ハッピーハローワーク~素敵な私と些末なゴミ達の話~
今野綾子
第1話 ハッピーハローワーク~素敵な私と些末なゴミ達の話~
人生で二回目の殺人は、思いのほかスムーズに済んだ。
大理石の玄関に転がった出来たての死体を見下ろしても、罪悪感など欠片もわかない。バカラに生けた薔薇の香りに血生臭さが混ざる事だけが不愉快だった。
「流石です~。いやあ、二回目ともなれば慣れですか~。あっという間に片付きましたね~」
暗い廊下の奥から、やる気のない拍手が近づいてくる。
私はこのマンションで一人暮らしだ。
そして、来客は今しがた息絶えた。誰もいないはずなのに、今回もこいつはどこからともなくぬるりと姿を現した。
喪服のようなリクルートスーツも、冗談みたいな大きさの丸眼鏡もその中にあるシジミ目も。一直線に揃った前髪も、耳朶あたりで断ち切られたおかっぱも、いつ見ても変わらない。
私は彼女の特徴をそのままに、初めて会った時から『シジミ』と呼んでいた。いささか礼を欠いているかもしれないが、本名が分からないのだから仕方ない。
シジミは『失礼します』と幅のある廊下で私を横切った。物言わぬ死体の隣にしゃがみ込み、掻っ捌いた喉を見てうんうんと頷き『死んでる~。ちゃんと死んでる~』と、嬉しそうに呟く。そうして私の方へぐりん、と首を向けた。
「お疲れ様でした~。あと一人殺せば本採用ですので~、引き続き頑張ってくださ~い。ちなみにお仕事に関して何か希望がありましたら~、試用期間でも遠慮なくどうぞ~。ゲームを勝ち上がった方に望み通りのお仕事を紹介するのが~、私たちハッピーハローワークの務めで~す」
私は首を振った。現状、特に不満はない。『試用期間』とは言え望み通りの仕事と生活を手に入れた。だが失ったものもある。
私の顔には左の頬骨から右側にかけて一文字に抉れた傷がある。このカミソリが付けた傷だ。
「……それ~、気に入っていますか~?」
シジミの視線は手の中のカミソリにあった。にやっと、色も厚みもない唇が歪む。それがまた、どうにも不気味にうつるのだ。
私は質問を無視して、死体の処理について確認した。シジミは機嫌を損ねるでもなく『ご心配なく~。こちらでやりま~す』と答えた。
玄関も綺麗にしておいて。臭いがひどくて『業務』に支障が出る。
そう言い残して洗面所へと向かった。さっきまで暗く澱んでいたはずの廊下に西日が射していた。ブラインドを下ろし忘れていたのか。眩しさに顔を顰める。
禍々しい赤。
橙色の混じるそれは炎にも似ていたし、行き交う雲の狭間で揺れる様は飛び散る鮮血のようでもあった。
私は夕焼けが嫌いだ。
あの時のひどく惨めな生活を思い出させるからだ。
あんな生活に戻るくらいならどんな事だってするつもりだし、そのための努力は惜しまない。
カミソリを握る手に、力がこもった。
***
忌々しい程の赤い夕陽を、私は睨みつけた。
幹線道路が近いせいか、パトカーや救急車のサイレンが喧しいほどよく響く。
そんな中、ガードレールに腰を預け腕を組み、トラックから次々と運び込まれる家具や段ボールをぼんやりと眺めていた。どうにも手持無沙汰で、クラッチバックに突っ込んでいた最後のピアニッシモに火をつける。
路上喫煙禁止区域。そんな言葉が浮かんだけれど、向かいの歩道には煙草屋がある。外に灰皿があるのもしっかり見えた。吸っていいと判断し、深く煙を吸い込んだ。ふわりと上がる白が、不気味な赤を少しだけ遮ってくれた。
三十を二年過ぎたつい先日。私は会社を辞めた。
表向きは自己都合退社、という扱いだが、実情は追い出されたようなものだ。
――パワハラ。
その濡れ衣を着せられた私は、花形の部署から閑職へと回された。
社内ニート、肥溜めと噂される部署の椅子に座るなんて耐えられるはずもなく、退職という手段で地獄から抜け出すことを決意した。
私を認めない会社なんていらない。こっちから、捨ててやる。
十年勤めた結果は、散々なものだった。
しかし勢いで辞めたは良いものの、次の仕事は決まっていない。
退職金は住民税の先払いでほとんど消えた。しかし、収入はなくてもカードの支払いはやってくる。貯金は無いに等しかった。毎月のコスメや美容院、エステ、服や靴。身だしなみに気を配っていれば貯蓄に回す余裕はない。けれどそれは必要経費だ。私は私に相応しいものを身に着けていた。ただ、それにはほんの少しお金がかかるというだけで。
しかし先立つものものなく仕事を辞めた以上は切り詰めなければいけない。結局、元居た部屋は引き払う事になった。
いつもなら捨てる短さのピアニッシモを火傷しない様に慎重に吸った。
失業保険が下りるのは三か月後。それまでに仕事を決めなければ……。いや、きっと決まる。スキルも経歴も申し分ないのだ。どこの会社だって私を欲しがるに決まっている。だが、金がないという現実は漠然とした不安を生むのには充分だった。
ピアニッシモはもう限界だった。名残惜しいが、暫くは禁煙。吸い殻はきちんと自分で処分する。私は、まともな人間だからだ。携帯用灰皿にぐちゃぐちゃにたばこを押しつぶした。
引っ越し業者のトラックを見送り、新居のドアを開けると、暗澹たる気分になった。
築二十年。辛うじて、風呂とトイレは別の1K8畳駅徒歩ニ十分。
呪いのような文言だ。こんな条件を飲まざる負えない現実を恨んだ。
段ボールがぎっしりと詰め込まれた部屋はただの倉庫だった。
昨年リフォームしたばかりだと不動産屋は言っていたが、建物全体に染み付いた生活臭は消えていない。フローリングの下には見知らぬ人間の足跡、手垢がべったりとこびりついているように感じられた。
完全な都落ちだ。
幼い頃、散々嫌悪していたあの古いアパートに逆戻りしてしまった。
二階の窓から見えるゴミゴミとした街の景色が、伏せていた記憶の一部とリンクした。
2DKに一家三人で暮らしていた日々。狭いアパートにはプライバシーなど存在しなくて、子供ながらに持ち家に住んでいる子がうらやましかった。
