第三章ー8

〈ファントム〉は素早く、ダガーナイフを投擲した。


 道化はそれを指で受け止めて投げ返す。命中する直前、〈ファントム〉の体は虚空に混ざるようにしてかき消えた。


「また消えた!」

「やれやれ」


 さらに、四方八方から足音が響く。スピードもテンポもばらばらだ。足音は次第に大きくなり、舞台そのものが揺れ動くかのようだった。


「おじさん!」


 ミドリは拘束していたしもべ――今は気絶している――を無理に引き剥がし、舞台から飛び降りた。ダンもこちらに向かってくるが、その間に割り込むようにして〈ファントム〉が立ちはだかった。


「っ……!」

「行かせると思うか?」

「ミドリっ!」


 ダンが〈ファントム〉を羽交い絞めにしようとしたが、その腕は空ぶった。たたらを踏んだダンは、「どこへ行きやがった!」


「おじさん、後ろっ!」


 ダンは反射的に、背後に裏拳を見舞った。〈ファントム〉の姿が見えたのはごく一瞬で、またしても空ぶりに終わる。


「くそっ! 道化野郎、なんとかしろ!」

「言われずとも」


 道化は舞台から客席へと飛び跳ねる。〈ファントム〉が姿を現した瞬間にカラーボールを投げつけるが、床や椅子に塗料をぶちまけるのみだった。


 道化はミドリのすぐ近くに着地し、注意深く周囲を見回す。


「私を捉えきれるか?」


〈ファントム〉の声。


 そして舞台上にも客席にも、何人も〈ファントム〉が出現した。消えては現れ、現れては消える。その〈ファントム〉たちが一斉にボーガンを構えた時——道化の足元に矢が突き刺さった。


「なっ……本物はどこだ!?」

「わめくなよ、刑事。集中できないだろう」


 ボーガンをマントに戻し、すべての〈ファントム〉がナイフを顔の前に掲げる。そのナイフを前方に突き出すや、道化のわき腹から鮮血が噴き出した。


「道化さん!」


 とっさに道化が背後にカラーボールを放る。しかし、今しがたまで道化の背後にいた本物の〈ファントム〉には当たらなかった。


 わき腹を押さえ、「参ったね」


「なかなか捕まえられないな。さすが〈ファントム〉と名乗るだけのことはある」

「のんきに言ってる場合か!」


〈ファントム〉が一斉に消えた。


 またしても姿の見えない足音。腹に響くものに加えて、金切り声じみた甲高い音にミドリもダンも耳を塞いだ。


「く、くそっ! どこにいやが……」


 不意に、足音が止まった。


 突如として訪れた――不気味なほどの静寂。


「あうっ!」


 少女の悲鳴。ホールの隅に〈ファントム〉と、首を掴まれているアオイの姿があった。彼女の足は地から離れ、もがいている。〈ファントム〉のナイフが首筋に近づけられ、アオイは怯えをあらわに目を見開いていた。


「アオイ!」

「アオイちゃん!」

「おじさ……お姉……」


〈ファントム〉は口の両端をつり上げ、「全員動くな」


「そこの道化者もだ。子供を巻き込むのは本意ではあるまい?」

「……人質かい。よほどなりふり構っていられないんだね」

「お前がそうさせたのだよ」

「やれやれ。……で、どうするつもりだい?」

「そうだな……」


〈ファントム〉は顔を上げ、またしても笑った。


「私の舞台を台無しにしてくれたお礼だ。この娘を、お前たちの目の前で八つ裂きにしてくれようか」

「やめろッ!」


 ダンが駆け出すが、到底間に合わない。


 アオイの首に、〈ファントム〉の指が食い込む。ナイフが彼女の首に刺さろうとする瞬間——〈ファントム〉の腕が途中で止まった。


「……ん!?」


 手が進まない。


 まるで何かに引っ張られているように。

「——なんだ、これは?」


〈ファントム〉の袖を掴んでいたのは、白い手袋に包まれた手だった。しかし、〈ファントム〉の背後には誰もいない。手の先——非常に長く伸びた腕が、〈ファントム〉を捉えていたのだ。そしてその腕は客席の下から伸びている。


〈ファントム〉はとっさに、道化に首を向けた。片腕を隠すようにして、悠然と体を傾けている。


「まさか貴様!」

「そこまでだよ、〈ファントム〉」


 ナイフが叩き落される。


 さらに、伸びた腕が〈ファントム〉の首に巻きついた。蛇のごとき締め上げで、〈ファントム〉の喉から呻き声が漏れる。


「お、おのれ……!」

「今だ、刑事!」

「わかってる! アオイ!」


 ダンは勢い任せに〈ファントム〉に肩からぶつかった。さらにナイフを蹴り飛ばし、アオイを抱きかかえ、一気に出入口まで走っていく。ちょうどその時血相を変えて飛び込んできたアカネと鉢合わせした。


