第三章ー7
誰もが言葉を失っていた。
ミドリも、演者も、そして観客も。次第にざわつきが起こり、「あれって〈マスカー〉じゃない?」と声が上がった。
「〈マスカー〉だって? いや、嘘だろ?」
「演出じゃないの?」
「でも、今までに一度も出てこなかったぞ」
「——道化野郎!」
困惑の空気を破り、立ち上がったのはダンだった。ミドリから見て客席の左側ブロックにいる。その隣にはアカネとアオイもいた。
ダンは続けてがなり立てる。
「てめぇ、どうやって出てきた!?」
すると道化はうるさそうに手で耳を塞いだ。
「相変わらずやかましいね。そう怒鳴らないでくれたまえよ。僕にかかれば縄抜けなんてお茶の子さいさいさ」
「縄抜けってレベルじゃないだろうが!
「ああ、彼なら昼寝していたよ」
「んなっ……」
「あんまりにも隙だらけなんで、正直言って拍子抜けしたね。あれが君の後輩だと、さぞかし苦労するだろうね」
「てめぇに心配される筋合いはねぇ!」
「やれやれ」
道化は墓の上から飛び降り、〈ファントム〉——エリの眼前に立った。両者はそのまま動かず、視線を交錯する。
ミドリは舞台に上がり、「道化さん!」
「やぁ、ミドリくん。しばらくぶりだね。元気にしてたかい?」
「そんなことを言ってる場合じゃ……!」
「わかっている。まずは〈ファントム〉のたくらみを阻止しなくてはね」
「道化さん、待って! その人は――」
す、と道化が手で制する。
「わかっているよ。この人は本物の〈ファントム〉ではない」
「え?」
「だが、まったくのシロというわけでもない。そうだろう?」
エリは身じろぎひとつしなかった。
「
「…………」
エリは腕を水平に伸ばし、指を鳴らした。すると、ホールの出入り口から仮面をつけた人間たちがぞろぞろと出てきた。あの病院で見たものと同じ仮面——〈ファントム〉のしもべだ。生徒もいれば教師もおり、一般人の姿もある。
「久良木先生!? 一体、何を……」
もう一度指を鳴らすと、しもべたちは手近な客を拘束した。さすがにおかしいと気づいたらしく、客席から続々と悲鳴が上がる。
「きゃっ!?」
マキの後ろからしもべが近づき、彼女を羽交い絞めにした。口を塞がれ、そのまま舞台袖へと引っ張り込まれる。
「マキ先輩!」
とっさに駆け出そうとして――ぐん、と力強く引っ張られる。こちらの方にもしもべが潜んでいて、完全に自由を奪われた。
「ミドリっ!」
ダンが身を乗り出すが、アカネが袖を引っ張って制止した。いけない、というように首を振っている。ダンもこの状況では分が悪いと察したらしく、歯を食いしばった。
「人質とはね」と道化はホール中を見回した。
「ずいぶんと古典的な手じゃあないか。下準備をしてあるとは、恐れ入るよ」
「舞台のすべては入念な準備から始まるからな」
〈ファントム〉の言葉に、「同感だ」と道化がうなずく。
ミドリはその声に違和感を覚えた。病院で聞いたものとは違う。今の〈ファントム」の声は、紛れもなくエリのものだった。
「ただね、やりすぎだと思わないかい?」
「万が一の場合に備え、考えられる手をすべて打っておくのは当然のことだ。これだけの人数……傷ひとつつけずに逃がせられるとでも思うか?」
「まぁ、普通は無理だね」
道化はあくまでも飄々としている。
「でも、僕らは普通じゃない。そうだろう?」
「……何か手があるとでも?」
〈ファントム〉がマントからボーガンを取り出す。両手で構え、狙いを道化に定めた。
「おかしな真似をしようとは考えないことだ。貴様が
「まぁ、そう言わずに。ところで気づかないかい?」
何も持っていない手をひと振り。手品のつもりなのか、指の間に黒光りする小さな物体が挟まれている。遠目からではよくわからないが、ボルトのようにも見える。
ぎ、と頭上で何かが軋んだ。
「——!」
〈ファントム〉が顔を上げるのと、それが降ってきたのはほぼ同時だった。
鉄製の――重さ十キロは余裕で超える――照明が落下してきたのだ。とっさに飛びのいた〈ファントム〉の目の前で、舞台に叩きつけられる。
しかも、ひとつだけではなかった。
二つ、三つと照明が連続して舞台に降り注ぎ、大道具がたやすく粉砕した。けたたましい音と悲鳴が上がる中——「刑事!」と道化が鋭く叫ぶ。
「今のうちだよ。早く避難させたまえ」
「なっ……」
唖然としていたダンは、すぐさま出入り口に視線を差し向けた。仮面をつけていたしもべたちが、なぜか一同地に倒れ伏せている。
「にっ……逃げろ! 全員、逃げろ! アカネ、アオイ、おめぇらもだ!」
手を振りながら言い放つと、客たちが――アカネもアオイも含めて――一斉に出口になだれ込んだ。
逃げ惑う客たちを横目に、ダンが舞台上の道化に向かって叫ぶ。
「おい、道化野郎! 一体どういうことだ!?」
「あのしもべたちは〈ファントム〉の声によって操られていたのだよ」
「声だぁ?」