彼女たちはみんな可愛い家具やゲームや本に囲まれて暮らしていた。週末には父親の車で買い物に出かけ、新しい服や靴を買ってもらったのだと自慢し合っていた。私はグループの片隅で従姉妹に着古されたトレーナーの裾を握り、それらを眺めていた。
うらやましかった。
可愛い服が欲しい。一人部屋が欲しい。布団じゃなくてベッドで眠りたい。
ボロアパートに住むしかない経済力の家庭でそんな要望が通るはずもなく、しかし母が私に惜しまなく投資したのは勉強に関してだった。書道教室、そろばん、学習塾、水泳。
努力でどうにかなるものに対して、母親はとにかく必死だった。幸いにも私は頭の出来が良く、成績は常に上位だった。絵画や書道、読書感想文。獲れる賞という賞は狙い、もぎ取り、やがて私もそれらが一人部屋や、流行りの服に勝る唯一の武器だと理解し、自信に変わっていった。
そうして、頑張って、努力して、勉強して。都内有数の公立進学校に入り、国立大学に入学。その後一流企業に入り、業務でも成績を残し、上の人間に気に入られるようにし、下の連中は私の足手まといにならないよう教育してやった。
私は頑張った。間違った事は何一つしていない。
それなのに。なんで、こんな事に――。
後悔よりも怒りが勝っていた。こんな理不尽が許されていいはずがない。絶対に前よりも良い仕事について、良い給料をもらって、良いものを身に着けて、良い生活をしてやる。今は我慢の時だ。長い人生、こういう時もある。最終的に勝てばいいのだ。
大丈夫。きっとうまくいく。今までだって努力し結果を出してきた。私はこんな逆境に負けない。言い聞かせ気分をおちつけた。
最低限の荷解きを済ませた頃には外はすっかり暗くなっていた。そして、空腹に気付く。
コンビニは目と鼻の先。もう少し歩けばファミレスがある。問題は、金。分厚い万札と引き換えに手に入れたブランド財布の中身は寂しいものだった。私はファミレスへ行くことにした。かまわない。こんなゴチャゴチャした部屋でコンビニ飯なんて惨めすぎる。
アルバイトらしい若い子が『おひとり様でよろしかったでしょうか?』と間違った日本語で出迎える。こういう小さな間違いは私の心をいつもイライラさせた。
平日の午後9時。店内は比較的空いていた。
それにも関わらず、乳飲み子を抱えた母親たちが雑談をしている。ドリンクバー付近では躾のされていない子供たちが行儀悪く遊んでいた。
私は日本語の不自由な店員に喫煙席で、と告げた。子連れの喧騒から少しでも離れたかった。
空のピアニッシモを免罪符のようにテーブルに置き、使う予定のない灰皿は端に寄せた。グラスワインの白とサイドメニューを適当に頼む。ほどなくして写真よりも若干崩れた料理が並ぶ。期待していなかったせいか、ワインはそれほど悪くなく思えた。よく冷えていたし、味の濃い料理にも負けていない。伝票を見ると千円もいっていなかった。
へえ、と少しだけいい気分になった。
喫煙席なら子供の泣き声も聞こえないし、会社帰りの客が一人、二人でゆっくりと食事をとっているだけで雰囲気は比較的落ち着いている。なるほど、こういうのも悪くないかもしれない。しかし平穏は長くは続かなかった。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
店員の声が聞こえた。私は食事を続けながら視線だけやった。
「見りゃ分かるだろ二人だよ。喫煙席」
グラスを傾ける手が止まった。
TPOを弁えない大声で会話を続ける横柄な男達は二十代後半、二人連れ。奴らは私の斜め向かいの席にどっかりとかけた。アルバイトの女の子が萎縮しながら水を並べている間に、遠慮も配慮もなしに矢継ぎ早にオーダーをする。
「とりあえず生二つ。それからこれ、グリル盛り合わせとあとシーザーサラダ。玉ねぎ抜いて。急いで」
「おねーさん、大至急だよ、大至急!」
「お前、それ今日の課長のマネじゃねえか!」
女の子はおろおろしながら間違えのないよう確認をとる。しかし。
「一回言えばわかんだろ。ったく頭わりーなー」
頭が悪いのはどっちだ。奥歯で思い切りピクルスを噛んだ。
私は、あのくらいの歳の男が大嫌いだった。中途半端に社歴が付き、仕事ができると勘違いし、周りのフォローにも気づかないまま新人に偉そうに振舞う害悪――。
だから、その間違いを徹底して叩いてやった。
先に入社した分、新人よりも仕事ができるのは当然だ。できなかったらそれはただのバカ。いや、むしろお前は仕事ができない。できないんだから勉強しろ、覚えろ。業務が終わるまで帰れると思うな。
結果的に"その後輩"の業績は一時的に伸びた。私は指導係として評価され、部長直々にこれからもよろしくと更なる面倒を押し付けられた。
一度、おせっかいな同期がパワハラになるから、と指導について口を挟んできたが猿に延々と言葉で伝えても意味がない。それと一緒だ。私の指導は適切だった。絶対に、間違っていない。
アルコールで熱くなっていた胃袋の底が、燃えるように熱を持つのが分かった。息苦しいくらいの怒りに喉が詰まる。
「マジだりーよなー。あのババア、こんな時間まで残業させるとか死んでくれねえかなあ」
よれよれのワイシャツ姿が肩をすくめた。
「今度人事にメールしてみるか。これであのババアの首が飛んだら笑えるよな。ほんと三十路過ぎた独身は扱いづれーわ」
「扱いと言えばさあ、●病院のN科。あそこのセンセイが癖強すぎてほんとしんどいんだよ。ちょっと機材に傷がついてただけで大クレームでババアからは始末書命令だろ? 沸点どんだけ低いんだよな。あいつら脳みそ検査した方がいいんじゃねえの」
「MRIもあるし?」
「そ、MRIもあるし」
笑い声はさっきよりも大きくなっていた。
声帯に拡声器でもついているのだろうか。迷惑と言う概念はないのだろうか。守秘義務、という言葉は?
