スーパー夢にっき

以医寝満

蛾、ねえちゃん、川。

 皿には親指ほどの虫がのっていた。

「モルは初めてかね? 仰向けにするのだよ」

 名も知らぬ壮年の紳士が、ナイフで器用にモルの腹を切り開きながら言った。

「ええ。フォスなら食べたことがあるのですが」

 嘘だ。モルは食べたことがないしフォスなんてものは知らない。

「そうか。モルはいいものだよ」

 紳士はそう言うとフォークでモルの腹の中身をすくい口に運んだ。モルは蛾であった。フォスも多分そうだ。

 薄暗い店内、白いクロスの丸テーブルは三人掛けで私の左隣が紳士だった。もう一人は誰でもなかった。

 私は紳士に倣ってモルを仰向けにし、腹をナイフで割って中身をすくい上げた。フォークの先で焦げ茶色のものが糸を引き、卓上の蝋燭の灯りを反射してぬらぬらと光沢を得ていた。

 率直に言って抵抗がある。

 昆虫食を知らぬ訳でもない。しかし蛾である。

 蜂の子やイナゴの佃煮なら聞いたことがある。でも蛾である。

 成虫になる前、芋虫ならまだ分かる。されど蛾である。

 本当は今からでも断りたいのだが、こうして皿の上にある以上、そして一度手をつけてしまった以上は観念して食べなければならない。私は意を決してモルの腹の中身を口に含み、舌の上にのせた。

 不味いとも美味いとも言えなかった。見た目通りの濃い味は、深いコクがあると言えばそうだし、臭いと言えばそれもそうだ。ほろ苦いような気もするし、ただ単に苦いだけのような気もする。とろけるような食感とも言えるし、ネバネバしていて気もし悪いとも言える。鼻に抜ける香りはどことなくフルーティーでもあり、腐臭のようでもある。

「どうかね?」

 どうかね、ではない。今ならどちらもあり得る。「美味い」とも「不味い」とも判定を下すことが出来る。ただし、一度下したその判定は、今後、絶対に覆らないということだけは確かである。不味いと切り捨てるのは簡単だ。しかし一寸の虫にも五分の魂と言うように、正にその虫を殺して食してしるのだから、出来れば無碍にはしたくない。

 紳士の問いに答えるまでの猶予、口の中ものを嚥下するまでの僅かな時間に、私はいたく逡巡していた。

 そうして悩みぬいた挙句、私は姉と魚を釣りに行くことになった。

 因みに、私に姉はいない。


 姉は、私と顔も名前も知らない私の友達三人を引き連れて海へ向かった。そこは近所の船着き場で、小さな漁船が十隻ばかり停泊していた。

「釣りするぞ。棒と糸を拾って来い」

 姉は桟橋に仁王立ちして私と三人に命じた。

 釣りか。ここでか。知らんが漁協が黙っとらんぞ。

「大丈夫だ!」

 姉が桟橋から飛び降りた。飛び降りた先は水深がくるぶし程度しかない川の浅瀬ではあったが、それでも勢いよく水が跳ねる。

「ほらな」

 姉は得意げに笑っていた。ばしゃばしゃとはしゃぐ姉は日焼けしていて、髪は短そうに見えるが、もしかしたら長いのを結んでいるだけかもしれない。光の加減のせいだと思うが、白いワンピースを着ているようにも、濃紺のスクール水着を着用しているようにも見える。

 やれやれと少し呆れつつも、三人の友達が何処からともなく棒と糸を持ってくると、私もすっかりその気になって川へと足を踏み入れた。

 幅の広い川だった。中州にちょっとした公園があるくらい広い。流れも急だ。川岸は高さのあるコンクリートの壁でしっかり治水されている。

 私たちはそこへ流れ込む小さな支流の出口付近を今日の漁場とすることにした。ここならば本流の川岸から少し奥まってるので、水位も低く水流も殆どない。

 危険はないが魚影はあった。

 私はさっそく川の中を歩き回って釣り糸を垂らす場所を見極めることにした。しかしこれがなかなか決まらない。姉の方を見ると友達三人と一緒にコンクリの壁際で竿を振り回している。それならと、私も姉のいる方へ近づいていった。その途中でふと足元を見た。そこには灰色で、点々と淡く青く光る泥だけがあった。水など無かった。

 馬鹿が。こんな場所ではザリガニも釣れん。

 私はもっと本流に近い所で糸を垂らすことに決めた。浅瀬ではしゃいでいる姉たちを尻目に、ずかずかと本流の方へ歩みを進める。川底が深くなることはなかった。ただ水位がひとりでに増した。流れも多少は急になってきた。水が膝上に達した所で歩みを止めた。

 明らかに流れが変わる境界線が、目の前にある。これ以上進むのは流石に危ない。この辺りでいいだろう。

 私はその場で糸の先に針のような何かを括りつけ、急流にめがけて勢いよく竿を振った。餌は無かった。浮きの代わりにペットボトルのゴミがついていた。

 針のような何かが着水。すぐに水中に沈んだ。私は少しの間、水面で揺られるペットボトルのゴミを眺めていた。

 やはり餌は付けたほうがよかったか?

 そう思った矢先、棒を握る手に一瞬の感触を得た。糸の先、針と浮き、正確にはゴミとゴミだけが流れに攫われたような、確かにそういう感触だった。

 竿のしなりが足りなかったか……。

 しかし、落胆する私の手にはあるはずの棒が握られていなかった。おや、と思い急流の方を見るとゴミと木の棒が浮かんでいた。

 ほう、不思議なこともあるものだ。

 お手製の釣り竿はそのままみるみるうちに上流のほうへと流されていった。

「おーい、そろそろ帰るぞ!」

 姉の声がした。声の方を見ると姉たちは既に川を上がって、高いコンクリの壁の上から私を呼んでいた。仕方ないので私も川から出ようと岸の方へ向かった。ついでに、川岸の壁の下にあるちょっとした草むらを物色してみた。新しい棒が必要なのである。よくしなる棒が。

 棒と言えば草むらだ。いい棒はないものか。

 果たして、棒があった。園芸用の緑の棒だった。しなり具合においてはこれ以上なくいい感じの棒ではあったのだが、どういう訳か所々から枝分かれしており、神話に出てくる使いにくそうな剣のようになっている。おかしな園芸用の棒だと思い、試しに草むらを薙ぎ払う。当然、草は斬れないのだが、かき分けられた草の根元に木の棒が五~六本転がっていた。しかもよくよく見るとただの棒ではない。木刀と弓であった。どれも年季が入っていはいるがよく手入れされているように見えた。

 なるほど、ここは野武士の巣か。

 或いは弓道部の巣かもしれなかった。こうしている間に野武士か弓道部の大群に押し寄せられて囲まれてしまえば何をされるか分からない。野武士は恐ろしい。

 そうと分かれば長居はすまい。

「おい、早く。行くよ」

 姉も呼んでいる。私は園芸用の神剣だけを持って川から上がり、姉の後でぶんぶん振り回しながら家路を辿った。

「いいもん拾ったな」

 姉が振り返って言った。

 まあな、と答えたかったのだが何故だか声が出なかった。

 ところで、この川は半年ほど前に氾濫して街の中心部をことごとく押し流している。

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