「おっさん!? アオイ!?」

「アカネお姉!」

「馬鹿野郎、何をしてたんだ!」


 ダンはアオイをアカネに預け、すぐさま体を回す。〈ファントム〉は片膝をついて立ち上がるところで、加えて宙には道化の腕が浮いていた。


「何、この状況……」


 アカネが呆然とつぶやく。


「後にしろ! ……おい、道化野郎! これがお前の力なのか?」

「ちょっと違うかな」


 道化は腕を戻しながら、ちっちっと指を振った。


「僕の力なのかといえば、答えはイエスでもありノーともいえる」

「何を言ってんだ、お前!」

「道化さん、まさか……?」


 この時ミドリの脳裏にあったのは、『彼』のことだった。背中から巨腕を生やし、自在に操ってみせたあの〈マスカー〉の力。


 道化は人差し指を「しぃー」と口に添えた。


「あまり種明かしはしないものだよ。あと、この力はそう長くはもたない。手早くけりをつけないとね」


 道化の視線の先——またしても〈ファントム〉が消える。


 そしていくつもの〈ファントム〉の出現。ボーガンを構え、道化を狙う。


 だが。


「そこだね」


 腕を伸ばし、舞台の中央に立つ〈ファントム〉の手をひね、ボーガンをはたき落とす。


 さらに、道化の手が〈ファントム〉の襟首を掴んだ。ぐいんと腕が大きくしなり、〈ファントム〉の体を思いきり舞台の上へとぶん投げた。


「がっ……!」


 受け身を取れず、倒れ込む。


 落下した照明に手をつけて立ち上がろうとして――はっと顔を上げた。


 天井に腕を伸ばした道化が――あたかも空中ブランコのように――宙を舞い、飛び込んでいく。勢いづけた両足が、そのまま〈ファントム〉の腹部に叩き込まれた。


「ぐあっ!」


 壁に激突し、その反動で顔から床に倒れ込む。


「マキ先輩!」


 思わず叫ぶと、〈ファントム〉が拳で床を叩いた。荒い息をつき、なおも体を起こそうとしている。


「私は、マキなどではない……!」

「何を言っているんですか!」

「貴様らなどにわかるものか! 好意の対象が女性というだけで、拒絶される人間の気持ちが! 許されざる恋だとわかっていても、成し遂げたいことがある……! 普通の人生を謳歌している貴様らには、決して理解できんだろうがな!」

「マキ、先輩……」

「そこまでにしておきたまえ」


 道化が〈ファントム〉のそばに立つ。

「な、なぜ私の姿が……!」

「君の分身は、鏡のようになっていたのだよ。つまり君が右手を動かせば、分身は左手を動かす。そういうことだ」

「……!」

「これにて閉幕だ。カーテンコールはない」


 そう言い、〈ファントム〉の仮面に手をかける。


 そして――中条マキの素顔が、白日の下に晒された。着けていた仮面は道化の手の上で塵と化した。


「あ、ああっ……」


 仮面の残滓がマキの目の前で舞い、がくりとうなだれる。


 ミドリが舞台に近づいても、マキは面を上げようとしなかった。


「マキ先輩。もうやめて下さい。これ以上罪を犯さないで下さい……」

「…………」


 道化がミドリに一瞥した――その時、マキが隠し持っていたダガーナイフを放った。狙いは道化ではなく、ミドリだった。


「え?」

「ミドリくん!」


 ミドリはその時、マキが笑ったのを見た。


 歪んでいた。


 壊れていた。


 今までマキが口にし、交わした言葉がミドリの中で瓦解する音を確かに聞いた。


 道化たちが自分の名を叫んでる。


 でも――もう間に合わない。


「ぐっ……!」

「なっ!」


 ミドリとマキとの間に割り込んだのは、エリだった。肩に刺さったダガーナイフを抜いて、傷口を押さえる。


「久良木先生!」

「大丈夫……」


 エリはミドリを手で制した。


 そして首を振り、「もうやめなさい、中条なかじょうさん」


「エリ、なんで……」

「あなたが私のことを想ってくれていることは嬉しいし、少なからず理解もできる。でも、やり方が間違っている。本物の〈ファントム〉になって人を惑わしても、それで救われるとは限らない。そんなことはあなた自身が一番よく理解できているはず」

「それでも! それでも私は!」

「あなたに操られている間、私はずっと夢を見ていたわ」

「…………?」

「あなたが一人でいる夢を。誰からも理解されず、自らのことを仮面で覆うしかない。人に合わせて笑っているふりをして、ずっと一人で別のところに立っている。そんなあなたを私は、哀れだと思ったわ」

「エリ……」

「だからもうやめて。今のあなたを見ていると辛いの」

「…………」


 マキはうつむき、体を震わせ――嗚咽を漏らした。


「うう、う、ううう……っ」


 誰も何も言わなかった。


 マキのむせび泣く声だけが、ホールに響いていた。

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