聞きたくない会話のおかげで奴らが医療関係の営業職で、ついでにどこの病院に出入りしているか分かってしまった。
食事を終えたのか、我慢の限界に達したのか、数人の客が席を立った。私もレジの様子を見て伝票をつまんで続く。帰ろう。
席を立った時、猿の片方の荷物が半分ほど通路にはみ出ていた。椅子に置くという知性も、周りの人間がそれにつまずいたら、という想像力すらないらしい。私はお気に入りのパンプスで汚れたナイロンを踏みつけてやった。
なにすんだよ! と叫んだのを背中で聞いたが無視した。会計を済ませてさっさと店を出る。夜風が温い。
程よく酔った頭で、明日のスケジュールを考える。部屋の片づけ、ハローワークで失業保険の手続きに、それから転職エージェントとの面会。でもまずは――。
やる事が決まった。さあ、帰ってシャワーを浴びて眠ろう。
往路とは違う反転した景色の中を歩いていると、一軒の美容院が目に入った。いや、これは、床屋だ。行きには気づかなかったその店は美容院と見紛うような洒落た外観をしていた。だが、ガラスの向こう、店内にはしっかりとトリコロールの看板がしまってある。
ふうん、と店内を覗き込んで私はその場を後にしようとした。理容室には用はない。けれど、一枚の広告が私の足を止めた。
―レディスシェービング・エステ フルコース四千円
二度見した。嘘みたいな値段だ。
顔剃りのエステは何度も受けたけれど、私の通っていたサロンはどこも倍以上の値段がした。そっと指先で頬をなぞった。ストレスが重なったせいか、小さな吹き出物やざらつきが目立つ。そう言えば煙草の量も増えていたっけ。ピアニッシモの空箱を忘れてきた事をそのとき思い出す。
いや、いい。肌のメンテナンスをするならエステに行く。けれどその金が今はなかった。金の事を考えるとどろりとした不安が込み上がる。大丈夫。私は、私なら、きっとすぐにまともな仕事につける。言い聞かせてもガラスに映った女の目は不気味に窪んでいた。
逃げるように部屋に戻り、嫌な汗を流し布団に潜り込んだ。
なかなか寝付けない、長い夜だった。
翌朝、簡単な朝食を済ませ、ケトルで沸かしたお湯でコーヒーを淹れた。それから、昨日から決めていた『朝、一番にやる事』を実行に移した。まずは雄猿二匹の会社へのクレーム。
社員二匹、もとい二名が飲食店内で大声で業務内容を話していた事をカスタマーセンターにメールしてから、ついでに電話もいれる。
お忙しい所恐れ入ります。御社の社員さん、〇課のBさんとKさんという男性社員なんですけれど。××駅近辺のファミリーレストランで大きな声で会社や取引先の悪口を言ってましたよ。それから、店員への態度も高圧的で、可哀想にアルバイトの女の子、すっかり萎縮していました。お取引先の●病院についても散々な言いようでした。ええ。丸聞こえでしたから。御社では新人含めもう一度守秘義務について研修などをされた方がよいのではないでしょうか? 上司の方への悪口も、聞くに耐えませんでした。どうぞ今後は社員の教育に尽力して下さいね。
次は取引先の病院だ。
もしもし? ●大学付属病院のN科ですか? ★社のBさんとKさんがファミリーレストランで大声でそちらとの取引内容についてお話されてました。内容が丸聞こえで、ええそうです。××駅付近のファミレスです。はい。昨日です。担当されてる先生のお名前も、よく無い話もしっかり聞こえました。はい、はい。いえ。クレームというか、そう言った連絡があったというだけで。はい。では失礼します。
携帯を切り、達成感に浸った。
正しい行いをすると、とても気分がいい。私はまともだ。悪い事には毅然と立ち向かうし、それに対して適切な処分が下るよう働きかける。
さてと、今日も部屋の片づけだ。それが終わったらハローワークへ行って失業保険の手続き。そして、転職エージェントとの顔合わせ。
忙しい一日になる。
お気に入りのスーツたちは皺にならないように早々にラックに掛けてあった。どのインナーを着ていこうか。メイク用品はどこにしまったっけ。コーディネーターにとにかく良い印象を持たせるため、私は最もふさわしい装いを段ボールから漁った。
電車を乗り継ぎ、賑わう駅前を抜ける。数日ぶりのメイクとお気に入りの服でピカピカの街を歩くのは気分が良かった。だが、人混みから遠ざかり目的地であるハローワークに着いた頃には、気分はすっかり萎えてしまった。
古い学校をそのまま居抜きしたような建物は、異様な仄暗さを湛えていた。出入りする人間も皆どこか俯き加減で、無表情。不景気のせいか通い慣れているらしく足どりだけが迷いがない。
嫌な場所だ。一瞬で、私はそう判断した。だが、手続きをしないわけにもいかない。さっさと終わらせてここから出よう。
不親切な案内に迷いながら順番待ちの札を引いた。カウンターに並ぶ数字を確認した。そして、絶望。私の出番はまだだいぶ先のようだ。混み合った長椅子の一角に腰掛ける。あまり遅くなるようなら出直そう。暇潰しに持ってきた短編集を三話読み終えても私の番はまだこない。『次にお呼びします』の番号から、十の位どころか一の位もまともに動かない。窓口を占領するメンバーも変わった様子はなかった。
ため息交じりにトイレに行き、自動販売機でコーヒーを買った。併設された喫煙ブースにはくたくたの服を着た様々な年齢の男たちが煙草を片手に何やらだべっていた。
うだつの上がらない容貌の男達を見て誰かに似ていると思った。
私の父親はかろうじて有名私大を卒業した田舎者だ。
知識はあっても知恵はない、典型的な『勉強ができるだけ』のタイプ。
卒業後は不安定な職を転々としていて、結婚前に貯めた貯金は生活費に食い潰されたと酔っぱらった母が一度だけ愚痴っていた。
母は6人兄弟の真ん中という実に損なポジションに生まれついてしまった。中学校を卒業してすぐに就職し、夜間高校を卒業。多分、学歴も贅沢も母のコンプレックスだったのだ。
頑張れば報われる。努力すれば、学歴があれば、いい職に就けば。
そんな彼女のどうにもならなかった生まれに対する後悔と嫉妬を、無意識に受け止めていたのかもしれない。
やがて私も年を重ね、両親の事を俯瞰して見るようになる。
父の良い所は学歴を積んだその一点で、失敗はそれが身にならなかったこと。母の失敗は生まれた場所で、彼女の良い所は這い上がろうと努力したところ。私は両親を文字通り反面教師にした。
都立で有数の進学校を出ても、国立大学に入っても、一流企業に内定が決まっても、それらを決してゴールにはしなかった。一流の場所で埋もれるのは、努力の足らないただのクズだ。社会は、世間は、常に結果を求めている。
だから必死で頑張ったのに。結果、今、私がいるのはどこだ?
空の缶を投げ捨てた。
今、両親が生きていなくて心からよかったと思った。
薄暗い階段を上ってまた、あの空気の重い待合室へ戻ろうとした、その時だった。
「あの~、ちょっといいですか~?」
甲高い間抜けな声が聞こえた。
「あ~、そこのお姉さん、あなたですよ~。無視しないでください~。番号札、三十八番の方ですよね~? ご案内しますのでこちらへどうぞ~」
番号札、三十八。私?
振り向くとひどい童顔の。いや、年齢不詳の小柄な女がいた。
定規で揃えたような前髪と、耳朶のラインに合わせて切ったおかっぱ頭。何よりも強烈に印象に残ったのは不自然に小さい顔のパーツを強調する、冗談みたいに丸い大きな眼鏡。その奥で、シジミのような小さな目が笑っている。着ているのはどこにでもあるリクルートスーツなのに、纏う雰囲気のせいか喪服のようにも見えた。
私は遠慮なくまじまじと彼女を見た。一応、身分証はぶら下げている。だが、こんなものはいくらでも偽造できる。新手の詐欺か? 遠慮なく不審な眼差しを向けても、シジミ目の女はへらへらと笑っているだけだ。
私は女を無視してピンヒールで階段を踏んだ。すると、ジャケットを掴まれ、後ろにのけぞってしまう。何をするのかと声を荒げたがシジミはしつこかった。
「詐欺とかじゃないですよ~! ほら、職員証~! これ見てください~。ね~? 私、ここの職員なんです~!」
信じてくださいよ~。と首からぶら下げた社員証を見せた。私はわざとそれを手に取りしげしげと眺めた。名前、部署、それから、女の名前。偽造にしてはよくできているし、本物にしてはしかし怪しい。
「ここで立ち話もなんですから~、あっちのブースに行きましょう~」
女の手が触れた。その瞬間、思わず喉から悲鳴が漏れる。私は反射的に振りほどいた。白骨みたいに細い手が、恐ろしく冷たかったのだ。
気にした様子もなくシジミは私をみてにいっと笑っている。そして冷たい手がまたジャケットを掴む。非力な手だが、放すつもりはなさそうだ。折れたのは私のほうだった。
ここには失業保険の手続きにきただけなのだ。あの進み具合では間に合いそうにない。出来れば今日中に済ませたい。こんなところ何度も来るのはごめんだ。
私はシジミについていくことにした。
広く古い建物の中をシジミは迷う事なく足を進める。人気のない会議室のような場所に案内され、どうぞ、と座るよう促された。言われるままにパイプ椅子に掛ける。さっさと終わらせよう。バッグから取り出した書類一式を渡そうとした、その時。
「それではお仕事を紹介しますね~」
は? 私は思い切り顔を顰めた。失業保険の手続きに来たのであって、求職が目的ではない。しかしシジミはニコニコと表情を崩さず『はい~、そちらの手続きもします~。でも~、お仕事も紹介しますよ~』と繰り返し、挙句、書類をひったくった。くそ、これじゃあ逃げる事もできない。
「とってもいい案件なんです~。ご紹介できる方は限られていますし~、試用から本採用に移るまでの条件が他社さんと比べて特殊なんですが~、きっとあなたのような経歴の持ち主ならうまくいくかと思います~」
もういい。なんでもいいからさっさと話を進めろ。
目を細め促すとシジミは頷き身を乗り出す。色も厚みも無い唇に白骨の指を立てた。
「これからあなたを殺しにくる人がいます~。なので~、その人を殺してください~。そうすれば採用です~」
は? 二重がめり込む程目が開く。言っている意味が、まったく分からなかった。
「ですから~、ある人が~、あなたを殺しにくるんです~。なので~、あなたはその人を殺してください~。そうすれば望むままのお仕事につけます~。それが私達ハッピーハローワークのお仕事紹介~! どこよりも素敵な夢のようなお仕事につけますよ~」
ハッピーハローワーク? ばかにしてんのか? なんだその名前。どこの部署だ。揺れる職員証をもう一度確かめようとしたが、なぜか文字がかすんで見えない。さっきははっきり見えた名前も、部署も、モザイクが掛かったように読み取れない。なに? どういうことだ?
