第三章ー2

 文化祭の準備は着々と進みつつあった。


 いたるところに看板が立てかけられ、校門前にはアーチが設置されている。簡単な作りの屋台も見かけるようになり、朝から励んでいる生徒たちの数も増えていた。


 特に、演劇部の力の入りようは違った。


 学園長がコンクールでの二連覇を期待しているということもあり、部費は多めに出ているそうだ。基本的にはエリとごく少数の部員が衣装の素材や道具の調達をしてくるのだが、プロが使うようなものも散見された。


 見るのはともかく、触れるだけでも恐れ多いものだった。しかし、エリとマキはまるで普段着を手に取るように扱っていた。


 二人の指示により、準備は滞りなく進んでいた。


 そして多目的施設が利用できるようになったということもあり、地下ホールではより気合の入ったリハーサルが行われている。


「高木さん、少し声が高いわ。ここは抑えて」

「音楽の流れるタイミングが早い」

「指先までの動き、流れを意識して。それではただのお人形よ」


 座席の前列で指示を飛ばしているのはエリだ。彼女の指示によって部員たちは何度も同じ場面での演技を余儀なくされている。


 それはマキに対しても同様だった。

中条なかじょうさん、声に張りが足りない」

「はい、申し訳ありません」

「わかっているでしょうけど、座席の後ろ側まで声が届かないと意味がないの。長い台詞だから大変でしょうけど、常に意識して」

「わかりました」


 ミドリはそのやり取りを聞きつつ、赤ペンを手に台本に目を落としていた。


 マキの協力によって仕上がったとはいえ、本番直前での細かな変更は日常茶飯事だ。エリいわく「満足のできる脚本はないと思った方がいい」とのことなので、常に演技とエリの指示に気を張っている。


 それが一応の救いだった。


 演劇に意識を向けていれば、他のことに気を取られることはないから。




「引島さん、どうかしたのかしら」


 ある日の昼休み――


 多目的施設の屋上にてミドリは一人、たたずんでいた。ここは昼の時間帯のみ立ち入りが許可されている場所で、風と空とを堪能できることから生徒たちに人気のスポットだった。ただし長時間の居座りを防ぐためか、ベンチなどは設けられていない。


 フェンスに手をかけてぼんやりとしていたところに、後ろからマキから話しかけられた。


 いつも通りの優しい声音。


〈ファントム〉とは似ても似つかない声。


「いえ、なんでもないです。ちょっとぼんやりしていただけです」

「今度の公演のこと?」

「そう、ですね」

「何か不安があるのかしら?」

「……その、〈ファントム〉について」


 クルミから聞かされた、〈ファントム〉の噂について説明する。


 近隣の高校で生徒たちが相次いで事件に巻き込まれていること、その首謀者が『オペラ座の怪人』——〈ファントム〉ではないかと囁かれていること。


 それを聞いたマキは、「失礼しちゃうわね」


「〈ファントム〉は私にとって憧れの存在なのよ。それなのに犯罪のモチーフに用いるなんて。もしもその〈ファントム〉とやらに会ったら、とっちめてやりたいぐらいだわ」


 珍しく憤慨している様子だ。


「あなたの言いたいことはわかったわ。今度の公演が今暗躍している〈ファントム〉を連想しないかってことでしょう? でも大丈夫よ。久良木くらき先生が言っているし、私もあなたの台本の修正に関わったから。最後には〈ファントム〉は倒れてハッピーエンド。そうでしょう?」

「はい。わたしも納得して書きましたから」

「それなら必要以上に気にすることはないわ。もし何か言われることがあったら、その時は学園長のせいだとでも言っておけばいいのよ」

「……マキ先輩って、意外としたたかなんですね」

「そうじゃなきゃ人の上には立てないわよ」


 ふふ、と小気味よく笑う。ミドリもつられて笑ってしまった。


 マキはフェンスにもたれ、「ねぇ引島さん」


「こういうことを聞くのは初めてかもね。……あなた、家族は?」

「えっと……叔父と、妹が二人います。一人はアカネちゃんで、もう一人はアオイちゃんっていいます。小学生です」

「そうなの。小学生だと……そこそこ歳が離れているわね」

「そうですね。今は五年生です」

「ってことは、四つか五つぐらい年下かしら。可愛い?」

「あ、それはもう。くりっとした目がとっても可愛いです」

「そうなの。仲がよさそうでうらやましいわ」


 マキがため息をついたので、ミドリは遠慮がちに聞いた。


「マキ先輩にも、きょうだいとかいるんですか?」

「いえ、いないわ。両親だけ。あまりうまくいってないけれど」

「何かあったんですか?」

「あまり大したことじゃないのよ。進路のこととかで意見が食い違っているだけ。誰にでもあることでしょう?」


 マキの横顔に陰が差す。


「一応、行きたいところはあるの。でも、もっと上に行けるはずだって言われてるの。自分で自分の人生を決めたいのに、それを邪魔されてるみたいでいい気持ちはしないわね。普段は放任主義のくせに」


 棘のある口調だった。


 マキもそのことに気づいたらしく、「あら、ごめんなさい」


「なんだか愚痴っぽくなってしまったわね。今のは忘れてくれる?」

「あ……はい。もちろんです」

「悪いわね。こんな話につき合わせてしまって」

「とんでもないです。マキ先輩でも、進路のことでナーバスになるんだってわかって、ちょっとひと安心しました」

「そうなの? あなたも進路で迷ってるの?」

「えっと……そうかもしれません」

「どこか行きたいところって決めてあるの?」

「……まだです」


 ミドリは顔をうつむけた。


「わたし、なんの取り柄もないから。台本を書いたりはしてますけれど、それでやっていきたいのかって言われるとわからないんです」

「そう。久良木先生に相談とかはしてみた?」

「いえ、それもまだ。こんなふらふらした気持ちのままで相談しても、厳しいことを言われそうだから」

「まぁ、久良木先生ならそうでしょうね」


 苦笑する。


「でも、久良木先生ならきっと力になってくれるわ。一見とっつきにくそうだけれど、本当は生徒思いの人よ。ただ不器用なだけ」

「……なんだか、恋人のことを言ってるみたいです」

「そうなの。久良木先生は私の恋人なのよ」


 内緒よ、と人差し指を唇に当てる。


 今度はミドリが苦笑する番だった。


「そろそろ時間ね」


 腕時計を見、マキが言った。フェンスから離れ、半身をミドリに向ける。


「話せてよかったわ、引島さん。またね」

「はい、わたしもです。またお話しましょう」

「楽しみにしているわ。それじゃあね」


 小さく手を振り、屋上を後にする。


 彼女の姿が見えなくなった後も、ミドリはその場にぽつんと立っていた。

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