第4話

「……」

 この少年、高校一年生の平原陸には悩みがあった。彼の通う高校は入学試験に合格した生徒に大学等への進学を目指したいか、卒業後すぐに就職をしたいかを問い、その回答によってその生徒のクラスや授業内容を決める。

 といっても、気持ちや環境が変わった場合、別のコースに変えることは幾らでも可能ではある。ただし、授業などの遅れが生じてしまうため、変更するのなら、早い方がいいと学校側はすすめている。

 ……進学コースから就職コースに変えるなら、就職に有利になる資格を取るための勉強や町の仕事の斡旋あっせん等が本格的に始まる一年の夏休み明けがベストだって、先生言ってたもんなあ……。

「うーん……」

 そして、夏休みに入る直前に相談に乗ってくれた担任の言葉を思い出しながら、陸は唸り声を上げた。

 陸が進学コースから就職コースに変えようとしている理由。それは、一言で言ってしまえば、金銭的な問題である。

 あらゆる面で、非道い、としか表現できない母親が幼い陸達を残し家から出て行った後、父親が一人で会社勤めをしながら陸達を育ててきてくれたが、二年前にミスをした部下の責任を取り、勤めていた会社を退職。その後、会社員時代の半分程度の給料になってしまったが、町のお土産屋に併設されている食事処に再就職した。

 だが、新しい職場での慣れない肉体労働で元々怪しかった腰が壊れてしまい、秋に手術をすることになったのだ。

 そして、手術がうまくいっても半年はまともに歩けないだろうから仕事復帰はだいぶ先になるだろうと医師に言われたのが一週間前であり、陸はそれからずっと悩んでいるのだ。

 自分はこのまま進学コースにいて良いのだろうか。就職コースに変更してバイトも始めるべきなのではないかと。

「……父さんは、何も気にするな、お金は何とかするから。と言ってくれてるけど」

 かなり厳しいよな。と、現時点では衣食住に困ってはいないものの、父親がつけている家計簿の惨状と貯金ゼロの現状を考えると、父親が仕事ができなくなったらすぐに生活が破綻するのは目に見えていた。

 そして、その上、この家庭にはもう一つ大きな問題があった。

 それは。

「……姉さん」

 陸の姉、平原縁果えんかが二年以上引き籠もっているということだ。

 平原縁果は高校卒業後に引き籠もりになった二十歳の女性だ。

 高校時代までの彼女は優等生を絵に描いたような人物で、文武両道、なんでもできる凄まじい才能を持った少女だった。

 無口で無表情なのが災いし、友人は少なかったものの、将来はその才能を遺憾なく発揮し、立派な職業に就くのだろうと陸は疑っていなかった。

 だが、縁果は高校卒業後、受かっていた大学にも行かず、家から一歩も出ない引き籠もりになってしまった。

 引き籠もりになった理由を縁果は一切語らず、父親もあまり追求しなかったため、何故、引き籠もってしまったのかはわかっていない。だが、このままではいけないということは父親も陸もわかっていたため、陸と父親は引き籠もり相談センターに電話をしたり、実際に足を運びもしたものの……。

 ……全然、本気で取り合って貰えなかったんだよな。十年、二十年モノの引き籠もりが増えてきた今の時代、一年や二年程度の引き籠もり、しかも二十歳前後ならどうとでもなる。みたいな空気全開だったもんな。

「……こっちにとってはこれ以上とない危急の話なんだけどな」

 そして、外の人間が頼りにならないとわかったのだから、父が姉に、外に出て大学に行くなり、働くなりしろ! と、怒鳴りつければ良いのに。と、陸は何度か思ったが、父親は人が良すぎるというか臆病な人であるということを理解していたため、実の娘を怒鳴りつけるなんて無理な話であると諦めていた。

 ……まあ、それに関しては父さんばかりを責められないけどな。

 俺も同じだから。と、姉が引き籠もってからの姉に対する自分の接し方は、父親と同じように決して褒められたものではないと陸はある程度自覚していた。

 姉が大事だから、という思いよりも、引き籠もってからの姉は何を考えているのかがわからない。という恐怖に近い感情から、姉を腫れ物に触れるように扱ってきた日々。

「……」

 これが、その報いか。と、陸は進路変更希望書を睨みつけるように見つめてから、静かに目を瞑った。

「……」

 ……俺は姉さんのように何でもできる優秀な人間ではない。人並み以上に勉強したり、トレーニングをすることでようやく結果が出せる普通の人間だ。だからこそ、自分を今以上に鍛えるために進学したいと思っていた。いつか自分が本当にしたいと思った事を見つけた時に、最大限の力を出せるように。

「……けど、俺まで父さんに甘えるわけにはいかないよな」

 身体を壊した父に、これから何年も、もしかしたら何十年も引き籠もりの姉の面倒を見させるわけにはいかない。その役目は俺が働いてするべきだ。そう覚悟を決めた陸はちゃぶ台の上に進路変更希望書を置き、ボールペンを持ってくるために立ち上がった。

 その時。

 その瞬間に。

「――――」

 夏の暑さを和らげる涼しげな音が、陸の耳朶に響いた。

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