私の戸惑いや質問を無視してシジミは狭いテーブルにさらに身を乗り出した。
「大事なのは次です~。あなたを殺しに来る人は~、現在『お仕事』についています~。と言っても試用期間です~。この案件は条件が良くてとっても人気なので~、基本的に空きがありませんし~、そもそも非公開求人です~。僭越ながら私共が“この人なら”と言う方をピックアップしてご紹介しております~」
多分、その時の私は人生で一番間抜けな顔をしていただろう。お堅いはずのお役所で、こんな現実離れした話を聞かされているのだ。やっぱり、詐欺か、何かの悪戯か。だが、シジミの目はどこまでも真剣だった。
「試用期間の半年の間に特定の人間を殺せば~、本採用になります~。お仕事の内容は人それぞれ~、望むままのものをご提案できます~。報酬や福利厚生~、勤務形態もそうです~。つまり~、理想通りの幸せを保証する仕事です~。リスクはありますが~、間違いなくあなたの人生を豊かに~、満足させてくれます~。これが、ハッピーハローワーク~! さて~、ここまでで何か質問はありますか~?」
質問も何もない。バカらしい話だ。私は頷きもしなかった。シジミは白い掌をパン! と叩いた。
「わ~、すごい~! 理解が早くて助かります~! 高学歴の人って本当に頭がいいんですねえ~。中には勉強しかできないバカもいましたけど~。あ~話がそれました~。ええっと~。そうですそうです~、あなたを殺しに来る人です~。その人は現在試用期間の5か月目ですね~。あ~、ちょっと切羽詰まってるかなあ~。で~、その人があなたを無事に殺す事ができたら本採用~。あなたが返り討ちにしてやっつける事ができれば今度はあなたが試用期間に移ります~。こんな流れです~。では~、頑張ってください~」
アホくさい。なぜ私が殺される必要があるのか。そもそも話が一方的すぎる。万が一、いや、億が一本当だとしてもそんなバカな話を引き受けるはずがない。しかしシジミは首を横に振る。
「不可です~無理です~。既にこの試用期間の人間はあなたをターゲットとして動いているので~。分かりますか~? あなたを恨んでいる人間がいるんです~。そして確かな殺意を持っている~。一抜けた~、なんてできませんよ~」
はあ? と三度目。鼻と目頭がひくついた。どんな理屈だ、それは。
「人間~、どんなに綺麗に生きてても誰かしらには恨まれてます~。つまり~、恨みが恨みを呼んで幸せを奪い合うような図ですね~。あなたを恨んでいる人がいるから~、チャンスが回ってきた~。正に逆境こそチャンス~! よかったですね~」
深夜の通販番組のようなテンションは、現実離れしていた。
ひょっとしたら夢でも見ているのかとこっそりと机の下で太腿をつねった。痛い。作り話にしては物騒だし、やたらと設定が凝っている。それならと私は初めてシジミに質問した。
誰が私を殺そうと言うのか。私はそいつを知っているのか。そして、そいつは私とどこで知り合ったのか。
「いい質問ですね~。あなたを殺す人はあなたのお名前しか知りませ~ん。あなたの顔も~、どこに住んでいるかも~分からないんです~。ちなみに恨まれる理由についても~、誰が殺しに来るかも個人情報ですので教えられません~。どちらも会ってからのお楽しみですね~」
さて、とシジミはまた手を叩いた。
「とりあえずこんな感じです~。今月いっぱい逃げ切ればあなたの勝ちです~。今まで無事で良かったですね~! ああ~でも残念ですが期間内のギブアップはできません~。時々自殺される方もいますが~、さすがにそこまでは止めませんけど~。短い期間ですが~、スリリングな生活をお楽しみください~」
そうして、シジミは立ち上がった。
「あなた様のご活躍をお祈りいたします。そうそう~失業保険の手続きですよね~。ちゃちゃっと済ませてきますので~、しばらくお待ちください~」
シジミはひったくったファイルを抱え、部屋を出て行った。少し待つと、別の職員から必要書類を渡され私の失業手続きはものの5分で終わった。シジミは、それっきり戻ってこなかった。職員にシジミの事を聞こうとしたが、なぜか言葉が出なかった。狐につままれた。そんな言葉が浮かびながら私はハローワークを後にした。
時計を見たらまだ十一時前。エージェントと会うのは青山だ。ちょっと気の利いたランチでもとって、気分を変えよう。
財布の中身はもう気にしないことにした。
悩んだって三か月後には金は入ってくるし、それよりも先に絶対に仕事は決まる。決まらないはずがない。
――あなたを殺しに来る人がいます~。
あんな話を信じる気にはならなかった。恨まれる覚えなんてない。私は正しく生きてきた。頭のおかしい職員に捕まってアホな話を聞かされた。それだけだ。手続きが無事に済んだのならもうなんの問題もない。
――1ヶ月間逃げ切れたら~、お仕事はあなたのものです~。
馬鹿馬鹿しい。自力でさっさと新しい仕事についてやるわよ。私の経歴ならすぐにだって仕事は見つかる。大丈夫、学歴も実力も非の打ちどころはない。
私は、まともな人間なのだから。
しかし、その日の面談の結果はどうにも振るわないものだった。
エージェントはまるで腫物に触れるかのように言葉を濁しながら、微妙なラインの求人ばかり紹介してくる。私が断るような雇用条件、年収、待遇ばかり。酷いものになると、希望年収の半分以下。その他の待遇、条件も悪く私はそれらを丸めてゴミ箱に投げ捨てたい衝動に駆られた。
ハローワークのあの応接ブースよりもずっとラグジュアリーな個室で、ひどくイライラしていた。
そうして、もう一度自分の持っている資格や前職での経験などを切々とアピールし、それに見合う会社を紹介するよう求めた。そもそも、紹介される案件は経歴とかすりもしない。
すると、担当者は言いずらそうに「退職理由が……」とうつむいた。
ああ、そういう事。
この業界は広いようで狭い。悪事千里を走る。つまり、私もそうなのだ。事実はどうあれ、パワハラの濡れ衣を着せられ退職に追い込まれた。そのせいでブラックリストに載った。そうとしか考えられない。
もうあんたの所には頼まない。立ち上がり言い捨てると男は言った。
「どこへ行っても、同じだと思いますよ……」
エージェントが絶対に言ってはいけないセリフだ。分かっていたのか口をついた後、はっと男は手で口を覆った。私はそれをじっと見つめた。言い返したくても、何も言えなかった。
家に帰ってからシャワーを浴び、段ボールをテーブルに替わりに缶ビールを開けた。部屋の片づけをするような気分になどとてもなれなかった。惨めだった。自分の価値を、存在を、それまでの人生を全て否定された。
気が付けば奥歯を噛んでいた。アルコールのせいか、身体がカッカと熱くなる。明日はまた別のエージェントと会う。大丈夫、今度こそ良い仕事に出会える。私は何も悪い事なんてしていない。こんな理不尽な目に会っていいはずがない。
残りの酒を飲み干し、朝から敷きっぱなしの布団に潜り込んだ。