「あの仮面はカモフラージュに近い。なんの力もないことは、あの夜の時にわかっていた。本当に力のある仮面はごく一部の者にしか渡されていなかったんだ。そして……」
「そして?」
「久良木エリ自身も、その声によって操られていた。そうだろう?」
〈ファントム〉は照明から離れた位置で、ボーガンをぶら下げたまま立っていた。顔をうつむけ、一言も発さない。
「久良木先生、どうしたんですか!?」
ミドリが呼びかけても反応はなかった。
そこに、マキが近づいた。いつの間にかドレスからタキシードに着替えている。悠然と微笑んでいる彼女はなんのためらいもなく、〈ファントム〉から仮面を引き剥がした。
「なっ……!?」
驚くミドリたちを前に、マキは素顔をあらわにされたエリの肩を抱いた。
「もう、仕方ないわね。お疲れ様。あとは私がやるから」
「…………」
ぐらり、とエリの体がバランスを失ってマキにもたれかかる。マキはエリからマントを脱がし、優しく床に寝かせた。柔和な微笑みが一瞬にしてかき消え、冷徹な瞳で道化を
「何もかもお見通しというわけ?」
「僕はそこまで万能じゃないさ」
「そういう文句は聞き飽きたわ、道化者。それにしても……やってくれたわね」
髪飾りを取り、床に投げ捨てる。さらに両手指を額に這わせて、ぐいっと髪をかき上げた。
そして〈ファントム〉の――白い仮面を着ける。
「嘘、ですよね……マキ先輩?」
「残念かな? 引島ミドリくん」
声も完全に切り替わっていた。
「どういうことなんですか!?」
「〈ファントム〉は二人いた、ということだよ」と道化が答える。
「ただし、一人はフェイク。本物の〈ファントム〉に操られていたんだ」
「じゃあ、久良木先生は……」
「協力者であり、被害者でもあったということだ。久良木エリは〈ファントム〉に一番近いところにいて、一番影響を受けていたのだろう。彼女を操ることで、いくつもの事件を起こしていたんだ」
「そんな……!」
ミドリはエリと、マキーーいや、〈ファントム〉とを交互に見た。
「マキ先輩、そんなの嘘ですよね?」
「…………」
「嘘だと言って下さい! 道化さんの言うことが本当なら、先輩は久良木先生を利用していたってことになるじゃないですか!」
「利用していた、とは心外だな。エリは私の意思に賛同し、協力し、共に想い合ったのだから」
「でも、仮面の力で操っていたんでしょう!?」
「だからどうした。私はエリを愛している。そしてエリも私を愛している。それを叶える力が仮面だった。それだけの話だ」
ミドリは絶句した。
客席から激しい物音が鳴る。見ればダンが客席の背に、拳を打ちつけていた。
「てめぇ、なんてことをしやがる……! 〈マスカー〉といえど、てめぇは人間だろうが!」
「〈ファントム〉は誰からも人間扱いされなかった」
眉を寄せるダンに、〈ファントム〉は続ける。
「誰も彼の想いに寄り添おうとはしなかった。立場、容姿の違いから恋をすることも――まっとうに人間関係を築くことすら許されなかった。最初から……私もそうだ、悲恋の運命を背負っていた。手を伸ばしても届かないところにある輝きを手にするためには、手段など選んではいられないのだよ」
「そのために多くの人間を巻き込んでもいいってのか!? てめぇのせいで行方不明になって、〈カオナシ〉になった人間だっているんだぞ!」
「だからどうした」
〈ファントム〉は平然と言った。
ダンは拳を震わせて、「てめぇ……!」
ぱちんと道化が指を鳴らす。
「問答はそこまでにしておきたまえ、刑事」
「んだと?」
「今やるべきことはそうじゃない。いかに彼を――いや、彼女を止められるかが問題だ」
「ふっ……私も一部だけ同意しよう。この場でお前たちを始末しなければ、私の願いに支障が出てくるからな」
マントの裾からダガーナイフを抜き取り、一回宙に放り投げてから受け止める。
道化と〈ファントム〉——二人の〈マスカー〉が向かい合う。
「君の願いとは久良木エリと共に生きることかな?」
「そうだ」
「なぜ、大勢の人を巻き込んだのかな?」
「仮面を手に入れるための代償だ。舞台に立つためには……そう、下準備が必要になる。もっとも貴様に話したところで理解できるとは思わんが」
「やり方を間違えた、とは思わないかい?」
「愚問だ」
道化は吐息をついた。
「そうかい。君の想いの強さはよくわかったよ。だがね、そのために君は本物の〈ファントム〉に成り果てた。愛を求めるがゆえに、人の運命を狂わす怪人に」
「説教か、道化者?」
「いいや、前口上だよ。これから君の幕を引くためのね」
道化は軽く開いた右手を頭上に掲げ、すっと下ろして指先を〈ファントム〉に向けた。
「さぁ、全てを――」
そして勢いよく、右手を真横に振り抜く。
「白日の下に晒せ」
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