きと恐怖が入り混じった感情を抱きながら、陸はその幽霊らしき人物をしっかりと視認した。

 最初は雪よりも綺麗な髪の色に目が行ってしまっていたが、その存在に足があることを確認した。

 ……足はあるのか。

 そして、着ている服は死に装束ではなく、体操着であり。

 ……ん?

 そこで陸は首を捻った。自分の通う高校の体操着を着ている幽霊ってなんだ? と。

 ……まさか。

 そして、高校を卒業してから高校の体操着を部屋着にしている人物のことを思い出した陸は。

「ね、姉さん……?」

 その人物が幽霊ではなく、自分の姉であることに気づき、困惑した。

 何故なら、陸の姉、縁果は昨日の夜まで黒髪であったからだ。

 縁果は引き籠もりであり、家からは一歩も出ないが、部屋から一歩も出ない生活はしていなかった。

 縁果は普通にトイレに行き、洗面所で歯も磨き、夜遅くか早朝に入浴し、風呂掃除もする。

 そのため、陸は昨日、洗面所から部屋に戻る途中の縁果を目撃していた。

 その時の髪色は子供の頃から変わらない黒であり、絶対に白色ではなかったと陸は断言できた。

「……?」

 悲劇の王妃じゃあるまいし、知らない間に通販で染毛剤でも買ったのだろうか。けれども、急に何故? と、姉の変貌に疑問を抱き、陸は縁果の白髪をずっと眺めていたが、ふと、視線を感じ、僅かに視線を下げると。

「――――」

 陸は、長い前髪に隠れている縁果の瞳が自分を見つめていることに気がついた。

「……!」

 縁果が引き籠もってからの約二年半、こうやって目を合わせることなんて一度もなかったため、陸は軽くパニック状態になり。

「あ、ああ、もしかして、そうめんに浮かべるのみかんよりもさくらんぼの方がよかった? けど、さくらんぼの缶詰はなかったし、フルーツミックスの缶詰の賞味期限までは一年以上もあってさ……。その、ごめん」

 陸はバグった脳で訳のわからない言葉を口にしてしまった。

 ……な、何言ってんだ俺ー……!

 髪の色のこと、茶の間に下りてきてくれたこと、引き籠もりをやめる決心をしたのか等々、聞かなければいけないことは山ほどあるというのに、二年半ぶりに姉と目を合わせたことに緊張して、意味のわからない発言をしてしまった自分の不甲斐なさに陸が地団駄を踏みそうになっていると。

「……」

 陸の様子をじっと見つめ、観察していた縁果が、左手を頬に押し当てながら、少し困ったように。

「……そーめんって、何でしたっけ?」

 陸以上に訳のわからない発言をした。

「……え? ……それってどういう意味……?」

「すみません。前に何処かで聞いた気はするのですが、そーめんは身近にないモノ故、忘れてしまったようです」

「身近にないって……、まあ、確かに久しぶりだったけど……って、もしかして、気づいていない? ガラスの器だから踏んだら危ないと思って部屋から少し離れた場所に置いたんだけど……」

「ガラスの器……あ、水に浮かんでいたあれがそーめんですか」

「そうだよ。今日の昼飯」

「今日の……」

 昼飯? という言葉を最後に、今まで、よくわからない会話ではあったものの、ハキハキと喋っていた縁果が急に言葉を止め、ん、ん、んー? と小さく唸りながら、左手で頬をこねり始めた。

「……?」

 自分の頬を揉むように触る初めて見る姉の動きに陸が困惑している間に、悩み事が解決したのか、縁果は唸ることをやめ。

「あの、昼飯ということは、もしかして、あれ、食事というものなのですか?」

 よくわからない会話を再開した。

「ああ、そうだけど……?」

「……私の食事?」

「うん」

「……えっと、ここに持ってきて食べてもよろしいですか?」

「それは」

 もちろん。と陸が発言するや否や縁果は茶の間を出て行こうとしたが、一度振り返り。

「貴方に色々と話したいことがあるのですが、それは食事をしながらさせて貰いますね」

 と言ってから、縁果は部屋を出た。

「……」

 縁果が階段を上る音を聞きながら、一人茶の間に残された陸は大きく息を吐いてから。

「……話したいことがある、か」

 よし。と、頷き、手を強く握りしめた。

 陸は、縁果の言葉に希望を見出したのだ。

 何で白髪なのか、何で弟に丁寧な言葉を使っているのか等々、疑問は尽きないが、姉が自分の部屋ではなく茶の間で食事を取り、その上、色々話すことがあると言い出した。これは縁果が引き籠もってからの二年半で一度もなかったこと。どういう心境の変化なのかはわからないが、引き籠もりからの卒業の第一歩であることは間違いないと陸は考えたのだ。

 ……止まっていた姉さんの時間が動き出す。

 これはうちにとって、これ以上ないというぐらいの吉兆だ。そう考えた陸はそわそわしながら縁果が茶の間に戻ってくるのを待った。


 そして、それから数分後。陸は、希望というものは、本当にびっくりする程簡単に反転するということを理解するのであった。

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