それから、地獄の日々が始まった。
いくつもの転職サイト、派遣会社にまで登録した。面談もこなし、面接までこぎつけた企業もあったけれど色よい返事は一向にやってこなかった。
条件は落としたくない。自分の価値を自ら否定するようなものだ。
突きつけられる現実とプライドの狭間で心がぐちゃぐちゃになっていく。帰り道、電車の中で何社目かの面接の結果が届いた。そのメールを見た瞬間、ぷつん、と自分の中で何かが切れた。
無職でいることのへ不安、自分を否定されたも同然の不採用通知。
ストレスの限界だった。
私は電車を途中で降り、胸を掻きむしる思いで百貨店に立ち寄った。
ちょうど季節の変わり目。シーズンの新作でも見て回ろう。美しいものを見れば、少しは心が満たされるかもしれない。その考えが悪かった。
低層階に入っているブランドの店頭ではポーズを決めて全身を美しく着飾ったマネキンが出迎えてくれた。
デザイナー渾身のアイテムで満ちた店内は私の心を落ち着かせ、そしてそれ以上にかき乱してくれた。
欲しい。バッグも、ドレスも、靴も。店の中にあるどれもが異常なまでに私の購買欲をかき立てた。でも今は先立つものがない。しかし―。
気が付けば会計を済ませ、仰々しいショッパーを肩にかけていた。心が躍りだす。こんな気分は久しぶりだった。熱に浮かされたようにまた別の店に入った。惹かれるまま服を試着し、靴を試し、バッグを合わせる。会計を繰り返し、二つ、三つと荷物が増えていく。
次々とブランドの看板を潜り、最後に向かったのはコスメのフロアだった。美しく自信に満ちた美容部員たちにタッチアップしてもらうと、たちまちそのどれもが欲しくなる。ファンデーション、リップ、アイシャドウ。服と同じで季節に合わせて色味も変えていかなければ。そうだ、転職活動をしていく上で、身だしなみを整える事は当然。
ハイブランドのタグは背筋を伸ばしてくれたし、高価なコスメは美しさを作ってくれた。
負けるのが嫌だった。仕事も、見た目も誰よりもまともできちんとしていなければ。子供の頃、色あせたトレーナーやくたくたのズボンできらびやかなクラスメイトを見つめる事しかできなかった私とは違うのだ。大量の戦利品を担いで歩く街並みは、やたらと煌めいて見えた。
しかし、うきうきとした気分は再び電車に揺られるとしなびていき、改札を出る頃には後悔へと変わっていた。
こんなにひどい散財は、生まれて初めてだった。
アパートまでの帰り道をとぼとぼと歩く。疲労よりも両手にぶら下がった紙袋が重たかった。カードの引き落としはいつだろう。その頃に金は入るだろうか。そんな事を考えながらのろのろと歩いていると、くるくる回るトリコロールカラーが目に入った。
引っ越した最初の晩に見つけた理容室。そう言えば、ここはエステもやっているんだっけ。吸い寄せられるように店の前に立った。手書きのポスターは変わらず貼ってある。
――レディスシェービング、エステコース。四千円。
とたんに、化粧がどろりと溶けるような気持ち悪さを覚えた。やっていきたい。鎮火していたはずの欲求がまた火を噴いた。ここまできたら、数千円など誤差みたいなものだ。やけくそになって店に入った。美容室とは違う、気取らない石鹸の匂いが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
顔の半分をマスクで覆った男だった。彫刻刀で掘ったような深い二重と、くっきりとした眉が、伸びすぎた前髪に隠れていた。
私は表の張り紙を見た事とエステコースができるかと尋ねた。理容室に入るのは初めてだったし、予約もなしにサロンに来るのも初めてだった。マスクはすぐご案内できますと客商売特有の作り笑いを浮かべた。私は鉛のように重い紙袋と突き返された職務経歴書の入ったバッグを渡した。
「こちらへどうぞ」
案内されたのはピンク色のカーテンの奥の席だった。無骨な黒い椅子には、同じくピンク色のカバーがかかっていた。アロマだろうか。独特の肩の力が抜けていくような香りは、私の強張った心を撫で解してくれた。鏡の中の自分はひどく疲れた顔をしている。
小さくため息を吐くと、マスクの男は恭しく頭を下げ、バインダーを差し出した。
「こちらカウンセリングシートになります。お名前、ご住所、生年月日、その他の項目をご記入ください。お飲み物は何になさいますか?」
サービスのアイスティーを半分程飲んだ所で、私がペンを置いたのを見計らいマスクの男が戻ってきた。簡単なカウンセリングの後、マッサージが始まる。
カーテンのせいだろうか。個室のような安心感と、独特の声のトーン、それから硬くなっていた肩や首がほぐれていく心地よさから私はうっとりと目をつむった。
やがて顔に塗られる滑らかなクリームが脂混じりのメイクを落としていく。頬やティーゾーン、フェイスラインを念入りに指が滑り、マッサージ共に美容液が肌に染み込む。ああ、気持がちいい。温かいタオルで顔を覆われる。ふんわりと毛穴が開いていくのがわかる。
「それでは、お顔にカミソリを当てていきますね」
すうっと、冷たいものが頬をなぞる。
凶器を当てられているというのに、油断しきった私はそれから施術が終わるまですっかり寝いってしまった。
***
一時的に肌の美しさを取り戻しても、仕事は一向に決まらなかった。
流石に、焦りがでてきた。転職活動には金がかかる。交通費や外での食事代。小さな出費でも積もり積もれば額はいく。財布の金も口座の金も減っていく。クレジットカードの支払い額は恐ろしくて確認できない。
なんでこんなに仕事が決まらないんだ。焦るほど悪い方に転がり落ちていく気がした。いっそ消費者金融で借金をしてしのごうか。三か月どうにか耐えれば失業保険は入ってくる……。
百円均一とコンビニが一緒くたになった店で、鮮度の悪いフルーツを片手にため息をついた。
ストレスと深酒が続くせいで肌はまた荒れてきた。サプリを買う金もないからせめてフルーツを、それからカット野菜とヨーグルトをカゴに放り込む。総菜パンがごちゃごちゃに並んだ棚を眺め、こんな所で買い物をしている自分がひどく惨めでしかたなかった。早く、以前の生活に戻りたい。
よろよろとレジに向かう途中、男の声を聞いた。
「あの、」
それは、ありふれた苗字だった。こんな所に知り合いはいないし、まさか自分のこととは思わず。しかし男の声はまた同じ名前を呼んだ。私か? 振り向くと、顔半分をマスクで隠した男が愛想のいい微笑みを浮かべていた。
「急に呼び止めてすみません。先日お越しいただいた理髪店の……えっと、シェービングを担当させてもらった……覚えてますか?」
しどろもどろになりながら自己紹介をされる。ああ、あの理容室の。
「職業柄お客様の顔と名前を覚えるのは得意でして……それに、お綺麗な方でしたから。すみません、外でお声がけするのは、本当はルール違反なんですけど」
久しぶりに聴いた賛辞は私の煤けた気分を払ってくれた。
