第三章ー6
多目的施設の地下にあるホールは、小型の劇場と言っても差し支えないほどだった。
百を超える数の席が連なり、
そして入学式をはじめ、オリエンテーションや合唱祭、その他様々な催し物のために頻繁に使われている。ちなみに、この設備は学園長の意向によるものが大きい。教員や生徒の間では、このために学内の維持費用の大半が使われているのではないかと噂されている。
ホールの席は年代や性別を問わず、ほとんど埋まっていた。
その中にはダンもアカネもアオイもいるだろう――そう考えるとなんだか落ち着かなくなり、自分が出演するわけでもないのに、ミドリはそわそわしていた。
本番まで、あと五分。
照明や音楽は他の生徒が担当することになっているため、やることといえば着替えの手伝いぐらいのものだ。後は舞台に立つ――エリやマキたちに委ねることになる。
エリは舞台裏で、生徒たちに最終チェックを欠かさないように指示していた。マキは深呼吸を繰り返し、舞台を注視している。
ミドリは落ち着かない様子で、何度も時計を確認していた。
あと三分、二分、一分……。
やがて――開幕のブザーが鳴った。
「さぁ、出番よ」
エリが告げ、マキ含む部員たちが舞台に上がる。
〈ファントム〉——エリの出番はしばらく後になる。彼女は仮面を顔に着け、腕を組み、何かを待ち受けるかのごとく立っていた。
今、目の前にいるのはもうエリではない。
悲恋の運命を背負った、オペラ座の地下に住む怪人——〈ファントム〉。その姿が病院で見たものと重なり、ミドリは肌が粟立つ感覚を覚えた。
劇はスムーズに進行している。
音楽に合わせて踊る生徒たち。
まだ無名のヒロインを演じるマキ。
簡単なあらすじとして、オペラ座の支配人と副支配人は〈ファントム〉からの度々の要求に憤慨する。あろうことか、まだ無名の新人を抜擢しろと手紙で通達されたのだ。
その要求を突っぱねると、オペラ座のスターに悲劇が降りかかる。それをはじめ、〈ファントム〉からの度々の妨害と脅迫により、とうとう支配人たちは屈した。
一躍抜擢されたヒロインは、姿の見えない〈ファントム〉により歌やダンスの手ほどきを受け、秘められた才能を開花していく――そういう流れだ。
「出番ね。じゃあ、行くわ」
「頑張って下さい、久良木先生」
「ええ、ありがとう」
エリは舞台袖から背景を描いた大道具——いわゆる書き割り――の裏へと移動した。そこから中央に立つマキに向けて、いくつもの言葉を投げかける。
お前はダイヤの原石だ。だが、そのままでは駄目だ。念入りに磨く必要がある。
才能も同じ。どんなに優れていようが、努力を怠る者に未来はない。
お前は違う。お前ならば誰にも手にすることのできない栄光を手にできる。
私の声を聞け、私の言葉だけに耳を傾けろ。
そうすることでお前は栄光の道を歩める。
ヒロインは戸惑いつつも、謎の声の主——〈ファントム〉に導かれていく。
彼女が初めて主演女優として舞台に立った時、反響はすさまじいものだった。彼女の姿を見ようと、歌声を聞こうと、押し寄せる客が後を絶たない。それに伴いオペラ座の評判は日ごとに高まり、支配人たちも舌を巻くほどだった。
やがて――ヒロインに恋をした貴族が出てくる。彼は〈ファントム〉のことなどつゆ知らず、求愛をする。
ヒロインは迷う。求愛を受けたいという思い。オペラ座の女優としてより高みに立ちたいという向上心。そして――謎の声の主を裏切ることになるのではないかという不安と罪悪感。
舞台はオペラ座から、ヒロインの父が眠っている墓地へと移る。
墓地に立つヒロインと貴族は、思いの丈をぶつけ合う。
「私ではダメよ。代わりの人を探してちょうだい」
「君の代わりなどいるものか。僕は君に恋をした。僕の愛を受け取れないというのなら、せめてその理由だけでも聞かせてほしい。僕が嫌いなのか?」
「いいえ、そんなことはない。私もあなたが好きよ。でも……ダメなの。あなたの求愛を受ければ、何かとてつもないことが起こる」
「とてつもないこと? それがなんだというんだ。僕の愛はそれぐらいで揺るぎはしない。僕たちの恋路を邪魔する者がいるのならば、この剣で断ち切ってみせる」
そう言って高々と剣を振り上げた時——〈ファントム〉が現れた。タキシードにマント、顔の半分を覆う白い仮面。
その異装を前にして、貴族は戸惑いをあらわにした。
「なんだ、お前は……何者だ!」
「小僧に名乗る名前など持ち合わせてはいない。今すぐこの場から立ち去れ。そして、二度と彼女の前に姿を現すな」
「なぜお前に指図されなくてはいけない。……いや、まさかお前が『オペラ座の怪人』だというのか?」
「だったらどうする。私を斬るか?」
「当然だ」
ぴっと剣を振る。
〈ファントム〉も剣を引き抜き、互いに様子を窺い合う。
「やめて、二人とも……!」
ヒロインの叫びは二人には届かなかった。剣と剣とがぶつかり合い、金属的な音が立て続けに響く(もちろん本物の剣を使っているわけではなく、効果音による演出だ)。
剣の腕はほぼ互角だった。しかし〈ファントム〉は土くれを拾って貴族に投げつけ、目をくらますことに成功する。貴族を蹴り飛ばし、彼の喉元に剣を差し向けた。
「私の勝ちだ。去れ」
「卑怯だぞ……!」
「愛のためには手段など選んでいられない」
そう言って剣を高く振り上げ、それをヒロインが止める。
そういう筋書きのはずだった。
「なるほど、愛のためか」
突如として割り込んできた声に、舞台上の誰もが動きを止める。
「だが、君の言う愛とはいささか度が過ぎているようだ」
声の主は、墓を模した大道具の上に立っていた。
ひし形の白と黒が交互に配置された衣装、先の尖った靴。そして――顔全体を覆う、白い仮面。
道化は〈ファントム〉を見下ろし、こう告げた。
「そろそろこの辺りで幕を引かせてもらうよ。——〈ファントム〉」
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