男は術後の経過や肌の調子を尋ねてきた。私はそれらに悪くなかった、と答えると彼は安心したようにうなずいた。
「うちはエステのみのコースも承っているんです。初回のクーポンもあるので、よかったらまた来てください」
そう言って、ボディバッグから半分に折りたたんだエステチケットを差し出してきた。客に渡すにはいささか不格好な皺があったが本人はまったく気にした様子はない。
「安いでしょう? 若い女性ってなかなか理容室に来る機会がないから、うちも必死なんです。ぜひ、人助けだと思っていらしてください」
私はチケットを受け取り、礼を言って話を切り上げた。疲れ切った顔を誰かに見られるのは嫌だったからだ。
転職活動を始めて一か月が経とういうころだった。相変わらず、私のステータスは無職だ。心身ともに限界が近づいているのが分かった。
その日は珍しく書類選考が通った会社との面接があった。
午前中ですっかり疲れ切った私は、着替えもせずそのまま眠ってしまっていた。昼寝を邪魔したのは携帯の着信音だった。コールはしつこかった。空気の読めない電話に腹を立てたが、ディスプレイの名前を見て一気に覚醒した。相手は今日の面接先を仲介したエージェント。
期待に胸が震えた。
色良い返事ほど早く来るのは、就活のセオリー。だが、現実はあっさりと期待もセオリーも裏切った。あっけなく終わった通話。スマホが手から滑り落ちる。真っ暗な画面を茫然と見つめた。あの和やかな、さも採用が本決まりと言わんばかりだった時間はなんだったんだ。
今度こそ、うまくいくと思ったのに。
西日が差し込む部屋。
昨日あけた発泡酒の缶が転がっているのを見て、ひどく気分が落ち込んだ。
今までこんな事はなかった。私の部屋はいつだって整頓されていたしチリや埃だってないように掃除にも気を配っていた。それが、ここにきてからはこのざまだ。
頭を掻きむしる。指通りの良かったはずの髪がごわごわと絡みつく。最悪だ。頬を撫でる。ざらりとした肌の感触。吹き出物がいくつも顎にまで広がっていた。自分が崩れていく。どんな形をしているのか、鏡を見るのが怖かった。どうにか、どうにかしないと。
焦りと不安の中で、数日前の記憶が蘇る。
エステのクーポン……!
飛び起き、脱ぎ捨てたデニムのポケットを漁る。六十分二千円のお試しコース。破格だ。
瀕死の財布の事情を考えたが、こんな醜い顔が少しでもマシになるなら二千円くらい惜しくない。
時計を見た。午後四時。私はすぐに予約の電話を入れ、店に向かった。
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」
マスク男がにこやかに応対してきた。店内には他の客もスタッフもいなかった。休憩中だろうか。
前回と同じくマスクに案内されたのは薄いピンク色のカーテンで仕切られた一席。控えめなクラシックのBGMが、やけに大きく聴こえた。
「本日はエステコースとのことで。……それと、先日は突然お声がけしてすみませんでした。でもまたお越しいただけて嬉しいです。もう一度お会いしたかったので」
相変わらず、このマスクは心をくすぐるのが上手い。
私は肩が凝っている事と、肌荒れが気になる事を告げた。
マスクはニコニコと『それじゃあ、思い切り綺麗になりましょう』と笑った。
まずは、肩と首筋、背中を揉まれた。男性特有の大きな手のひらと指の腹による圧迫はなかなか心地よい。アロマの香りも、前回よりも強く感じられた。
「この前、近くのコンビニでお会いしましたけど、このあたりにお住まいなんですか?」
男の質問に私はそうだと答えた。
「ああ、やっぱり。お電話をいただいてすぐのご来店だったので。僕もこの近くに住んでいるんです。といっても引っ越したのは最近なんですけど」
心地よく施術を受けている間、マスクは自分の事をあれこれと話した。
半年ほど前から人手不足のために系列の店舗を転々としてきたこと。ようやくこの店に落ち着けそうなことと、下町情緒あるこの街が気に入っていること。
下らない雑談だが、不思議と嫌じゃなかった。
マスクはちょくちょく私にも話を振ってきて、その度に私はほんの少しの見栄と嘘を交え答えた。男はその度に私を讃えた。
「お仕事は何をされているんですか?」
ヘッドハンティングで転職。今は有給を消化している。と答えた。
「ヘッドハンティングなんてドラマや映画みたいだ。かっこいい」
嘘は、言ってない。
いずれ優良な企業が私の能力を欲する。今はただ休息をしているだけなのだ。
「こんなにお綺麗でバリバリ仕事ができて、お客様のような方と仕事ができたら幸せでしょうね。あっと、これはセクハラかな」
Tゾーンにクリームを塗りながら男はしゃべり続けた。
そうね。私は部下の指導にも力を入れた。そうすると上から評価されるから。私の仕事にも有益だったから。
アロマとマッサージでふわふわした意識の中で、不快な記憶をぽろりとこぼした。
使えない部下がいた事。指導を少し厳しくしただけで音を上げた事。さすがに自殺した事は言えなかったけれど、頭を解される心地よさから生まれた油断が、口の滑りをよくした。
「それは大変でしたね。ところで、その部下は若かったんですか?」
そう、若い男だった。
丁度、引っ越し初日、ファミレスで会った雄猿くらいの年代。二十代後半。一番生意気が過ぎる社歴。出る杭は私の歩みの邪魔だ。だから徹底的に叩いてやった。くだらないミスに塗れた書類に、毒にも薬にもならない企画書。指示をしなければ言われた事しかしない上に、いつまで経っても私の意図を組もうともしないクズ。
「……その男性社員って、今どうしてますか」
なぜそんな事を聞くのだろうか。マスクには関係ない。私は知らないと答えた。
「生きているかどうかも、分からないんですか? ――……」
マスクは私の名前を呼んだ。フルネーム。
反射的に目を空けた。それまでのぼんやりとした意識が一気に覚醒する。目元に当てられたタオルを剥ぎ取り体を起こした。
「おや、どうかされましたか?」
目の前で微笑むマスクとシジミの顔が重なる。
――あなたを殺しにくる人がいます~。
――名前以外は知られていないから安心ですね~。
全く信じていなかった。
この一か月間、身の危険を覚えることなんてなかった。
転職活動のためには様々な人間に身分を明かす必要があった。
転職エージェントや派遣のコーディネーター。買い物でカードを切ればサインをしたし、ここではカウンセリングシートに名前を書いた。
そうだ、名前を、書いた。
いつの間にかクラシックは消えていた。道路を行き来する車や子供たちの喚き声も消えた。カーテンの向こうからはなんの気配もしない。この空間だけ切り取られたような、仄暗い不気味さがあった。
――あなたを殺しにくる人がいます~。
――名前以外は知られていないから安心ですね~。
思えばシジミからその話を聞いた後、素性を明かしてから二度、三度と会ったのはこのマスクだけだ。
でも、でも、でも。
この男が、このマスク野郎が私を殺そうとしている?
なぜ? 私はこいつと面識はない。嫌な汗が背中を伝う。マスクはほっとしたように言った。
「期間ギリギリでしたが、やっとお会いできて本当によかった。危うく俺が死ぬ所だった……死ぬべきは、アンタなのになあ」
マスクはついに私を『アンタ』と呼び捨てた。エステコースでは使うはずのないカミソリをしっかりとその手に握りながら。
ひく、と頬の肉が引き攣る。
なんで、どうして。私には殺される理由なんてない。
ゆっくりと、慎重に立ち上がった私にマスクはカミソリを向けた。
手入れが行き届いている、プロの道具。鋭利な刃が私の喉を切り裂くのを想像した。
私はバイオリン、カミソリは弓。そして、メロディは悲鳴と血しぶき。奏者はマスク男。
冗談じゃない。そんな趣味の悪いクラシックなんて聞きたくない。
私は問いかけた。私があんたに何をした。
しばらくの沈黙の後、白い布の下でゆっくりと口が動く。
「お前のせいで弟は死んだんだ」
弟……?
「自分が自殺に追い込んだっていうのに忘れているのか? ああ、殺すにふさわしい最低なクソ女だ!」
その時、黒く塗りつぶされていた記憶がカミソリの刃のようにキラリと光った。
そうだ、この目には見覚えがあった。少し垂れ下がった、気の弱そうな二重! イライラするからまともに顔も合わせていなかったからすっかり記憶から消え失せたバカの顔。それとマスクの目元は、瓜二つだったのだ。根暗で、返事も碌にできないカス。指示した事も一から十まで説明しても分からない愚鈍を絵に描いたような人間だった。だから叱った。当然だ。
指示したよね? どうして確認しないの? それくらい小学生でもできるよね? アンタ学歴詐称してるの? 人事は騙せても取引先は騙せないよ。
そう言った時、涙を見せた。
だっさ。
嫌悪のまま私は言い捨てた。
次の日から奴は出社してこなかった。
電話をかけても一向に通じる気配はない。理由はどうであれ、無断欠勤など言語道断。結局連絡がついたのは夕方で、私ではなく同期へ退職の意向を告げるメールが届き、後日退職届が郵送された。奴の私物の処分は部下にやらせた。半年の試用期間を終える事なく退職。まったくの根性無しだ。指導した時間は全て無駄に終わった。
腹が立つと共にほっとした。伸びしろの無いゴミを育てる気はない。上に掛けあって、次はもっと使える人材を補填してもらおう。
新しい部下を抱え、忙しくも充実した日々を送っていた。ある日のことだった。
奴が死んだという一本の電話がオフィスに水を打ち、やがて不穏なざわめきを呼んだ。
自殺だったらしい。遺書はなかったそうだ。
通夜には行かなかった。裂く時間も香典ももったいない。
だが、その日から明らかに周囲の目が変わった。ひそひそと聴こえる声の端々に『あの人のせいで』『殺されたようなもの』『追い込んだ』そんな言葉が漏れ聞こえた。それから間もなく上司から面談だと呼びつけられ、左遷。結果的に私は会社を辞めた。パワハラの濡れ衣を着せられたまま。
被害者は、むしろ私だ。
「お前のせいで、弟は仕事を辞めたんだ」
違う。それはあいつの責任だ。
「お前のせいで、弟は心を病んだんだ」
そんな事知らない。退職後まで面倒みきれない。
「お前のせいで、弟は何もできなくなって、自分に絶望して首を吊ったんだ! 遺書もかけずに、ただ、ただ首を吊って……。愚痴もこぼさず毎日真面目に仕事に行っていただけなのに……くそくそ! あの時もっと話を聞いていれば! 上司とうまくやれないなんて、あいつらしくない弱音をちゃんと聞いてやればよかった! お前のせいだ! お前の! お前のせいだああああああ!」
煩い! 黙れ! 自分の不出来を人のせいにするな!
仕事についていけないなら相応の仕事につけばよかった。適正を見誤ったのは他でもない自分だ。退職したってその後、適職を探せばよかったんだ。それなのに、勝手に被害者ぶって、拗ねて、首をつって。それが私のせい?
じわじわと燻っていた怒りが爆発した瞬間だった。
マスクは大声を上げてカミソリを振りかぶった。咄嗟に身をかわしはしたが、背中を壁に強く打ち付けてしまった。でも、そんな痛みにかまけてる場合ではない。
殺されてたまるか……!
近くにあったワゴンを蹴り飛ばす。思いの外威力があったらしく、マスクの腹に角が当たる。うめきよろめいたその隙に何か武器になるものを、と咄嗟にあたりを見回した。棚に飾ったシャンプーのボトルを手当たり次第投げつける。
男の力には勝てない。どうやっても勝てない。でも、でも、絶対にこんな奴に殺されるのは嫌だ。
棚がすっかり空になり、とうとう武器がなくなった。マスクはこれ幸いと再び刃を向けてきた。目の前で斜めに空気を切り裂く直前、右手を上げた。が、間に合わなかった。
頬に痛烈な熱を感じた。それから、頬と唇がトロリと濡れる。舐めると、鉄の味がした。
切られた。
顔を。
私の、顔を……!
このヤロウ……!
「ああああああああああ!」
野太い声が自分のかマスクのかも分からないまま店に響いた。蹴り上げた足が、お気に入りのパンプスが股間に食い込んでいる。
ぐにゃりとした気色の悪い感触に顔を顰めた。
マスクは身体をくの字に曲げて、床に崩れ落ちた。股間を両手で覆い、胎児みたいに丸まって汚い悲鳴をあげている。
転がったカミソリを拾った。磨かれた刃に私が映っている。
一の字の傷。こいつは私の喉を狙ったんだ。
横になって呻くマスクを思い切り蹴り飛ばした。
憎しみと怒りのまま、転がったマスクを何度も何度もヒールで蹴り飛ばす。金的の痛みはずいぶん後を引くらしく、立ち上がる気配はまるでない。
この野郎! よくも! よくも!
顎を蹴り飛ばし無理やり仰向けにする。さっきよりも汚い悲鳴。耳障りだ。けれど、負け犬にはお似合いの遠吠え。
この愚図の弟のせいで私は職を失い、この愚図の兄は私の顔に傷を付けた。
私の顔に傷を付けた。
私の経歴に傷を付けた。
私の人生の邪魔をした……!
殺そう。
殺されるくらいなら、殺してやる。
厳然とした決意が固まった。
マスクに覆われていて顔は見えないけれど、悶絶の中でその目はしっかりと私を睨みつけていた。
あの愚図も私に注意をされる度にこんな顔をしていた。まったく兄弟そろって不出来にもほどがある。
上半身を跨ぎ、喉ぼとけにカミソリをあてた。ラクダのこぶみたいな喉ぼとけに押し当てる。やめろ、と掠れた声を無視して思い切り手を引いた。意外にもふわりと血が噴き出した。皮がはがれて肉が見えた。
初めて味わう手応えは、癖になりそうな危うさがあった。繰り返すとだんだんと面白くなって、子供みたいに何度も何度も喉をかっさばいた。顔や身体にかかる返り血。マスクの身体に滴る私の血。
奇妙な一体感があった。
真っ赤に変色したマスクの下は、すっかり静かになった。
終わったのだろうか。私は、勝ったのか?
ぼんやりと動かない血塗れの肉塊を見ていると、パチパチと場違いな乾いた音が聞こえてきた。
「いやあ~、お見事~、お見事です~」
これ以上ない程目を見開いた。
シジミ……!
痛快なショーを見た。そんな顔をしながらやる気のない拍手を続けている。
どこにいた? いや、どこからやってきた? 聞いてもシジミは笑っているだけだった。
「それでは~、これにて『案件』はあなたへご紹介させていただきますね~。ご希望の職種~、給料~、福利厚生等ありましたら遠慮なくおっしゃってください~。もちろん住居についても最大限配慮しますよ~。仕事に関係のある事でしたら全ての望みを叶えます~。それが私たちハッピーハローワークの務めですから~」
仕事? この状況で何を言ってるんだ。そんなことより、死体は? 私の傷は? 病院へ、いや、救急車を呼んで、ああでもこんな事が公になったら私は捕まってしまう。いや、大丈夫、正当防衛だ。だってこいつは私を殺そうとしたんだから。
そうよね、シジミ。と早口でまくし立てていた。
「死体の処分は任せてください~。『お仕事』の引継ぎですので私たちの業務です~。それからお顔の傷については~……う~ん、そうですね~。早急に病院に行った方がいいかもしれませんねえ~。結構ざっくりいっていますし~。さすがプロの道具~。え~? いやいや~。その傷は私たちの管轄外です~。ご自分でなんとかしてください~」
私は食らいついた。シジミの言う『引継ぎ』中に起こった事ならアンタたちがなんとかするべきじゃないのかと。その時、どうしてか私はシジミなら顔の傷も、なにもかも綺麗に直してくれるんじゃないかと思い込んでいた。完全に気が動転していたのかもしれない。
「お助けしたいのはやまやまなんですが~、なにしろ規定にございませんので~。ほら~、この人もね~、試用期間に入る前にあなたと同じように怪我をしたんですけど~……」
骨みたいな指が血まみれのマスクをずり下ろす。
そこにあったものを目の当たりにして、うっと顔を背けた。
マスクの下の肌は溶けた飴がそのまま固まったようにぐちゃぐちゃになっていて、歯茎がむき出しだった。ケロイド? 視線を何度か往復させる。
「このお兄さん~、中学ではちょっとしたわんぱく坊主だったんですよ~。早い話がヤンキーってヤツですか~? そっち方面の人に大きな怪我を負わせたようで~、やっぱり恨まれていたんですよね~。それであなたと同じく殺し合いになった時に顔を燃やされたんです~。いやあ~、あの時の殺し合いも白熱していました~。どちらが仕事をもぎとってもおかしくなかった~。でも人間って追い詰められると強いもので~。見事な逆転勝ちでしたよ~。あなたのように一方的ではありませんでしたが~」
耳障りな笑い声に私はもう何の感情も揺らがなかった。
「それで~、どうしますか~? どんなお仕事がお望みですか~? 転職活動はもう疲れたでしょう~。これで終わりますよ~」
ああ、そうだ。仕事。転職活動。
私は……。
私の望み。
私、は……。
***
顔を洗い、血を洗い流すと気分が良くなった。
私は今、築浅、低層階のマンションの一室で株を転がしている。読みが外れた事はない。通帳の残高は増える一方だし、欲しいと思うものはすぐに買えた。クレジットカードの色は黒に変わった。
外出にマスクは欠かせないけれど、外商に言えばほとんどのことがどうとでもなった。外商担当は優秀な人間で、私の好みを敏感に嗅ぎ取りハイブランドの新作が出る度に見立ててきた。その殆どは袖を通さないままウォークインクローゼットで眠っているが、それでも私は満足だ。
たまの外出も移動手段はタクシーばかりでヒールがすり減ることもない。財布とハンカチしか入らない機能性のないバッグばかりが増える。もう、A4サイズの書類をもってあちこちを駆け回ったり電車に揺られる事もない。そして、私を煩わせる部下も、不当な評価を下す上司も、くだらない噂をまき散らしす同僚もいない。
一人きりで過ごすこのマンションは私の全てで、幸福を凝縮したユートピアだった。
けれど、まだ"試用期間"。油断はできない。
あの日、シジミは言った。
――あなたを殺しにくる二人を殺してください~。そうすれば~、本採用です~。
今度は私が殺しに行く番ではないのか? 聞くと、初めてシジミは崩した笑みを浮かべた。
――あなたは自分以外の全てが憎いでしょう~? キリがないので~、今回はこう言った形にしました~。
そして、抗議する間も無く死体と共に姿を消した。
店は乱闘の残骸などなく元通り。顔に深い傷を負った私一人が取り残された。
今日の死体の処理は済んだのだろうか。
玄関に戻る。何もかも綺麗になくなっていた。シジミは仕事が早い。薔薇の香りもとても心地よい。
さっき殺した男は私が以前、ファミレスで顔を合わせた二匹の雄猿の片割れ。奴らは私の正しい行いにより、正しく職を追われ、業界からもつまみ出されたらしい。他にも何か恨み言を喚き散らしていたが、玄関先で騒がれるのが鬱陶しかったからサクっと殺した。
あいつの凶器は見るからに安物の包丁だった。笑ってしまった。人生を、命を懸ける殺し合いにそんなお粗末な武器で臨むなんて。
マスクと違い、あっけないくらい簡単にクズは死んだ。
だが、あと一匹やってくる。
あの日、ファミレスで騒いでいた雄猿はもう一匹残っているのだ。
インターフォンが鳴った。
外商がやってくるのは明日のはずだけれど。
カメラを見た。みすぼらしい男が一人。宅配業者の恰好をしている。が、今日は何の配達依頼もない。
第六感が告げている。
そうね、煩わしい事は、さっさと片づけた方がいい。
幸せも、成功も努力で掴むものだ。
そして、私は絶対にこの幸せを手放さない。
オートロックを解除し、洗面台に置いたカミソリを再び握りしめた。
ハッピーハローワーク~素敵な私と些末なゴミ達の話~ 今野綾子 @yamamori-un5
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